悲しみが癒えることはないから。


ルーシィはそれから僅かな沈黙をして何やら逡巡した後に、小さく口を開いた。


『詳しいことはまたあとで言うことにするよ、機に乗じなければ出航もまた叶わないのでね』
「つまり、待てと?」
『明日、タイミング良ければこの島を出られるだろうが、それを逃すと面倒なことになるだろうな』
「というと?」
『私の確信では明夜は稀に見る嵐になるはずだからだ』


嵐、だと?それはおかしいだろ、なぜわざわざ海が荒れる日に出航しなければならねえんだよ。しかも、稀に見る、だと。どれだけ立派な嵐なんだよ。


「なぜ嵐の日を選ぶ?」
『寧ろ嵐の日こそが最良なんだよ』
「…お前、おれの船を知っていておれを選んだのか」
『そうね、それもあるわね』


なるほど。この島の出航が難関だといわれる理由はそれというわけか。晴天のときでは困るなんらかの理由があり、また嵐であっても良い航海術がなければそれもまた難い、と。そういうわけなのだろう。それに、運悪く少将の来島時に上陸したというタイミングの悪さもまた今回はあるわけだが。


『…さて、出航の絶好の機会は明夜なわけだが、なにか不都合でも?』
「……いや、問題ねえ」
『そう…』
「お前は、どうするつもりなんだ」


一瞬、ちらりとおれをその視界にとらえると、それから眉間にしわを寄せて考える様子は普通のどこにでもいるような女にも見えるが、これが噂の情報屋だというのだからどうにも奇妙である。ただの、20にも満たぬ小娘にも見えるし、大人のようなふるまいによって随分と老成しているようにも見える。肝が据わっているとでも形容すべきか。


『…それは、次の島まで乗せてくれるという申し出かしら?』
「もともと乗り込む気だっただろう?」
『いや、それもまた可能だが…』
「なんだ?」
『いや、…………いや、そうだな。そろそろこの島からも引き上げねば、な』
「ほう、それで」
『よろしく頼むことにするわ。とりあえず次の島まで、な』


思わず、にやりとした笑みがこぼれる。実は、こいつに興味があったというのが本音であるが、難なく釣れたことには満足だ。しかし、あいかわらず特に情報を引き出すことはできていないが、それなりに信用してもいいという気がする。もちろん、お互い仕事上においてのみであるが。


『…トラファルガー、今から暇か?』
「ほう、なんだ、ナンパか?」
『ふふ、そうね。一緒にお酒でも飲まない?前夜祭と行きましょう』


ああ、おもしろい女だ。





一端船に戻り、先に帰らせていたベポに明日の夜出航予定だということと、今日はあの女と飲んでくる旨を伝えると、目を大きく見開いてかなり驚いていた。


「なんだ、明日の夜じゃ不満か?」
「そうじゃなくて…」
「なんだ?言え」
「いや、キャプテンあのお嬢さんと飲むの?」
「ああ」
「…ふたりで?」
「一緒に来るか?ベポ」
「ううん…そうじゃなくてね」
「なにか問題か?」





『遅かったのね』
「そうか?」
『船で何か問題が?」
「いや、」


一瞬怪訝そうな表情を浮かべたのち、それから何やらこちらが不愉快になりそうなほどにやりと意地悪い笑みを浮かべるので、思わず眉をひそめた。


「なんだ」
『ふふ、いや?』


分かってて言ってるのか、あるいは単におれの言動を見て笑みがこぼれたのか、果たして。侮れない女だ。


『それで、一体何があったのかしら?』
「………ベポが」
『くまさんが?』
「…おれがお前と飲むというと、ひどく意外そうな顔をしたのでな」
『「キャプテンがサシで女の人と飲むだなんて…」』
「……」
『おや、大当たりのようね?』


寸分違わずベポの言った言葉を復唱するので、思わず目を見開きルーシィの顔を凝視する。にらんでみても、反してひどく楽しそうに笑うから、なんだか力が抜ける。


『あまり、面白い顔をするな。ただの憶測に過ぎない』
「……」
『…だったのだが、どうやら当たってしまったようだな』


…ここは、さすが情報屋と賞するべきなのか?いや、おれたちの会話を聞いてさらにこの岬に戻ってくるのは不可能だ。それもおれよりも早く?それはもっと不可能だ。それにおれもそうだが、白くまであるベポがこいつの気配に気づかないわけがない。だからつまり、そういうことなのだろう。この女はおれとベポの性格や言動を考慮したうえで、ベポの発言を予測したに過ぎないというわけである。ただ、それが奇しくも寸分違わずに言い当ててしまったということだが。どうやら頭の回転も悪くはないらしい。


