※R15指定+「無理やり」表現を含みます。義務教育を修了されていない方や、そういった表現を不快に思われる方は閲覧をご遠慮ください。






赤司くんはわたしをまっすぐに見ない。それもそのはず、彼はわたしを通していつも『彼女』を見ている。


「赤司くん」
「なに?」
「このミーティングのあと、少しだけお時間いただけるでしょうか?」
「…少し?今ではダメなのか、まだ全員来ていないから今なら少しくらいお前の話を聞ける」
「いいえ、またあとでお願い致します」


…分かった、と怪訝そうに小さく諒承の意を示した彼に、彼女は小さく笑みを返した。その笑みは赤司が彼女に接触して以来、彼が一度も目にしたことのないものだった。臆病な最初の彼女から、彼が望む女になるまでの過程、および先日まで手元にあったその完成形からは造形しえないような種類の笑みだった。赤司は思わず目を見張る。そして、用は済んだとばかりに背を向けた彼女に、彼はふと嫌な予感を覚えていた。


「(――…なんだ、この感じは。)」


この、なにかが胸の内で暴れ狂う感覚を、仮に過ぎった既視感への警告だとするならば。彼にとってすることは、ただひとつであった。そして、授業を終えた一軍の部員たちがミーティングのために用意したこの視聴覚室にぞろぞろと集まって来たので、まず副キャプテンである緑間に資料を手渡した。


「これを回してくれ」
「赤司、全員揃ったのだよ」
「…ああ。――では、来週の試合のためのミーティングを始める」


そのときの苗字なまえが浮かべた表情を、彼は一生知らない。







「赤ちーん、体育館行こう〜」
「ああ、紫原。先に行っててくれ、俺はここを閉めてから行く」


そうして、カーテンや窓を閉めたあと赤司の元に近寄ってきた彼女にちらりと視線を向けた紫原は、なにかを察したのか特に言及するでもなく、分かった〜と気だるげに返事をしたのち、すぐに教室を出ていった。完全にその姿が見えなくなるまで、ただ無言のまま見つめていた。あとに残った赤司と彼女の二人だけの空気は今までになく、重く、沈滞していた。


「苗字」
「はい」
「話って、何」


もはや目も合わさぬ彼を彼女がどんな心持ちで見つめていたかは、その面差しからは推測することは不可能であった。赤司がさとい少年であるように、同時に彼女も大変さとい少女だった。わずかな無言すらも二人は敏感に推量してしまうくらいに。とはいえ、そこに何らかの意図があったわけでなく、単純に僅かな躊躇いがそれを数秒あまり遅らせたにすぎなかった。彼女のほうにその面差しを向ける際に、さらりと揺れたゆたう美しい赤い髪に目を奪われながら、その言葉を口にする重さは彼女自身の想像の域を優に越えていたことは謂うまでもない。


「…単刀直入に言います」
「……」
「――わたしと、別れてください」


それが言葉になった瞬間、底知れぬ恐怖感に身を凍らせた。口許が戦慄くことを止めることができない、足許が崩れ去るような喪失感を止められない、すべて、なにもかもが終わってしまう、なかったことになってしまう。正しく、あるべきかたちに、還ってしまう。それは、本当はとても、とても、こわいこと。


「…それは本気で言っているのか?」
「こう見えて冗談は苦手ですが」
「……」


――なにかが、無惨に千切れた、音だった。


「…っえ!?あ…赤司く…!?」
「うるさい、黙れ」
「ちょ!やめ…離して――!!」


違う、違う、ちがう、ちがうのに。こんなことを、望んだわけではない。違うのに。胸に巣食う恐怖が絶望が慟哭が、ただ止まらなかった。苦しくて苦しくて、ただ悲しかった。――のちに、そう懺悔した。


「な、赤司くん!!なにをっ…ひ……いやです、嫌、いや……!!」
「うるさいうるさい、黙れ黙れ黙れ!!その愚昧な口を閉じろ……!!!」
「なっ!…っ…んん…!!」


力のままに勢いよく彼は彼女を突飛ばし、そして視聴覚室の固い机に俯せの状態で押さえつけた。そして何かを言われるのが嫌で嫌で嫌で、こわかった。赤司は自分のネクタイを彼女のその恐ろしい口に宛がい、そしてもう何も口にしないように蓋をするように、塞いだ。そして彼女の胸元のリボンを無理やりほどいて、抵抗を続けていた両手を後ろ手に縛った。昨夜はその白くやわらかな手を、あんなに熱く握っていたのに。自分の気紛れに応じるままにキスさえ落としたはずの、いとしさすら宿していた手だったのに。が、それがもはや今では全く別の塊に赤司には見えた。これほど、白々しいほど、遠くに存在しているような、まるで自分とは全くの無関係な代物であるかのように思えた。その彼女の両の手に、赤司は自分でも処理できないくらいに恐怖した。


「…苗字」
「…んー!……んんっ!」
「苗字……苗字、」
「……っ」
「…苗字、苗字……お前は」
「………」
「―――俺のモノだ。……お前は一生、俺の、……俺の所有物だ」
「…――!!」
「逃がしてなんか、やらない……!!」


