――苗字、きみに、伝えたいことがあるんだ。




俺を見つめて、ゆっくりと花が綻ぶような満面の笑みで、きみがうれしそうな声で呼ぶその呼び名。ねえ、知っているかい。それは、そうやって俺を呼ぶのは、世界でただひとりだということを。


「――……もしかして、征くん?」


俺は、この笑顔を知っている、知っていた。あの日も、きみは俺のしあわせを願ってくれたね。ああ、なんていうことだろう。長い間、とんでもない勘違いを俺はしていたらしい。


「あ、わたしにとっては二年ぶりなんだけど、征くんにとっては……えっと五年ぶり、なのかな?わたしのこと憶えてる、かなあ?」
「……もちろん。忘れられるわけがないよ。大切な約束をしたんだからね」
「ふふ、そっかあ。よかった」


記憶が、巡る。白詰草が咲き乱れるあの場所で、きみは俺に四つ葉のクローバーを差し出してしあわせを願ってくれた。あの日、俺が出会ったのは本当はきみのほうだったんだ。どうして、俺は今まで勘違いしていたのだろうか、いくらなんでも好きな女の子を間違えていただなんてバカにもほどがある。いくら彼女があの日とずいぶん変わっていて、『なずな』という名前の彼女によく似た少女がいても、気付くべきだった、見抜くべきだった。どうしてそれが今になって分かったのか、どうして昨日はそう呼ばれたときに気付けなかったのか。疑問や後悔が胸を叩く。大切なものは、本当はこんなに近くにあったのに。あの日、どうしてきみが『なずな』と名乗ったのか、そんなことは解らないけれど。黄瀬ならばその意味を知っているだろうか。ああ、でも、今は。そんなことはどうでもいい。


「……しあわせは、見つかった?征くん」


穏やかに微笑むきみに、俺はついにありのままに笑い返す。


「ああ、やっと今、見つかったんだ」


――なまえ、きみに、ずっと伝えたいことがあったんだ。


「ありがとう。きみが好きだよ、なまえ」




凌ぐのは愛しさでした。




ねえ、苗字。
俺はね、ずっと、ずっと、「しあわせ」を探していたんだ。探しすぎて早とちりするくらい、ずっとほしかったんだ。ずいぶん回り道をしたし、たくさん傷付けた。いつか、いつか、きみが、誰かのふりではないありのままのきみで、笑えたなら。それは、できるならば俺のためであってほしいけど。でも、今は、何も望まないよ。今度は俺が、きみのしあわせを願うから、だから。どうか今は、何も知らないまま、あの日のように笑って。





130715
溶けるさかな end