そういえば視聴覚室の鍵を閉めるのを忘れてしまっていた。……正直それどころではなかったし、あの状態の苗字とあれ以上一緒にいるわけもいかず、かといって鍵を閉めたいからと追い出すわけもいかないし、キャプテンである自分があれ以上長居すれば部の進行に支障を来してしまう。まあ、後で休憩時間に閉めにいこう。鍵は所定の鍵かけに掛けたままであろうから。


「赤司、遅かったな」
「……ああ。悪い」


そんなことを思考しながら、ようやく練習着に着替え体育館に到着すれば緑間が話しかけてきたので、言い訳は口にできるわけもなくとりあえず軽く詫びていると、紫原から意味ありげな視線をもらったが特に答えるつもりはなく受け流した。黒子からは体調が悪そうだと心配されたけれども、大丈夫だと取り繕った。やはり疑わしげではあったが説明する気など更々なかったし、できるはずもなかった。


「…赤司っち」
「……黄瀬か」
「なまえは?」


聞かれて、一瞬返答に詰まった。訝しげな視線は、まるで俺を責めているように見えた。今は、いつもよりずっと強く。僅かに罪悪感が疼いたが、いつものように俺は振る舞いながら「体調が悪そうだったから帰したよ」と誤魔化した。黄瀬はやはり疑いの目で俺を射抜いていたが、それくらいで剥がれる虚勢ではないので、いつものように俺は小さく笑ってかわす。


「ところで赤司、今日の練習メニューのことだが」


緑間と今日のメニューについて相談と確認をしながら、俺は頭の片隅で、あいつの、苗字のことを思い出していた。…何故あいつは、突然あんなことを言ったのだろう。俺と、別れたい、だなんて。――想像して、目眩がした。


「(……それにしても、あの感覚は、なんだったのだろうか。)」


話があると言われて、咄嗟に悪いことを想像した。あいつの知らない笑顔とか、取り繕わない振る舞いすべてに、嫌な予感が、して。それは見事的中したわけだが。とはいえ俺がすべきことはひとつだった。なんとしてでも、繋ぎ止めること。やっと、やっと『彼女』の欠片を、代わりを見つけたというのに易々と手放せるわけがない。もう二度と喪ってたまるか。……あの、春の悲しみは二度と、ごめんだ。


「…待たせて悪かったな、ボールを一旦片付けて整列してくれ!」


30分ほど遅れたがその間は各自がシュート練習などをしていたようなので、部員たちに声を掛けて練習を始められるように整列の号令を掛ける。いつものようにキャプテンとして、俺は動いた。しかし、頭の中では絶えずあの嫌な予感のことがぐるぐると螺旋を描くように渦巻いていて、酔ってしまいそうなほどにひどく気分が悪かった。……ああ、いやだ。早く、早く切り替えなくては。俺はバスケ部のキャプテンで今は私情を挟むべきではない。練習にも集中しなくては。来週は試合、負けるわけにはいかない、いかないのだ。――渦巻く思考を遮ろうとすればするほど、ひどく胸が痛んだ。


「(…あんな、あんなことをするつもりでは、なかったのに。ただ、俺は――俺は?)」


何を、あのとき、俺は、思っていた?少なくとも明らかに動揺し狼狽していた。内心、ひどく混乱していたのだ。……苗字の、あの言葉に。…この、俺が?――何故?


「――……っきーちゃん大変だよ!!!」
「え、桃っち!?どうしたんすかそんな慌てて!」


慌てて飛び込んできた桃井にランニングは中止した。あまりにも様子がおかしいため青峰と黒子、そして名を呼ばれた黄瀬が素早く桃井の元に近寄って行った。あまりに急いでいたのかすっかり息を切らせ、話すことが儘ならない状態で、とにかく桃井が落ち着くまで待った。そして、飛び出した言葉に、空気が凍った。


「――なまえちゃんが頭を強く打って意識不明のまま救急車で運ばれたって!!」


黄瀬はその言葉を聞いた途端に、練習着のまま体育館を飛び出した。どこの病院かは聞いていないのに一目散に駆け出した黄瀬の背中をただ俺は見た。何も考えずに、ただ駆け出すことのできる愚直さが、今はとても羨ましかった。


「赤司くん!あのね、なまえちゃんはっ」
「いや、いい。……このままでは全員動揺していて練習にならないな、試合前に怪我でもしかねない」


監督に念のため確認しておくか。いや、この様子では十中八九ランニングや筋トレのみになるだろう。こんなふうに気も漫ろでは突き指や捻挫をするやつが出かねない。今日はミーティングがあった上に、元々学校の放課後練習はあまり時間を取れないからな、まあ構わないだろう。冬は学校全体の方針で最終の下校時刻も通常よりは早いから。


「…今日は練習はやめだ。いつもの筋トレメニュー3セット、各自やっておくように」


聞いているのか聞いていないのかは判断しかねるがとりあえず返事はあったので、思わずため息を吐いた。……キャプテンなど、やはり面倒な役回りだ。そんなこと、ひどく今さらではあるが。


「……赤司くん」
「なんだ、黒子」
「あんまり眉間にしわ寄せると、あとついちゃいますよ」
「……うるさい」


黒子はそうして俺をじろじろと観察して、小さくため息を吐いた。他のやつらは彼女が救急車で運ばれたというのに、と黄瀬の対応との差を思案し怪訝に思ったらしく、俺を訝しげに眺めていて大いに不愉快だった。


