小学三年の夏休み、僕は父に連れられ某県にある別荘で休暇を過ごしていた。特に何もない田舎であり、自然溢れる地ではあった。穏やかな空気がゆっくりと流れていくせいか、体感として一日一日がとても長く感じていた。避暑地として有名なところであるため、夏の真っ盛りとはいえ涼やかな気候で大変過ごしやすかったのはとても快い。しかし、正直言って僕は非常に退屈していた。その時ばかりは家庭教育も特には予定されていなかったし、これといった監視の目もなかった。僕は時間潰しのため本を読もうと思い、夏休み中のノルマのうちの一冊を持ち出し、別荘を抜け出した。


別荘の裏手には小さな川が流れている。小川と呼ぶのも烏滸がましいほど、非常に小さく細い川の水はきれいに透き通っていて、底にある大小様々な石ころたちがしっかりと視認できるほどだ。あたり一面、瑞々しい緑色の雑草が生え広がっている。アスファルトではないがある程度整備されている歩道の左脇に小川があり、そして小川と歩道を挟むように、その両脇には緑葉樹が青々と生い茂っている。日の光を存分に享受する木々たちは、涼やかな風に合わせてかすかに身を揺らしている。都会では見ない景色だった。心なしか空気も軽くておいしい気がする。虫と風の声だけが辺りを支配していて、ひどく遠いところから幼い子供のはしゃぎ声がほんの時折聞こえるくらいで、都会の喧騒などまるで素知らぬようにとても静かな世界だった。


木々の揺れを眺めながら小川を南下していくと、歩道脇の並木は途切れてだんだんに視界が開けてきた。夏の太陽が、直接僕を照らす。額の前で手を翳し目を細めた。……ああ、だが風が軽くて、本当に気持ちがいい。そんなことを思った、瞬間に、少しだけ甘いにおいが鼻先を掠めた。花のような、香り。だが、バラやジャスミンのようなそれとすぐに分かる類いのものではない。かすかに、甘い。何故だか僕はそのにおいに強く惹かれた。どこか懐かしい、気がした。


僅かに早足になりながら僕は小川をどんどん下っていった。そろそろ赤司家所有の土地から出てしまうな、などという考えが過ったあたりで、強い強い一陣の風が僕の背中を吹き抜ける。少し伸びていた髪が舞い上がり視界を覆った。赤い視界が開け、そうして、五メートルほど先、小川の向こう岸に誰か知らない者がいることに気づく。


左手を顎に添えながら、白詰草やクローバーなどの雑草の上にうつ伏せに寝転がり、右手を小川の透明な水に浸していた。その瞳は、ただ水に浸された右手にのみ一心に注がれていた。あの、頭や身体の小ささは子供なのだろう、そして髪の長さから察するに女の子なのだろうな。そうやって推察しながら、僕はただ佇んでその女の子を見つめていた。再び、風が吹き抜ける。そうしてゆっくりと顔を上げた彼女の瞳が僕を映した。


「……こんにちは」


やわらかな色の瞳が細められる。口角を上げて微笑む彼女を僕はどこかで見たような既知感を覚えたが、答えは出なくて、小川を飛び越え、彼女のすぐ近くまで寄っていく。


「……こんにちは」
「あなたは誰ですか?」
「人の名を聞くならばまず自分から名乗るのが礼儀ではないのか」


一見して僕と同い年くらいの彼女は、そんなことを言い返した僕に目を見開いて驚いていた。大概、こんな言い方をすれば同年代の子供は僕に対し困惑気味な表情をするか、憤慨してしまうかのどちらかであった。しかし彼女はそのどちらでもなく、きょとんとした表情のままで図りかねる返答をした。


「……わたしのこと、知りませんか?」
「は……?おれたちは知り合いだったろうか」
「ああ、いや、そうじゃなくて。わたし、『なずな』なのだけど」
「……覚えがないが」
「そっかあ」


なにやら項垂れ、「わたしもまだまだってことだなあ」と呟き、何故だか落ち込み始めた。なんなんだと問えば「ごめんなさい、気にしないでください」と言った答えが返ってきた。何はともあれ名乗られたので、赤司の名は一応伏せたまま、とりあえず「征十郎」と名乗り返せば、その女の子は下げていた頭を素早く持ち上げて、にっこりと笑った。