「そういえば、なぜここに呼び出したんだ」
『寒いのは苦手かしら?』
「いや?」
『そうね、ノース出身だったわね』
「…知っていたのか」
『勿論ね、商売相手の情報は一通り手に入れておくのがポリシーなのでね』
「それで、何か問題が?」
『いや、今日はここで月見酒でもしようと思ったのだが、春先といえどこの島は冬島だからね、やはり夜中となると肌寒いわけだが。酒場のほうがよかったかしらね?』
「いや、問題ない」
『いい酒を用意した。気に入ってくれると嬉しいのだけれどね』
「ほう」
『私の友人が、持ってきてくれることになっているんだ』


そしてあまりにいとおしげに眼を細めたルーシィに思わず目を奪われる。そうしてルーシィの背後から現れたのは、今日港で出会った例の老人であった。そして、じいさんはルーシィに親しげに話しかける。


「おやおや、ルーシィさん。酒がいるというから何かと思えば男をひっかけたわけですかいな?ふぉっふぉふぉ」
『こんばんは、ニコラフ。ねえ?いい男でしょう』
「そうですのう、なかなか気骨のある男のようですしのう」
「昼間会ったじいさんじゃねえか」
「ふぉふぉっふぉ、どうやらルーシィさんには会えたようじゃの」
「…ああ、じいさんのおかげでな」


どうやら、友人とやらはこのじいさんのことらしい。その証拠は、先ほどのルーシィの笑みとじいさんの手にある酒であった。出会ってからというものの、この女は数々の種類の笑みを浮かべているが、あのような笑みを見せたのは初めてだった。情報屋であることの仕事上の、他人に決して自分を読まれないための仮面のような表情ではなく、自然と浮かべられたほころんだもの。そしてそのことに、この女は気付いていないのだろう。常に情報屋として完璧であるようにふるまう、彼女には。だが、じいさんがルーシィと知り合いであるとするならば、つまり仲間という認識でいいのだろうか。おれにこの女の存在を知らせたのはほかならぬこのじいさんであるからだ。酒場の親父はこの女の顔を知らなかったところを見ると、その確率は高い。となると、つまり、…おれはやはりこの女に導かれたというわけか。


「ほれ、ルーシィさん。頼まれた酒じゃ」
『ありがとう、ニコラフ。これお金』
「結構結構。とっていてくだされ」
『…しかし、ニコラフ』
「ついに、あなたもここを発つのでしょう?…どうやらあなたもついに勝負に出るようだ」
『……ええ、やっとその好機を得たから』
「だから、どうかこれはあなたの勝利と無事な出航を願って」
『ニコラフ』
「どうか、……あの子をお願いいたします」
『……わかりました。ありがとう、ニコラフ』


じいさんはルーシィに頼まれたという酒を渡した後、海の男の働いたしわしわの手をルーシィの手に重ねて、じいさんの人生を象徴するような数々のしわの刻まれた顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。それからわずかに震える手を名残惜しそうに離すと、じいさんは曲がってしまった腰をルーシィのために折り曲げると、深く深くお辞儀をした。そして、何かをお願いすると、再びルーシィに向かって顔をくしゃくしゃにした。その顔に映るは、哀愁と寂寥であった。それから、数瞬ののちに踵を返し、ゆっくりと帰っていた。


「…ルーシィ」
『………何かしら、トラファルガー』
「いや、」


正直、泣くのではないかと思った。それほどまでに、二人の間には神妙かつ悲哀に満ちたものがあった。しかし、彼女は気丈な表情でじいさんの後姿を眺めて、それから長い長い瞬きをした。つめたい海風が頬を撫ぜる。彼女の長い銀の髪が風に舞い、月の光に反射してきらきらと輝く。海に生きる誰かが予想したように、月見酒にふさわしい、月のうつしい夜であった。


お月様が代わりに泣いてくれたから


111225