本来ならまったくの部外者である私は洛山の控室に入っていいはずはないのだが、征ちゃんはそんなことはまったく考えていないようで、私を連れたまま控室へと入っていった。そうして、征ちゃんはゆっくりと私のほうへ振り返った。お互い何も言わないまま、それからゆっくりと視線を絡めた。どちらも、絡めた指をほどこうとはしなかった。向き合った征ちゃんの瞳は、まるで溶けだしそうだった。


「……千加」
「………」
「千加」


それから、征ちゃんは空いていた方の手で私の首筋を引き寄せて、私を強く、抱きしめた。だけど、つないだ方の手は離さなかった。そうして、私も空いていた方の手を征ちゃんの背中に回して、昔よりもずっとずっと大きくたくましくなった背を撫でた。征ちゃんは私の肩口に顔をうずめて、私の名前をうわごとのようにただひたすら繰り返すだけだった。征ちゃんが私を抱き寄せる前の、征ちゃんの瞳はゆらいでいたけれど、今征ちゃんがどんな顔をしているかは、よくわからなかった。だけど、私の名前を繰り返す征ちゃんの声は、少しだけ、震えているような気がした。


「征ちゃん」


私を呼び続けてる征ちゃんに反して、相変わらず沈黙を貫いていた私だが、征ちゃんの名前を一度だけ呟くと、征ちゃんはぴくり、と小さく肩を揺らした。


「征ちゃん」


もう一度、呼んだ。私の名前繰り返し呼んでいた征ちゃんが、今度は沈黙する番だった。――征ちゃんは、変わってしまった。生まれたときから征ちゃんを知っているはずの私が知らない征ちゃんをたくさん目にするようになった。そんな征ちゃんが怖かった。瞳の色の違う征ちゃん、冷たい目で渇いた笑みを浮かべる征ちゃん、感情を凍りつけたような征ちゃん。少しずつ、昔のあなたが消えていった。勝利のために、正しくあるために、いらないものをあっさりと冷たく捨てるようになった。勝利がすべてだと言うようになった。強さをだけを信じるようになった。自分だけを信じるようになった。バスケを始めたときのきもちを忘れるようになった。少しずつ、自分のことを「俺」と呼んでいたあなたが消えていった。


「あのさ、わたしはね」


笑わない征ちゃんがいやだった。私の知らない征ちゃんが怖かった。


「今でも少しも変わらずに、征ちゃんが」


だけど、だけど、それでも、こんなふうに私だけを変わらずに求めてくれるところはあの頃と同じだと思った。私の知っている征ちゃんだった。どんどん濡れていく私の肩が、私の知っている素顔の征ちゃんが氷の仮面の向こうで、確かに存在しているのだということを示していた。


「征ちゃんのことだけが、ずっと大好きだよ」


小さく、消え入りそうな声で、震えながらつぶやいた想いは、きみに届いただろうか。私は、今でも変わることなく、あなたが好きだよ。いとおしくてたまらないんだ。こんなにも、私だけを求めて、何かに耐えるように震えながら泣いてしまう、そんな征ちゃんが、いとおしい。幼いころに、一度だけ私を求めてわめき散らすように泣いた、あの日の幼い征ちゃんのよう。あの頃と違って今の征ちゃんは、嗚咽すらもらさず静かに泣いていたけれど。


「…千加」


そんな征ちゃんに抱きしめられながら、抱きしめながら、私の凍りつけたはずの氷の頬が溶けだすのを感じていた。あの日、征ちゃんに要らないと言われてから、ずっと泣けなかった。征ちゃんを失って私は笑うことも泣くことも忘れていた。感情が凍りついたように、こころはずっと空っぽなままだった。苦しくてたまらなくて、壊れてしまいそうだった。だからそうならないように自分の心を凍らせたんだ。だけど、今がようやくその氷解のときだった、そしてそれはきっと征ちゃんも同じなんだろう。


「千加、…傷つけて、ごめん」
「…うん」
「……「俺」が馬鹿だった、どうしようもない馬鹿だった」
「…征ちゃん」


――僕の、負けだ。


そのことばを、征ちゃんはどんな思いで口にしたんだろう。征ちゃんは、私に謝ったことはなかった。征ちゃんはいつも正しかった、強かった。だから私はそんな征ちゃんのことを、私だけのヒーローで、神さまだとそんなふうに思っていた。だけど、きっとそれがだめだった。それがいけなかったんだ。きっと、そんな私の想いが征ちゃんを縛り付けて、がんじがらめにしていた。そのせいで、きっと征ちゃんにひどいプレッシャーを強いてしまっていたんだ。だけど。


「征ちゃん、謝るのは私のほうだ」
「千加」
「…ごめんね、征ちゃん、今まで」
「……」
「ずっと、私のヒーローでい続けてくれてありがとう」


だけど、それでも。


「だけどね、ありのままの征ちゃんが、大好きな私だけのヒーローなのはずっと変わらないよ」


ずっと、ずっと、きっとそれは変わらない。


「どんな征ちゃんでも、私が征ちゃんを大好きなことに変わりはないよ」


スターチス


あの花の意味をきみが教えてくれた日から、この胸にはあなたへの愛の証の赤い花が、ずっと咲き続けている。


「もう二度と、あなたのそばを離れない」


――だから、だから、だから、どうか今だけは、泣いてほしい。


今だけはその背に背負うものすべてを下して、今だけは進む先にあるものを忘れて、今だけはどうかどうか、素顔のあなたで泣いてほしい。あなたが痛みと引き換えに貫いた信念の裏側にあったはずの、切り捨てたはずの「ほんとう」の、ありのままのあなたで心のままに泣いてほしい。あの頃には、決して戻れないけれど、みんなが、テツくんが緑くんが紫くんが青峰くんが黄瀬くんがさっちゃんが、そばにいた幸せなあの頃には決してもう帰れないけれど。だけどそれでもどうか、今だけは。


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氷の頬/なかせて