「征ちゃん!はいっ、ハッピーバレンタイン!」


いつも、一緒だった。生まれてからずっと傍にいた、ぼくの大切な大切な存在。


「ありがとう、千加」


――きみこそが、ぼくのたったひとつの最愛。


「今すぐ開けて食べてもいいかな。時間帯的には甘いものは避けるべきだけれど、正直明日になるまでなんて待ちきれないからね」
「もちろん!むしろ、そんなうれしいことを言ってくれて光栄だよ、征ちゃん」


はにかむ千加の表情がかわいくて、つい僕も表情を緩めてしまいながら、きれいにラッピングされている包みをゆっくりとほどいていく。鮮やかでありながら落ち着いた色合いの深い赤色の包装紙を彩る、やさしい藤色と白のかわいらしいリボンの結び目を解く。僕は自身を冠する赤色も勿論それなりに好きなのだが、彼女が昔から好きなこの藤色も好きだった。その色のリボンをほどく、そんな行為に少しばかり愉悦に浸ったのは秘密だ。


「あのね、今回は初心に返ってみました!」


去年は彼女自身、高校受験を控えていたし、そして何より僕らはその頃仲違い(それも僕のみの咎であるが)をしてしまっていたため、長年の習慣となっていたためかバレンタインのチョコレートは一応例年通り母さんを通して届けられてはいたが、その中身は物心ついて以来ずっと続けられていた千加の手作りの逸品ではなく、市販のチョコレートであった。僕はそれが自業自得でありながら、どうしようもなく落ち込んだ。彼女なりの気遣いで、あんな酷いことを言った僕にその年も変わらず贈ってくれたことは本当にうれしかった。けれどやはり遠慮したのだろう、いつもの手作りではなく市販品であったという事実を目の当たりにして、考えて考えて決断したはずだった自分の選択を、その時ばかりは心の底から強く後悔した。


「………チョコチップクッキー」
「初めて手作りをあげた年だからー……十年ぶりくらいかな?」


だめだったかな?と苦笑する千加を僕は見つめて、それから十年前、幼い彼女が彼女のお母さんに手伝ってもらいながら一生懸命作ってくれたというその思い出のクッキーと同じ、けれど以前より見た目だけでも格段に上達しているチョコチップクッキーを即座にひとつまみして咀嚼する。香ばしいバター生地と深みのある大粒のくるみをやさしく包み込むかのように控えめなミルクチョコチップの甘味が口内に広がっていく。チョコチップクッキーは、まだ就学前の小さな小さな千加が甘いものがあまり好きではない僕のために一生懸命考えて、そして一生懸命作ってくれた、僕にとって何よりも大好きで大切なお菓子である。


「うん、おいしいよ」
「ありがとう!」


初めて手作りのお菓子をプレゼントしてくれた時に手渡してくれたのがこのクッキーだった。その年以降もバレンタインには手作りのものを、彼女は毎年作ってプレゼントしてくれた。毎年毎年、彼女のお菓子作りの腕は上がっていってどんどんグレードの上がったおいしいチョコレート菓子を作ってくれるようになった、勿論どれもおいしかった。けれどそれでも、僕は今でもあの年の、あのチョコチップクッキーが何よりも忘れられない味だった。確かに所々焦げて焼きすぎていたり、逆にやわらかすぎて生っぽかったりしていて、失敗といえば失敗だったのだろう。僕にそれを差し出す千加はほとんど泣いたような顔だったし、手だって悔しげに震えていた。


「わっ!」
「世界で一番おいしいよ」


左手にはクッキーの包みを持っていたので、右の手で彼女を抱き締める。僕は、うれしいんだ。きみが僕をこんなにも想ってくれることがこんなにも幸福なんだ。だから、たくさんたくさん愛情のこもったこのクッキーは本当に何よりも何よりもおいしく感じてしまうんだ。


「本当?今度は失敗じゃない?ちゃんとおいしい?」
「前も失敗なんかじゃないさ。昔も今も泣きそうなくらいおいしいよ」
「征ちゃん、それは大げさ!」


そうやって照れている千加はやっぱりかわいい。だけど、僕の言葉を信じないのはいただけないな。


「でも今回は失敗じゃなくてよかっ……むぐ!」
「僕の言葉を信じないなら、信じさせてあげる」


喋っていた千加の口が開いた瞬間にクッキーを滑り込ませる。少し指先が彼女の舌に触れた。一口サイズだったそれは容易に千加の口の中に吸い込まれていった。彼女が咀嚼し、やがて嚥下したのを確認しながら、照れている彼女が見ているのを承知した上で彼女の舌先に少しだけ触れた自身の指先を舐めとる。そして赤面する彼女に今度は唇でキスをする。お互いにまだ口内は甘かった。ああ、でも、彼女とするキスはいつだって震えるくらいに甘美だ。ただ口と口と合わせて、時には舌と舌を絡ませ合うだけのことなのに。この甘さや幸福は一体どこからやってくるのだろう。


