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せめて涙がながせたら「氷雨さん?」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り返る。
にこり、微笑んで進行方向を変えてこちらに向かってきた。
「清十郎さん、これから練習ですか?」
「はい。氷雨さんは、どうして王城に?」
問いかけに、氷雨さんは鞄の中から書類を見せてくれた。
世界大会に出場する選手が学校を休むための許可証と正式な任命書らしい。
確かに、試合は3月中旬とはいえ、あちらでの生活に慣れるために早めに向かうと聞いた。
三年生が卒業式を迎えてから出発出来るように設定したとも。
卒業式後とはいえ、1、2年は授業が終わっている訳でもなく、公欠にしてもらわなくてはならない。
「一人で、ですか?」
「他に動ける人が少ないですから」
「…ありがとうございます」
告げると、氷雨さんは首を傾げてから、左右に振った。
その真っ直ぐな瞳をあわせて、彼女は少しだけ声を弾ませて言う。
「私は、皆さんと一緒にフィールドに立つことは出来ませんから」
裏方でちょっとお手伝いするくらいしか出来ないんです。
へらり、と笑うその顔に少し不満に思う。
小さなその反応にまで気がつくのか、不思議そうに覗き込まれる。
「あなたがいてくれるだけで、自分は十分です」
素直に気持ちを伝えれば、戸惑ったような反応が返ってきた。
踵を返し、数歩先に進んでから、いつもと変わらない顔で振り返る。
「こちらこそ、ありがとうございます」
そう言ってから彼女は、あ、と気がついたように声を上げる。
「そう言えば、お悩みは解決しましたか?」
相談したいことがあると告げたことを覚えていたのだろう。
柔らかな笑みを浮かべて、問いかける。
首を左右に振って、まだだです、と答えた。
「今日の練習のあと…自主練習も含めてですが、そのあとに予定はあります?」
「いえ、ありません」
「それなら、お待ちしていますね」
今日は王城が最後なので。
にこり、笑う彼女にありがとうございます、と頭を下げて、練習に向かった。
自主練も終えて、部室に向かうと、桜庭と氷雨さんがいる。
驚いて、二人を見ると、先に気がついたらしい桜庭が立ち上がって近寄ってくる。
「待っててもらうなら、ちゃんと気を使わないとだろ?」
俺にそう告げて、氷雨さんに笑顔を向けながら一言二言投げかけ、桜庭は部室を出て行った。
いつもの笑みを浮かべてひらひらと手を振る氷雨さん。
桜庭の背中を見ながら、思わず眉を寄せる。
振り返った彼女は俺を見て、心配そうな表情を浮かべた。
じっと見上げてくる氷雨さんにぐっと奥歯を噛んだ。
「すみません」
上手く伝えることが出来ない自分に腹が立つ。
謝るだけでは、氷雨さんに正確には伝わらないのだろう。
案の定きょとんとした彼女は、謝らないで?と綺麗に笑う。
その笑顔が無性に悔しくて、俯くようにして顔を隠した。