「…職員室に行ってくる」


背中に張り付いたいくつもの視線すべて、粉々に切り刻んでやりたいと、バカなことを思った。







「……で、さつき。苗字はどうなんだよ?」
「あっ、あのねそれがね!私もよくは知らないんだけど、○○病院に搬送されたらしいんだけどねっ!」
「…さっちん、苗字ちんならきっと大丈夫だからさ、落ち着いて」
「……赤司は冷静なものだな」


苗字さんを心配するあまり、すっかり狼狽する桃井さんを宥める紫原くんの眉も少し下がっていた。同じく心配そうな緑間くんの小さな呟きに、ボクは思わず彼を見上げた。


「……まさか。彼がおそらく一番動揺してますよ」


あれは、むしろ思考停止しているからこそ、普段通りに振る舞おうとしているのだろう。動揺のあまりそのことを考えるのを放棄し、普段の行動をとることで無意識に受け入れまいとする心理が働いているように見える。本当に面倒な、ひとだから。


「赤司くんが戻ったら、ボクらも黄瀬くんを追いましょう。赤司くん一人だと、彼、事故ってしまいそうですから」


などと言いながら桃井さんが知りうる限りのことをみんなで聞きながら、赤司くんが戻って来るのをとにかく待った。携帯も財布も何も持たずに行ってしまっただろう黄瀬くんが心配ではあったが、とりあえずどこの病院に搬送されたか、搬送先を知っていそうな人に尋ねるくらいの冷静さはあるはずだ。桃井さんの話ではつい先ほどのことなので、そのあたりの事情を知っているひとはまだそのへんにいる可能性は高いだろうから。


「監督からも許可が下りた。今日の練習はこれで終わりだ。各自、残ってメニューをこなすなり、自宅に戻って消化するなり自由にしろ」


戻ってきた赤司くんはいつも通りの指示を出した。先ほどの暫定のものと、監督の見解とはやはり一致していた。


「それと、苗字のことだが、どうやら階段から落ちて脳震盪を起こしたらしい。意識喪失が見られるからそれなりに重度のものだろうな」
「……脳震盪って、結構やばいんじゃ」
「実際のダメージについては脳を詳しく検査しないと分からない」
「……赤司くん!私たちも病院にっ!!」
「あまり大勢で押し掛けては病院側にも迷惑がかかるし、とりあえずは一通り検査をするだろうから今押し掛けてもすぐ苗字に面会はできないだろう。だから病院に行くのはお前たちだけにしろ。他は心配だろうが、今日は各自自分のことをするように。ああ、あと黄瀬は何も持たずに行っただろうから、お前たちは黄瀬の荷物も持っていってやれ」
「……赤司くん」
「なんだ、黒子」
「「お前たち」?赤司くん、もしかしてキミは行かないつもりですか?」


いつものように、冷静にあるいは饒舌に。キャプテンとして指示を飛ばすさまはとても理性的であり、あるいはキャプテンとして理想的な対応でもあった。


「え、赤司くんも行くよね、むしろ赤司くんが一番なまえちゃんを心配してるよね!?」
「……さつき、落ち着け」
「赤ちん?」


だけど、キミにしては珍しく判断を見誤ったと、ボクは思うのです。無表情を貫く彼は、周囲からの視線を集めながらも決して冷静さを欠くことなく、ただ頑固なまでに私情を掻き捨てていた。


「――……俺は、病院には行かない」







「黄瀬くん」


あれから、結局黄瀬くんのあとを追うようにしてボクらは急いで病院に向かった。とりあえずそのまままっすぐ帰宅できるように全員制服に着替え、案の定残されたままであった黄瀬くんの荷物を携えてやって来た。――赤司くんは、やっぱり来なかった。


「……黒子っち」
「他のみんなは帰りましたよ」
「黒子っちは?」
「ボクも面会時間がそろそろ終わってしまうのでもう帰ります。でもその前に、一ついいですか」


苗字さんは一通りの検査でとりあえず特別脳に異常はないことが分かった。とはいっても何故か未だに意識がないため、現状はあまり芳しいとは言えないのだろう。黄瀬くんは目に見えて憔悴しきっている。彼は彼女とは血縁関係があるのでボクとは違って、この後も病院に留まるつもりなのだろう。ボクを見る視線にいつもの覇気はない。


「え、なんすか」
「赤司くんのことです」
「……赤司っち?」
「ボクは思うんです。……赤司くんが本当に、本当に好きなのは、実は『なずな』さんのほうではなく、なまえちゃんのほうではないかと」
「え、は……ちょ、まさか?」


どうしてそれを、といった表情で黄瀬くんはボクを見つめるけれど、実はボクはなんとなく確信しているんです。赤司くん、少なくとも冷静なキミならばあの場であんなことを口走りはしなかったでしょう。いつだって強かなキミならば。赤司くん、キミは本当はこわかったんでしょう。ひとりになりたかった、動揺も不安も恐怖も何もかも、弱いところなんて見せたくなかった、そうでしょう赤司くん。虚勢も矜持ももはやかなぐり捨てなければもうどうにもならないはずなのに、相変わらず頑ななひとだとボクは呆れますよ。ああ、早く思い知ればいいのになあ。




か み さ ま お 願 い




ねぇ、せいくん。
いつか、あなたの悲しみが、いつか癒えたなら、そのときはどうか笑ってほしい。心からの、あなたの本当の笑顔で。しあわせ、だと。ありのままのあなたで。





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