01
名前も呼べない恋をした出来上がった部室で着替えていると、突然ノックが響いた。
そこにいたのは、一人の女と、よく見知った警官。
部員が驚いて俺に視線が集中するが、その女は興味深そうに部室を見回している。
警官が言い難そうに、口元を歪めていると、それに気がついたらしい女が俺を真っ直ぐに見つめた。
「蛭魔、妖一さんですか?」
少し高めの声に、落ち着いた印象を与える喋り方。
こんな知り合いがいたかどうかと、一瞬で考え始めるが、生憎と知らない。
真っ直ぐに俺を見つめる目には媚も敵対も何も無く、ただ空だった。
それに興味を持って、口角をつり上げる。
「そうだが?」
「私のこと、ご存知ですか?えっと、なんでしたっけ?手帳?に載ってたりしませんか?」
口元に整えられた指先を寄せて、首を傾げた姿。
きょとんとしている姿に、知らねぇ、と返した。
「ですって、お巡りさん。やっぱり戸籍を見てみるしかないですよ」
「でも何も無い状況からだと一日二日じゃ見つからないだろうし」
何か手がかりがあれば良かったんだけどな、と警官は女に苦笑する。
あっけらかんとして、女はなんとかなりますよ、と微笑んだ。
大丈夫ですって、と目を細めて笑う姿に視線が釘付けになる。
「…詳しく聞かせろ」
無意識のうちに告げていた言葉に、女はきょとんとして、首を左右に振る。
警官の方は、嬉しそうな表情を見せているのだが。
「いえ、部活でお疲れでしょう?お巡りさん、帰りましょう?」
「え、でも…せめて名前は調べてもらった方がいいよ、なんて呼びかければいいかもわからないし」
「呼びかけなんて、ねえとかおいとか、日本語って便利なんですから、こういうときに活用しないと」
にこにこと笑いながら訳のわからないことを告げる女。
まじまじとその顔を見つめると、少しだけ不安そうに視線が揺れている。
「記憶喪失か。身元が分かるものもねぇのか?」
「全く」
「持ってたものはこれだけです」
女は袋から薄汚れたぬいぐるみを取り出した。
明らかに手作りなそれは、身元が分かるものではない。
警官の方がことのあらましを簡単に話すが、思わず頭を抱えたくなった。
まあ、いい脅迫ネタと言えば、そうなのだが。
「とりあえず、なんかわかるまでソイツを俺が預かる」
「え?!」
女が驚いたような声を上げる。
それから驚いたように警官を見て、剣呑な表情に変わった。
最初に出した声とは違う、低めの声で、警官に声をかける。
「お巡りさん、最初からそのつもりでした?」
「いや、そんなことは、」
「ならなんで、さっきあからさまにほっとした顔をしてたんですか」
い、いや、その、と明らかにしどろもどろになった警官に女はため息を吐いた。
高校生にお世話になるなんて、と申し訳なさそうな顔をして、首を左右に振る。
「大丈夫です、女であればどうにかして生きていけますから」
「どうにかって、」
「だって、男より売れるものが多いでしょう?」
困ったと言うように、女は妖艶に笑う。
警官も俺も、部室に残ってたヤツらも、その笑顔に息を飲んで。
無意識のうちに俺は、女の手首を掴んでいた。