越境

どこまでも平行に延びる二本の鉄の線。
かすかにそれが振動する、そして少しずつ、しかし着々と振動は大きさを増す。列車が見えた。いかにも長い距離を走りそうな重厚な車体が、長く長く連なっている。
轟音を立てて走り過ぎる列車の、ある車窓が静止画のようにはっきりと眼に映った。
列車が巻き起こす風に煽られてよろめいた瞬間にはもう、その窓は通り過ぎている。しかし、煽られる直前、中に乗っていた人間と眼が合ったように感じた。


今、窓の外に蝶が見えた。結構なスピードで走っている列車から蝶が一羽見えるなど、そうあることではない。しかし、今日はなぜか、一瞬ではあったが、静止しているようにはっきりと見えた。
といっても一瞬のことで、あっという間にその蝶は風に煽られて見えなくなった。その一瞬の間に、彼は蝶と目が合ったように感じたが、気のせいだろう。

彼は時計を見た。十四時三十七分。もうこの列車に乗って三時間が経とうとしている。窓から見える景色は、過去に何度か見たことはあるが馴染みのないものになっていた。市境を四つほど越えたらしい。

とにかく遠くへ行きたかった。自分が知らない土地へ、誰も自分を知らない土地へ行きたかった。彼は人と関わることに嫌気がさしていたのだ。友人がいないわけではない。むしろ「友人」はたくさんいるほうだと彼は自分で思っている。しかし、それで何か良いことが一つでもあっただろうか?ただ挨拶をする程度の「友人」たち。「何も深い意味など含んでいない」、「含んでいると受け取られたくない」、「ことばの意味を誤解されたくない」と思いながら無意識にことばを繕わなければならない「友人」との会話やメール。「友人」なのに、なぜ、こんな風に気を遣わなければならない?なぜ、こんなにも居心地が悪い?
二週間前まではそんなことは露ほども思っていなかったはずだ。しかし、ある日ふと自覚してしまったのだ。自覚してからはもう忘れられなくなった。学校で、街中で、「友人」と一緒にいればいるほど、その空虚さを痛感するようになってしまった。

だから彼は列車に乗った。とにかく遠くへ行きたかった。自分が知らない土地へ、誰も自分を知らない土地へ行きたかった。

一番行き先が遠そうなものを選んだつもりだ。

そういうわけで彼は今、四人がけのボックス席に独りで座り、ぼんやりと窓の外を眺めている。


後ろの車両から、年取った女の人が入ってきた。席を探しているようだ。彼は、自分のところに来ないようにと願っていたが、そっと周りを見渡してみるとボックス席に一人で座っているのは彼だけだった。
「空いてますか?」
案の定、その老婦人は彼のいるボックス席に座ろうとした。
「あ…どうぞ」
彼も、断るわけにはいかないので曖昧に返事をした。

よいしょ、と彼の向かいに腰かけた老婦人は荷物や服を整えると、窓枠に肘を突いて外を眺めている彼に目を向けた(彼は、目が合うのが嫌でわざとそっぽを向いていた)。
「お一人ですか?」
そんな彼を見た老婦人がいきなり、話しかけてきた。
不意打ちを食らったような顔をして、彼は老婦人を見た。列車でたまたま近い席になった人に話しかけるような人はあまりいない。あからさまに、話しかけるなという雰囲気をかもしだしている人にならなおさらだ。
一瞬の躊躇の後、彼はそっけなく答えた。
「はい。」
すると老婦人は、彼の無言の訴えには全く気付かなかったかのように会話を続け出した。
「そうですか。私も一人なんですよ。どちらまで行かれるのですか?」
「終点までです。……あなたは?」
老婦人はよほどしゃべるのが好きらしい。そんなに嬉しそうに会話を続けられたら、彼の方も続けざるを得ないではないか。
「三つ先まで。向こうに孫が住んでいるの。久しぶりに息子夫婦が会いに来ないかって誘ってくれたんですよ。随分会っていないから、今から会うのが楽しみで楽しみでしかたがないんです。」
本当にうれしそうに、幸せそうに、老婦人は言った。そして、息子夫婦や孫のことを思い出しているのだろう、とても愛おしそうに微笑んだ。彼はそれがうらやましかった。『人と会う』ことがそんなに幸せだということが、うらやましかった。あまりに幸せそうだったからだろう、彼は思わず聞いてしまった。
「なぜ、そんなに幸せそうなんですか?人と関わりあうことが?」

