No name


「あの日か」

無言で背を蹴る。
沖田は見事な弧を描き、プールへとダイブした。

「あの日ってバレねーようにしてやったアルよ」
「どの日だよ!」

沖田が空気を求め水面から顔を上げると、事もなげに見下ろした神楽からの一言。
すかさず沖田が突っ込むが、この場合悪いのは沖田だ。


張り付く髪が気持ち悪い。
水分を含んで纏わり付く服も気持ち悪い。

沖田は不快感に顔を歪め、水を漕いでプールの淵に向かう。気分は最悪だ。

一言の文句では気が済まない。このやろうと見上げて、そこで止まった――




(何だよ、ちくしょう)



沖田は面白くないと眉を寄せた。
無意識に伸ばし掛けた手を、そのまま神楽に向ける。




――そして、引いた。



「ぶはッ…!」

突然のことだった。
今度は神楽がプールへ引き込まれる。
プールから神楽を受け入れた分の水が溢れ出した。


「何するアルか」
「バレねーようにしてやったんだ」

先程の沖田と同じように、水面から顔を出すと隣に居る沖田を睨みつけた。

返って来た言葉にデジャヴュのような不思議な感覚を覚えるが、少し考えて見ればそれはついさっき自分が言った言葉だ。おうむ返しを受けたような、不快感に顔を歪めて舌打ちする。そのまま饒舌に思い付く限りの悪態をついた。


「まだ下ネタ引っ張る気かぁぁぁ!違ェってんダロ!死ねヨ、一回死んでその頭浄化して来いよォォ!」


胸倉を掴んで食ってかかる。

しかし、可笑しい。

いつもなら返ってくるのに、いっこうに沖田からの言い返しが無い。

不思議に沖田を見る。
どっか悪いのカ、なんて声を掛けようとしたら向けられた瞳があまりにも真剣で、神楽は息を飲んだ。そんな目で人を見るのだと初めて知った。


沖田の口が開かれる。


「違ェーよ」



いつものふざけた雰囲気は一切無い。


「な…」


何が、と神楽は困惑した。
『違う』を探していると再び沖田から言葉が降ってくる。



「バレねーようにしてやったんだ。もう大丈夫みてェだけど」


それ、と神楽の顔を指差した。

神楽は素早く己の顔を両手で多い確認するようにペタペタ触りだして、暫くすると気が済んだのかその手を止めて沖田を見た。

「気づいてたアルか」

「顔に出やすいたァ考えもんだな」



二人、水の中。
どちらも上がろうとはせずに、ただ沈黙が広がる。


「何か言えヨ」

「何か言って欲しいの」




「―…いや、ありがと」



正かバレてるなんて。
正か礼を言われるなんて。


気持ち悪いはずの水の中だと言うのに、互いに一向と動こうとしない。


少し身体を動かしただけで出来る波紋は、まるで不安定な心の動きのようだ。




この気持ちを何と呼ぼうか。
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