「ね?ほら、おいしいだろう?」
「……征ちゃんのバカ」
「うん、分かっているさ。……好きだよ、千加」
「ありがとう征ちゃん!私も大好きよ!」


積み重ねていく思い出、募らせていく恋心が、今日も目の前にある絶え間ない幸福といとしさを鮮やかに彩っていく。







私は征ちゃんとのキスが好き。とはいっても、征ちゃん以外の誰かとキスなんてしたこともなければ、全然したくもないけれど。


「……お風呂入って、明日に備えて寝よっか」


そうしてやわらかく微笑んだ征ちゃんは、最後とばかりに濃厚かつねちっこいキスを私の唇に再度施して、それから満足げに私の左の薬指にキスをした。じわり、滲むのは羞恥か、幸福か。


「先に、お風呂入っておいで」


すぐに征ちゃんはお風呂を沸かしてくれた。お風呂が沸く間に準備を済ませて、それから征ちゃんのお言葉に甘えて早速お先にいただいた。やっぱり、いくら学生の一人暮らしとはいえ、征ちゃんは平均的なお部屋よりもずいぶんいいお部屋に住んでいるけれども、それでもお風呂場の広さは私の自宅や征ちゃんの実家ほどではなかった。が、それでもこれは十分広いよね……。清潔できれいな水色の壁面をぼーっと見つめて、冷えた身体にぴったりの温かいお風呂に浸かりながら感想をもらした。私の大好きな柚子の香りのする入浴剤にほっと癒された。


「……お泊まりかぁ」


正直なところ、私は幼い頃から度々征ちゃん宅に預けられ、征ちゃんとまるで兄妹のように育った。お泊まりなんて今さら珍しくも何ともない。本当に幼い頃は一緒に寝るどころか、一緒にお風呂まで入った仲なのだ。さすがに大きくなれば自然とそれはなくなったが、中学生の頃にはお互いの両親が全員不在の日には、どちらかの家に数日間二人だけで過ごしたこともあるほどだ。今さらお泊まりくらい珍しくも何ともない。……はずなんだけどなぁ。


「ドキドキしてる、かも……」


お風呂に沈みながら思う。中学時代にいくら二人だけで数日間生活したとはいえ、改めて恋人という関係になってからはこんなふうに二人っきりで寝泊まりすることはなかったのだ。この前、年末年始に征ちゃんが帰省した時は、どちらかの家に行こうと大体どっちかの親がいたから決して二人っきりではなかったのである。征ちゃんの強い瞳を思い出してため息を吐きながら、逆上せる前にお風呂から上がった。


「……お待たせ、征ちゃん」
「うん」


お風呂上がりで濡れた髪のままであるジャージ姿の私を見て、征ちゃんはにっこりと笑った。


「ジャージ、借りちゃってごめんね」
「ううん」


余ってしまっている袖を見せながらそう言うと、やっぱり征ちゃんはにっこり笑っていた。というのも、着替えやら何やらお泊まりセットを完璧に詰めたつもりだった私は阿呆なことに寝間着を入れるのをすっかりド忘れしていて、リュックの中を全部ひっくり返して先程漸く気付いて愕然としたのである。……どうりで、この普通サイズのリュックに諸々の荷物がちゃんと収まったわけだ。と、ため息を吐く私に征ちゃんがTシャツとジャージを貸してくれたはいいのだけど。


「こういうの、なんていうんだったか」
「彼ジャー、それとも彼T?」
「うん、どっちでもいいけどなんかいいね」


そういう単語がわざわざできるのも頷ける、と征ちゃんはやっぱり満足げに微笑んだ。……こういった類いの意義を推測するに、やはり男性が自分の衣服を女性に着せるといった行為によって男性は自分の征服欲を満たすのでは、ということ。そして、もうひとつは。


「……袖、余ってるね」
「ね、ブカブカ」


体格差によるところのもの……だと思う。ブカブカの衣服を纏う姿に性的魅力を見いだすのだろう。だけど、思うに目の前で満足げに微笑むこの幼なじみは多分単純に最近漸く生じた体格差がうれしいのではないかと……思われます。私と征ちゃんは小学生頃まではほとんど同じような体格で、ともすればお互いの衣服を交換できるくらいに誤差はごく僅かなものだった。さすがに中学生になれば、私は次第に丸みを帯び出す一方、征ちゃんは成長期プラス部活で鍛え上げたことで少しずつ筋肉が付き出したため、身長などはあまり変わらずとも少しずつ性質が変わっていった。そして、身長もあまり高くなく、どちらかというと華奢でかわいらしかった征ちゃんは、高校生になって、更に身長を伸ばし、より男性的な体つきになっていた。どうしても余ってしまうことで袖や肩幅に顕著に現れているこの体格差が、征ちゃんはどうやらうれしいらしい。


「……いいにおいがする」
「ちょ!征ちゃん……っ」
「僕もすぐにお風呂入ってくるね」


私の首筋に素早くキスをして、征ちゃんは颯爽とお風呂場に向かっていった。……なにあれ。ていうか……すぐに?征ちゃんの真剣で熱い視線を浴び、お風呂に入りあったまっていた身体が更に熱を帯びた。今日は、お泊まり。二人っきり。


――無事で帰って来れるといいですねぇ?


真っ黒な笑顔のテツくんが言っていた言葉が急に甦って、そして脳天に勢いよく突き刺さった。


「……無事ってまさか……!」


余る袖で顔を無意味に覆いつくしながら、もしかして覚悟が必要なのか必要でないのか、征ちゃんが笑顔で素早くお風呂から上がってくるまでの間、私は悶々と考え続けた。


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恋はいつしか愛に変わる 5