――…アイしてる、アイしてるんだ、苗字。……傍にいてくれ。


赤司くんはひどい、なんてずるいひとなのか。わたしには分からない。その言葉の中身に愛など少しも伴ってなどいないくせに、すがりつくためにそんな言葉をさらりと口にするなんて。「あいしてる」の言葉は赤司くんにとっては、ただの飾りでしかないのだろうか。使い方を知らないのだろうか、それとも、彼はただ愛の意味が解らないのだろうか。あんな、軽薄な言い方はあまりにも赤司くんらしくないではないか。そう考えたら、やはり赤司くんにとっての「アイしてる」は、実感を伴わない記号なのかもしれない。憂鬱に思考を巡らしながら、茜さす階段に足をかけた。


「…苗字さん」


後ろから名を呼び掛けられたので、一段目に片足をかけた状態のまま振り向いた。わたしを呼び掛けたと思われるその女生徒には少しばかり見覚えがあった。嫌悪を交えた目でわたしを見下ろす彼女は、時折わたしの背中に刺すような鋭い視線を投げ掛けていた人の一人だった。他の大半は突然赤司くんと行動を共にしだしたわたしへの嫉妬の視線だと思うけれど。


「なんでしょうか?」
「…あなた、なんなの?」
「はい?」


睨め付ける視線はあまりに痛いものだった。何故この人はこんなにも憤怒しているのか。考えたところでわかってはいるのだが。この女の子は『なずな』の友人であったはずである。


「最近のあんた、きもちわるいんだけど」
「……」
「…なんで『なずな』みたいに笑うの、話すの、」
「……」
「……っきもちわるい!!」


涼太くんの「模倣」が「再現」であるならば、わたしの「模倣」は「錯視」に近い。きもちわるい、と言われるだけの完成度を誇るのは正直『なずな』くらいのものであるが。黒子くんほどでないにしても、存在感を限りなく薄くすることもかつて試みたことがあった。目の前の彼女の罵りを受けながら、灰崎くんの心配そうな目を思い出していた。彼もまた、こういったことのリスクを知っている。そして、もうひとつは。


「…ごめんなさい」
「っはあ!?むかつくのよ!大体『あの子』はもういないのに、なんであんたなんかがっ!!」
「……赤司くんのことですか」
「――…!!」


図星か。おそらくこの女の子も赤司くんが好きなのだ。友人の『なずな』のことだけじゃなく『なずな』のように振る舞う偽者の女が赤司くんの隣で笑うことが許せないのだろう。……気持ちは、分かる。と、目の前に抑えきれないほどの嫌悪と嫉妬を露呈されながら冷静に観察し推察する自分が、わたしもきもちわるいと思う。


「不愉快にさせていることは心から謝罪申し上げます」
「……はあ!?」
「自分でも悪趣味だと思っています」


『あの子』は、『なずな』はもうこの世にはいない。今年の春、夭折してしまった。彼女の笑顔や言葉、記憶をわたしは強く憶えていた。目じりを下げて笑う、春風に舞う花のような女の子だった。初めて、わたしが本当の意味でなりたいと思った女の子だった。


「…あれ、……え、あんた、まさか?」
「……あー、そのまさかですよ。誰かにバレてしまうとは思ってなかったですが。まあ、何故か灰崎くんには気付かれていたようですが」
「……は、じゃあ、」


驚愕に揺れる彼女に、とにかく笑った。


「…でも、赤司くんに近づいたことは確かに、……申し訳なかったと」


それは確かにわたしが不用意だったかもしれない。…あんなふうに、苦しめるつもりではなかったのに。いつか、いつか、赤司くんの心の傷やその孤独が癒えたら、そうしたら。――なんて、浅はかだったのか。独善的なわたしの想いが赤司くんをさらに苦しめてしまった。こんな、こんなつもりではなかったと、懺悔するにはもはやあまりに虫がよすぎる。


「…ごめんなさい、今日は失礼します」


俯く彼女にも申し訳なかった。わたしは『なずな』ではないのに『なずな』にもう一度なろうとしている。――…気味の悪い子だ。……そう言われたことは一度や二度ではなかった。わたしは、いつでも自分ではない他の誰かになりたがった。そうしたら、誰かに、誰かに。


「…『あの子』は、もういないのに」


階段の二段目に片足を掛けたとき、彼女が呟いた言葉。その悲痛な囁きは、まるで。再び振り返り、そして。


「どうして、あんたが……!」


また、勢いよく突き飛ばされた。あれ、今日はこれで二度目だな、なんて冷静に思いながら彼女の表情を見た。それは、悲しくて苦しい、そんな、さっきも見た表情だった。――…ああ、泣かないでほしいのに。笑ってほしかっただけなのに。…ちがう。本当は泣いてほしかった。たくさんたくさん悲しみが降り積もって、どうしようもなく重く沈み込んだまま、泣くことすらできずにいる彼を。わたしを見つけてくれた、救ってくれた、必要としてくれた赤司くんを。