瞬間、彼女は絶望した。瞬間、彼は安堵し、そして高揚した。


「…アイしているよ、俺のかわいい××」


それは、所詮贋物であることを証明する言葉だった。口を塞がれた彼女に反論する術などなく、ただ涙だけが頬を伝い、口許に宛がわれているネクタイへと吸い込まれ消えていった。組み敷かれたままで、そのまま彼女は無体な行為を強要された。口では辛辣なことを言うけれど、なんだかんだ尊重し慮ってくれた、あのやさしい赤司が、彼女の意思を本当の意味で踏みにじったのは、これが初めてのことだった。


「…アイしてる、アイしてるんだ、苗字」


彼女の意思を無視したその行為の間中ずっと、静かに泣きじゃくる彼女の耳許に、赤司はその言葉を囁き続けた。まるで、愛を乞う術を知らない小さな子どもが、懇願し赦しを乞うように。彼女は、泣いた。彼は、泣けなかった。







「…俺は、別れないからな」


ネクタイだけはわたしの涙やら唾液やらがついて汚れてしまったので、いつものように胸元にはないが、それ以外はすっかり身なりを調えた赤司くんは、未だ何も言わないわたしを見下ろしながら、そう言った。地を這うような、冷たい、声だった。目は合わせられなくて、身体も凍りついたように動かなかった。見かねた赤司くんは、外れてしまっているわたしの胸元のボタンを留め、リボンまできれいに結んでくれた。離れていく赤司くんの手を思わず掴む。赤司くんの手はこんなにきれいなのに、袖から覗くわたしの手首は痛々しいくらい、赤黒い痣になってしまっていて、恐ろしいような恥ずかしいような気持ちになった。


「……征…くん」
「!?」
「どうして、征くん」
「苗字、お前…!!」


驚愕と恐怖が半々といった表情で瞠目した赤司くんは、勢いよくわたしの手を振り払った。


「征くん、わたしは、」
「っ黙れ、やめろ……!それ以上言うな!!!」
「…わたしは、ただ征くんに……!」
「お願いだからやめてくれ!!」
「……」
「……やめてくれ…」


両の手のひらで顔を覆う赤司くんはあまりに弱々しく、悲しげだった。やめてくれ、と呟く赤司くんに、わたしはただ困惑した。…赤司くんはわたしを一体どうしたいの。わたしに傍にいてほしいと願うくせに、あなたは『なずな』が好きで、唯一のひとで。それなのに。


「…赤司くん」
「……」
「わたしは、どうあっても『彼女』にはなれない」
「……」
「あなたの好きなひとには、なれない。わたしは『なずな』じゃない、『なずな』にはなれないんだよ」
「……うるさい」
「わたしを手にいれても『なずな』は赤司くんのものにはならない!『あの子』はもう……!!」
「黙れ!!お前なんかっ、おまえなんかただの代わりのくせに、所詮贋物のくせに……っ!」


届かない、まだ届かない。そう覚った瞬間、どうしようもなく泣きたくなった。ああ、赤司くんが遠い。手を伸ばして触れてみても、あなたには決して触れない。触れさせては、くれない。


「…………すまない。悪かった」
「……赤司くん」
「…部活、休んでいいから」


今日は帰れ、と小さく呟き、赤司くんはそのまま教室を後にした。その背中はとても小さくて、とても寂しそうだった。赤司くんの心の隙間は、思ったよりも大きい。あのいつも冷静な赤司くんが取り乱すくらいに。人知れず、ため息が出た。……なんだか、とても疲れた。


「…『なずな』、あんたなら、どうする?」


身体中が痛かったけど、なにより心がとても痛かった。わたしを押さえつけた赤司くんの手は、カタカタと震えていたし、赤司くんの瞳はずっと揺れていたのがひどく心に残って離れない。こわい、悲しい、苦しい、寂しい、って叫んでいるみたいで。泣けない弱さが、そこには確かにあった。――だからこそ、わたしは。


「…征くん」


忘れないで、忘れてしまわないで。


「……『なずな』」


わたし、本当はとてもこわいのに。それでも、わたしもう一回だけ、がんばるから。


「……本当は、あの件は断るつもりだったけど」


赤司くんのため、と思ってやるしかない。ひょっとしたら、赤司くんにとって全然うれしくもなんともないことかもしれないけど。でも、もう決めた。あの心配性な従兄は、なんていうだろうか。想像して、視聴覚室に鍵を閉めながら、無意識に唇を噛んだ。…あーあ、やっぱりわたし、ばかだな。




下水道の人魚は甘美と謂ふ




――赤司くんが置いていった視聴覚室の鍵を握りしめ、目を閉じた。そして、自分のきもちにも鍵を掛けた。もう二度と、溢れ出さないように。


その日は、冴えた橙と赤の入り交じる夕焼けが、悲しいくらいにきれいだったのを強く、憶えている。





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