「いんいちがいち、いんにがに……」
放課後、教室で机に向かい唱えられる九々は、まるで呪文の様だ。意味はあるのだろうが、それを覚えようと暗唱する者は大抵その意味を知らない。
「しちし…しちしにじゅう、あー」
そして大抵七の段で躓く。誰でも覚えがあるだろう微笑ましい光景である……筈なのだ。
「ねえ、阿伏兎。バカなの?」
必死に両手を使い九々を唱える阿伏兎の視界に突然神威が現れる。いきなり机に腰を下ろして来たのだ。
「……あ、良い所に。ちょっと指貸してくれます?」
馬鹿かと言われ、頭を持ち上げると阿伏兎は戯れに指を貸してくれるよう頼んでみた。すると神威から手が伸ばされる。正か貸してくれるとは思わず阿伏兎は戸惑うが、その手に指を掴まれまずいと思えば既に時遅し。思い切り反対側に曲げられた。
「あだだだだだ!!…勘弁して下さいよ、折れちまうだろ」
「これ位で折れるお前の軟弱な指が悪い」
神威は笑顔でさらりと言う。阿伏兎はそれを見て最近癖になりつつある溜息をついた。この男が転校して来てから、学校が少し変わった気がしていた。
相変わらず荒くれ者で、社会的に見ればしょうもない連中の集まりだ。しかし絶対的な力、その神威が現れたのだ。
神威の力はただの恐怖ではない。見ていて気持ちいい程である。一体あの体格の何処からそんな力が出ているのかは不思議だが、実際にこの目で見てきたから分かる。強さだけではなく、カリスマ性があった。掴めない笑顔の裏に隠されたそれは分かるやつには分かる。自分は神威と言う男の気質に惚れたのだ。
「阿伏兎、お前七の段言えるだろ」
振って来た神威の言葉に阿伏兎の口角が上がる。
考える様に上を向き無精髭の生えた己の顎をなぞる。そうして神威に顔を向けると何処か惚けた様子で口を開いた。
「そろそろ言える様になっても良いかと思ってますけどね。アンタが居りゃァこの学校も何とかやってけるだろうし」
あはは、と乾いた笑いが零れる。
「阿伏兎、お前やっぱり馬鹿だよ」
常に笑顔である為、本当に可笑しいのではないのだろう。阿伏兎は最近その笑顔に隠れた微妙な違いが分かって来た所だ。きっと今のは機嫌は良い方だ。
阿伏兎は髪の毛を乱すようにがしがしと頭を掻き、椅子から立ち上がる。
「ところで阿伏兎。お前制服似合わないね」
「煩いですよ…っと」
教室を後にする。
鞄なんて始めから持ってきていない。手ぶらだ。
阿伏兎は両の指を動かしてみた。
そのまま頭の後ろに手を回し組む。
もう暫く九々は覚えない事にした。