「……ごめんなさい」


誰に向けた謝罪だろう。零れ落ちた言葉は戻らない。もう一度、わたしは。


――そこまで考えて、わたしの思考はぷつりと止まった。ゆっくりと薄れていく意識は、幼い頃に海で溺れたときの感覚によく似ていた。たゆたう感覚に不思議と恐怖心はなく、むしろ安らかで穏やかですらあった。海で溺れてから、より海が好きになったなんておかしいだろうか。このまま、あの大好きな人魚姫のように、なにもかもを忘れて、溶けて消えてしまえたならば、どんなにシアワセだろうか。


見上げた踊り場の窓から射し込む夕日が眩しくて、視界が歪む。僅かに垣間見ることができたその色は、わたしの大好きなひとの色に似ていた。







――あれは去年の、春のことだった。


「……ええっ!ちょ、あなた大丈夫ですか?!」


帝光中に入学してから、約一月。穏やかな春の日和に瞼が思わず下がりそうであったのを憶えている。そんなある日、職員室への用事を済ましてから廊下をブラついていたとき、誰かがしんどそうに蹲っているのを発見したのだった。


「…大丈夫だ、心配いらない」
「いや、でも見た感じ熱がありますよね。とにかく保健室に行きましょう!」
「……大丈夫だ。これくらいなんともない。俺は部活に戻る」



運動部であるらしい彼はどうやら外周の途中で気分が悪くなり、裏庭のあまり人目に付かない日陰のところで休憩しているらしかった。とはいえ、顔が赤く、いかにも具合が悪そうだった。それなのに保健室に行かず部活に戻るという。そうして、煩わしそうに顔を背けられていたが、目立つきれいな赤い髪を見てふと思い出した。目の前で虚勢を張る彼は、一年生で異例のレギュラー入りを果たしたバスケ部の期待の新星、赤司くんだと。


「…倒れますよ」
「倒れるわけにはいかないな。……だが放っておいてくれ」
「……がんばるのは結構ですが、もっと、自分を大切にしてください」



無言を返されるが、仕方ないので水道をひねりハンカチを濡らし、眉間にしわを寄せる彼の顔面に無理やり押し付ける。


「…何するんだいきなり、不躾だな」
「赤司くん、立ち上がるのもつらいんでしょう。肩貸してあげますから、保健室行きましょう」



躊躇う手を強引に掴んで、無理やり肩を貸して立ち上がらせた。小さな抗議のつもりか、赤司くんはため息を一度だけこぼした。それから、……すまないとだけ言われた。すみっこに生きていたわたしには、なんだかとてもうれしい一言だった。




保健室に赤司くんを連れていきベッドに下ろした後、「ありがとう、きみがいてくれて……よかったよ」と目を閉じたまま小さく言われた。……見間違えでなければ、わずかに微笑んでいたような。気が緩んだのか赤司くんはそのまますぐに意識を失ってしまった。保健室に先生はいなかった。先ほど手渡したハンカチを赤司くんの額から取り上げると、手首を掴まれた。起きているわけではないらしい、無意識のままに掴んだようなので大丈夫だよ、と声をかければゆっくりと離された。赤司くんの寝顔も少しだけ穏やかになった。ハンカチを再び冷水で濡らして、彼の額に載せる。とりあえず、このままでは家に帰るのも大変そうなので、職員室に行って事情を話し赤司くんのお家に連絡をしてもらおう。それから体育館に行ってバスケ部の人たちにも報告すべきだろう。…マネージャーの女の子の何人かと赤司くんと同じく一年生でレギュラー入りをした人たちの顔は辛うじて知っているし、なんとかなるかな。序でに自販機でスポーツ飲料を買って来てあげよう。そこまで考えて、保健室を出ようとしたとき、再び手首を掴まれた。


「…どこに行く」
「職員室と体育館です。飲み物も何か買ってきますね」
「……」
「すぐ行ってきますよ」



意識が混濁しているのか、開ききっていない瞼から赤司くんはわたしを鋭く見つめていた。体調が芳しくないせいで、不安になっているのだろうか。つい掴まれた手を馴れ馴れしく握り返しながら笑いかけた。そうして、再びゆっくりと瞼を閉じ彼はわたしの手を離した。







戻ってきたとき、赤司くんの傍には『彼女』がいた。赤司くんの手を握りしめて笑っていた。赤司くんは、そんな彼女に。


「……傍にいてくれ、『なずな』」


甘く、笑いかける。相変わらずしんどそうではあったが、そこにはそれを超える甘さと、いとしさがあった。わたしはこのとき、赤司くんは『彼女』が好きなことを知ったのである。


「(そっか、……そっかあ。だから、たぶんさっきのは、)」


おそらくわたしと『彼女』を勘違いしたのだろう。背格好や声質は元より似ていたのだ。そして偶然にもこの日、わたしは『彼女』と似たような髪型だった。意識が朦朧としていた赤司くんにはわたしが『彼女』に見えたのだろう。まだ冷たいペットボトルを握りしめながら、赤司くんの荷物を持ってきてくれた緑間くんがわたしに声を掛けるまで、わたしは保健室の入り口で呆然と立ち尽くしていた。


――赤司くんには好きな子がいた。彼は『彼女』にこそ傍にいてほしいと願っていた。そして今年の春の終わりと共に『彼女』が亡くなってから今でもずっと、それを赤司くんは願い続けている。




もう、いらない。沈む




130714