俺が『彼女』に出会ったのは、まだ小学生で、五年ほど前のことである。


征くんはもっと自分を愛してあげなきゃ、もっと自分を大切にしてあげてよ。


赤司家の跡取りとして育てられ宿命付けられて生きて、そのために俺は多くのことを我慢をしたし、いろんなことを努力してきた。そうやって、ただ強いられるままに生きて。そうしたら、自分のことがよくわからなくなっていた。好きなことなんて、ごくわずか。好きな色は?と聞かれても特にはないし、得意な科目は?と聞かれても全部が全部優秀でなければならなかった俺にはその問いは愚問だったから。敷かれたレールをひた走ることに、疑問を持つ余裕さえ当時の俺にはなかった。


しあわせになってよ。征くんはきっとすごいひとだもの、きっと誰よりしあわせになれるはず。


『なずな』は、そういって俺の、俺の個人のしあわせを願ってくれた初めての人間だった。だから幼い俺は、その純粋な眼差しにどうしようもないくらい惹かれたんだ。初めて、本当の「愛」を感じたんだ。あたたかい手のひらが心地よくて、やさしい笑顔に泣いてすがりたくもなったんだ。ただ傍にいてほしいと他人に対して思った初めてのひとだったんだ。


だからね、もしも征くんが、――いつかしあわせを見つけたなら、そのときは心からの笑顔で笑ってね。わたし、ずっと征くんのしあわせを願っているよ、いつかまた会えたとき征くんが笑っていますように、って。


『なずな』、しあわせはきみだった。俺のしあわせはきみだったんだ。きみが傍にいてくれれば、それだけで俺は、うれしくて、ちゃんと笑えたんだ、笑えていたんだよ。


「あなたのすべてが、大好きです」


赤司くん、とこんな酷い俺に笑いかけてくれた苗字に、俺は、まだ笑い返せない。だが、だけど、だけど。俺は今確かに、苗字に離れていかれることがとてもこわいと、思ったんだ。たとえ寂しさゆえの願いだとしても、どうか傍にいてほしいと心から思ったんだ。







苗字が救急車で搬送された日の深夜、黄瀬から一斉送信で事後報告のメールが届いた。脳に異常はないこと、苗字の意識が戻ったこと、脳震盪とはいえ意識喪失があったので数日から一週間ほど大事をとって入院すること、諸事情で親族以外面会謝絶になっているが心配はいらないこと。


「そうか、……よかった」


小さくこぼれた安堵の言葉は思ったよりも弱々しくて、あまりにらしくなくて思わず苦笑する。思えば、今日はずっとらしくなどなかった。本当は、動揺しているみんなに付き添うくらいの心持ちで率先して病院に向かうのが、正解だったかもしれない。あんなふうに拒否をして、わざわざ訝しげな視線をもらうようなそんな選択は普段の俺ならばきっとしない。「赤司征十郎」ならばそんな采配は、しない。黒子にだけは、気付かれていたのだろう。苗字に別れを告げられた瞬間から、既に俺は「らしさ」を失っていたから。携帯を手に、することはひとつだった。「らしさ」は今、俺の手元にはない。虚勢も矜持も、もう必要ない。だから、俺は俺の心のままにしたいことを、しよう。


「――……もしもし、黄瀬か」


本当はこわかったんだ。苗字が離れていってしまうことが。傷つけてでも、繋ぎ留めたかった。愛を乞う方法なんて分からなくてあんなふうに間違えてしまったけれど。『なずな』が俺のしあわせを初めて願ってくれたひとなら、苗字はこんなにも打算的で軽薄な俺を、ありのままに受け入れて愛してくれたただひとりのひとだから。だから、俺はこわかった。『なずな』を忘れることで、またひとりぼっちになるのではないかと、そんなことを思う自分の弱さが。ずっと、本当は悲しくて、寂しくて、苦しくて、こわかった。何よりもそれを認められない自分のどうしようもない弱さや寂しさが。だから、だからこそ今、俺が願うのは、たったひとつだ。







「……はあ、まさかあの赤司っちが部活をサボるなんてね〜。しかも来週試合あるのに」
「うるさい。お前だってサボりではないか。それに、キャプテンがいなくても部活は回るから問題はない」
「いやあ、それにしたってあの真面目な赤司っちがさぁ〜、なまえのためにとか」
「今の俺にはこっちのほうが大切だ」


そうして取り繕うことなく告げた言葉に、黄瀬はなんだかうれしそうに笑った。なんだこいつ、ニヤニヤしがって。まるで、黒子みたいな笑い方をする。あの、勘の鋭いあいつのような。