老婦人は少し驚いたような顔をして彼を見た。いきなりこんな質問をされるとは思っていなかったのだ。
「あらあら、お若いのにずいぶん悩んでいるみたいですね。それも相当深く。よかったら私に話してみませんか。どうせ赤の他人同士、こういう関係の方が話しやすいこともあるでしょう。」
すぐににっこりと笑って、老婦人は優しく言った。その笑顔に、彼は、この人になら何でも話せるんじゃないかと思った。もちろん、普段はそんなことはしない。他人に自分の悩みを打ち明けるなんて、今時どんなドラマにも出てこない。しかし、今回は違った。老婦人の笑顔や優しそうな口調が、何かの魔法のように彼に全てを話させた。

彼は話した。友人との関係に疑問を持ったこと。それが頭から離れなくなったこと。それから人と関わるのが嫌になったこと。どこか、誰も自分を知らない遠くへ行きたいと思ってこの列車に乗ったこと……。
老婦人は彼の話に口を話すことなく黙って、時々うなずいたりしながらずっと聞いていた。その間も、あの優しい笑顔を絶やすことはなかった。

彼が全てを話した後、しばらく老婦人は黙ったままだった。しばらく沈黙が続いた後、ゆっくりと老婦人は話し始めた。
「あなたは、とても大切なことに気付いたんですよ。それを変に思う必要は全くないんです。人間関係って、難しいものです。人が二人だけなら、腹の探り合いなんかする必要はなくて、ただ、思ったことを何のためらいもなく伝えてしまえばいいんです。だけど現実には人は二人じゃありません。たくさん、たくさんの人がいますよね。だからあなたの思ったような疑問が出てくるのでしょう。でも、人は二人だけでは何も作っていけないんです。一人ではできないのと同じように。まあ、一人よりはできることの範囲も広がるでしょうけれど。たくさんの人がいて初めて、この世界は成り立っているんです。だけどいろんな人がいて、いろんな考えを持っているからこそ、意見の衝突も起こります。それが人間関係の難しさだと私は思いますよ。
でもね、考えてみてください。違う考えの人がいるなら、逆に同じ考えの人もいるんじゃないかって。あなたと同じように人間関係に疑問を持っている人がいるんじゃないかって。それをどうやって知るかは、やはりいろんな人との意思疎通しかないんですよ。一人でいただけでは、何もわからないんです。…今すぐ、引き返せって言ってるわけではないんですよ。今のあなたのように一人で過ごすことだって、やっぱりないといけないことですから。じっくり、ゆっくり考えてください。自分の疑問をかみしめて、大事にしてください。そうするうちに、必ず納得のいく結果が出せるはずですよ。
――あら、もう着いてしまいますね。二駅も通り過ぎていたなんて、全然気づかなかったわ。」
彼もはっと気付いてみると、いつの間にか列車は老婦人の降りる駅に向かって徐々に速度を落としているところだった。
ホームが見えた。
座った時と同じように、よいしょ、と腰を上げると、老婦人はボックス席から出て行こうとした。彼はあわてて引きとめた。
「あ…あの、…ありがとう、ございました…こんな話、他の人に話したことなんてなかったのに、あなたに話せて、よかったです。…お気をつけて。お孫さん、早く会えるといいですね。」
「こちらこそありがとうございました。久しぶりだったわ、あんなに話したのは。良い答えが見つかることを祈っていますよ。」
そう言って例の素晴らしい微笑みを見せた後、老婦人はドアへと歩いて行った。

列車は再び動き出す。

彼はまた、一人になった。

無性に寂しかった。列車に乗った時は一人でいたいと思っていたのに、今は無性に寂しかった。もっとあの人といろんなことを語りたかった。
そこまで考えて、彼ははっと気付いた。
人と話すということは、人と関わるということは、本質としてとても喜ばしいことだと。自分はずっとこんな関わりを、素直に自分をさらけ出して人と関わることをずっと望んでいたのだと。そして、こんなことに気づけるようになった自分に気づいた。


『ご乗車、ありがとうございました。次は終点――』
ああ、もうこんなところまで来たのかと、彼はぼんやりと考える。何を考えていたわけでもない。いや、むしろ考えていたのだろうか。いつの間にか、時間が経っている。

自然に、頬が緩んだ。
ここまで来てよかったと、そう思えた。

列車が、夕日に照らされたホームへと滑りこみ、止まった。
「そろそろ帰ろうかな。」
そう呟いて、彼は立ちあがった。
満ち足りた笑顔が印象的だった。


向かいのホームには、今まで彼が乗っていたのと同じ型の列車が止まっている。
その列車の先頭車両は、彼が今降りたものとは逆方向を向いていた。


End.
後書き→


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