「素敵なお名前ね、征くんって呼んでもいいかな」
「……」
「え、あれ……だめかな」
「……いや、そんなふうに呼ばれたのは初めてだから」


思えば、僕のことをあだ名などで呼ぶ者は誰一人いなかった。それは僕が浅い人付き合いしかしなかったせいなので自業自得ではあるが、とはいえ僕自身とても不思議な気分だった。


「征くん、わたしとても暇しているんです。よかったら話し相手になってくれるかなあ?」


微笑む彼女に何故だか面倒だと断る気にはならなかった。僕自身暇しているのもあったし、初対面ながら不思議と警戒していなかったのもある。距離を図るように言葉を選んでいる、そんな振る舞いをどこか好意的に感じたのも確かだった。ただ警戒はしなかったが、何にも知らない彼女を決して信用はしなかった。さすがに、初対面の名前しか知らぬ女の子に気を許すほどお人好しな性格はしていない。


「きみは、ここで何をしているの?」
「あー、保護者のひとたちが難しい話するから、ちょっとそのへんで遊んで来いって」
「……そうか」


保護者のひとたち、か。両親とは言わないあたり、家族で旅行に来ているわけではないらしい。……穿った考えだろうか。とはいえ、それを問い広げるほど、彼女に興味があるわけでもなく、ただ気が向いたから、暇潰しだから。聞こうとは思わなかった。上体を起こし、膝を組む彼女を観察しながら、同い年くらいにしてはずいぶんと距離をとった話し方をする子だな、とそんな印象を受け取った。


「征くんもこのへんに別荘を持ってるの?」
「おれではなく、父の持ち物だけどな」


そっかあ、と相槌を打ち、彼女は今度は小川の方に足を向けて仰向けに寝転んだ。ナズナや白詰草の花が高い位置でひとつに結い上げている髪を縁取った。白い瞼がゆっくり下げられて、またゆっくり開いた。


「……征くんってなんだか不思議な子ですねぇ。最近友達になった男の子とちょっと似てるかも!」
「ふーん……そうか」


不思議な子、か。そういえば異質な自分に対し、そんな表現を用いられたことはなかったな。……丸っこい瞳が長いまつげの向こうで観察するように僕を見ていた。――その目に不思議と視線を奪われて、見つめあった。そうして、白く小さな手のひらを、彼女は僕の方へと伸ばす。


「征くんはきれいだね、まるで山茶花みたい」
「……は?山茶花?」
「うん。きれいだよね、わたし好きなんです」
「……そんなこと言われたことがない」


直前まで僕へと伸ばされていた手はやがて落ちて、白く細い手のひらを惜しげもなく太陽に翳しながら、彼女はくすくすと笑った。


「『山茶花の 花や葉の上に 散り映えり』!」
「高浜虚子か……って散ってるだろう!人を例えておいて酷いな」
「あはは!!ごめんなさーい!」


ごろごろと左右に転がる彼女を思わず睨む。


「……いや、それにしても小学生がずいぶんしぶい句を知ってるんだな」
「その言葉そのまま返すよ!征くんは頭いいんだねぇ」


わたしは、お父さんが国文学者で家に本がたくさんあったから、たまたまそういうの読んで育ったんです〜、と返された。


「じゃあこれは?」
「坪内逍遙の『小説神髄』!征くんてば、またすごいの持ってるねぇ。わたし、難しかったから途中で読むのやめたよ」
「教養として家庭教師に指定されたんだ、まだこれから読む」
「へー、すごいねぇ」


確かに小学生が読むような本ではないだろう。この文芸評論で、夏休みの課題の読書感想文を出したら、あのおちゃらけた担任はどういう反応するだろうか。いや、今さら驚きはしないのだろうな。そんなくだらないことをふと思った。


「征くんは何年生なの?わたしは三年生だよ」
「そうなんだ、おれもだ。同い年だな」
「そっかあ!なんかうれしいです」
「そうか」


白い瞼が再び閉じられる。そのまま、彼女は大きく深呼吸をして、じぃと再び僕を見つめた。彼女のその不思議な魅力のある瞳が、ただ僕だけを推し量るように、きらめいていた。


「征くんは、やっぱり山茶花みたいだ」


夏の、光がただ揺れていた。吹き抜ける風も、静かに身を揺らす草花も、すべてがやわらかなにおいに充ちながら、息をしていた。あの夏の、彼女の白い瞼が、僕は今でもずっと忘れられない。




130810
栄光を着飾る王さま 01