「そんなになまえに会いたいんすか」
「……ああ」
「諸事情で親族以外面会謝絶って伝えたっすよね」
「だからお前にこうして頼んでいるんだろ。……頼む」


頭を垂れる俺に黄瀬は頭上で苦笑しているようだった。いやあ、赤司っちに頭下げられるとかなんか怖いんすけど、と言ってから、それから黄瀬は。


「……会わせてあげたいのは山々っすけど、たぶん今の赤司っちには酷なことっすよ」


泣きそうな表情をされて、一瞬心が揺れる。どういう意味か、推測しても答えは出なかった。昨日の、苗字に別れを告げられる直前のような、胸を叩く嫌な予感が再びこの身に過った。だがそれでも会わなければならない、苗字に会いたいんだ。酷なこと、か。今まで散々俺は苗字に酷いことをしてきたんだ。この一回だけではお釣りがくるくらいだ。どんなに苦しくても、それでも俺は彼女に会いたいから。







病室で傾く夕日を眺める苗字の後ろ姿は、よく見知ったものであるはずなのにやはり違うものに思えた。冬の冷たい風は、病院へと急ぐ俺を容赦なく責め立て吹き付けていたが、室内にいる今、それはない。赤と橙が入り交じるあの色に、やはり胸は痛んだけれど、だがそれよりもこの弱い心をつんざくのは、先ほどの黄瀬の、言葉。


「――……なまえは今、何故かここ三年間の記憶を失ってるんす」


脳震盪の影響で逆行性健忘に陥り、ここ三年間という特定の期間の記憶を失っているのだと。原因は不明である。


「……三年間?」
「うん。……だからなまえに会っても、赤司っちが誰か、なまえにはわからないんすよ」


頭から冷水をかけられたような気分だった。いや、氷の刃で心臓を串刺しにされたような気分か。……ともかく、ひどい目眩に吐き気がした。


「三年間……」
「今の名前は14歳のなまえじゃなくて、赤司っちと出会う前の、11歳のなまえなんすよ」


せっかく真面目なあんたが部活をサボってまで会いに来てくれて、申し訳ないっすけど、と丁寧にも謝る黄瀬の声なんか耳に入らなかった。俺は、俺はいつもそうだ。ほしいと願えば願うほど、それは遠ざけられていく。どうして、大切なものほど、この手をすり抜けてしまうのだろう。どうして、どうして。


「……もしかして、」
「赤司っち……?」
「俺の、せい、なのか……?」


口許が止めようもなく震えてしまう。こわい、こわい。苗字、俺は、俺は、ただ。




あのあと、黄瀬は赤司っちのせいじゃいっすよ、とそういってくれたけれど。だが、少なくとも原因のひとつなのではないだろうか。何故三年間なのか、黄瀬は三年前に苗字の母親がちょうど亡くなったからそのあたりが強いと言っていたが、俺にはそれだけとは思えなかった。人間の脳なんて、未だ人知でははかりがたい神秘なるものだと、そんなことは解っている、元より理解はしている。だが、それにしても、俺は、俺のしたことは、そんなにもお前を追い詰めるものだったのだろうか。あるいは、忘れてしまえるほどにとるに足らないものだったのだろうか。……どれだけ考えたところで答えなど出るはずもないし、酌量の余地などありはしないのだ。


「それでも、会いたいっすか?」


――答えは、やはりひとつだ。




「こんにちは」


黄瀬に案内され、訪れた病室は静寂に満ちていた。窓の向こうを眺めていた顔がこちらを振り返る。細い肩が揺れる。あの細く頼りなげな肩を、昨日は乱暴に取り扱ってしまったことを思い出して、ひどく後悔した。あんなことを、望んでいたわけではなかったのに。あんなふうに、止めどない恐怖、絶望、慟哭を吐き出して、乱暴に押し付けるつもりではなかったのに。ただ、こわくて、苦しくて、悲しくて。俺はあまりに弱くて、止められなかった。そう、懺悔したところで謝ることすらもはや許されないのだけど。


「なまえー、具合はどう?」
「大丈夫だよ、涼太くん。頭痛とかもないし。強いて言うならあんたがでかすぎて首が痛い」
「……それは、まあ、仕方ないでしょ!」
「そうだなぁ。ごめんごめん」


黄瀬をからかい笑う彼女は俺の知っている苗字と、違うようでいて同じように見えた。笑うときに無意識に髪をいじるくせは、俺の記憶の中の彼女と同じだった。『なずな』にはあんなくせは特にないようだったから、あれは元々の苗字特有のくせなのだろう。『なずな』の面影を求めて苗字を傍に置こうと考えたのに、それでも、何故か俺はこのくせをいとしいと感じていた。その理由を詮索したくなくて、無意識のうちに俺は考えることを放棄していたけれど。


「……あれ、お客さん?」
「あ、なまえ。このひとは……」


昨日までこの手が触れていたひと、されど中身は俺を知らない11歳の苗字が俺をその目に映す。黄瀬が気遣わしげに俺たちを交互見ている。だが、何も口にできないまま俺はただ曇りない瞳で俺を見つめる苗字を見ていた。ああ、この瞳に見つめられながら「大好きですよ」と言われることが、心地よかった、うれしかった。もう、言ってはくれないだろうけど。


「――……あれ、あなたは、」




溶 け る さ か な




俺を見て、何故か反応を見せた苗字に、俺も黄瀬もひどく驚いて、首を傾げる苗字をただ見つめてその続きを待った。苗字、きみに、伝えたいことがあるんだ。




130715