――これは、遠い昔の話。


「じゃあ征くんはしあわせじゃないの?」


首を傾げた拍子に『彼女』の髪がさらりと零れた。柔らかな髪色に映える夕焼けのような橙色の髪飾りがあまりに鮮やかで、思わず目を奪われる。さわさわと穏やかな風が吹き、白と緑の草花もハミングのような心地よさでそよそよと揺れていた。


「…『なずな』には、どう見える?」
「わたし?うーん……」



ああ、これは夢だ。そして、俺が一番帰りたいと願う過去の記憶。もしも、もしも、この日に戻れるのならば何を犠牲にしてもかまわない。すべてを征しすべてを手に入れても、決して叶えらることのできない願い事。


「…うーん、とりあえず征くんはあんまり楽しそうに見えないなあ」
「きみはこんなに能天気でお気楽なのにな」
「うわあ!ひどいよ征くん!!わたしにだって悩みのひとつやふたつあるんだからねっ!!」
「…あっそう」



うわあ、征くんてば冷たいなぁといじける『なずな』があまりに素直だから、俺は思わずくすりと笑う。それを見た『なずな』は目を輝かせて、俺の手を握る。


「ええ!征くんちゃんと笑えるじゃん!!今の笑顔すてきだったよ!」
「……なんだそれ。おれだって、ちゃんと笑える」
「…えー、だって征くんさぁ」



その時の『なずな』の困った顔は、十にも満たない年齢の少女の表情にしてはずいぶんと大人びていて俺は思わず目を見張った。その時、幼い俺は何故か、遠い記憶の中の母の姿を思い出していた。唯一とも言える記憶の中、母は病床でゆっくりと忍び寄る死のにおいを纏いながら、儚く笑っている。


「…笑うことはできても、笑顔は苦手でしょう?」


――ああ、もしもこの日に戻れるのならば、俺はきっとどんなことだってした。誰かを傷つけることも厭わず、今まで自分が築き上げてきたすべてのものを代償にしても、何に換えても、俺は。すべて、すべて憶えている。忘れてなどいない、まだ忘れてなどいないのだ。今も、こんなにも俺は苦しい。ああ、ああ、嘘だと知りながら手を伸ばすなんて、なんと滑稽なことだろう。あいつも、俺のイトシイ「嘘」も、そう。すべて、滑稽なんだ。だって、初めから生を彩る何もかもがまやかしであると、拭い去ることもできず苦々しいくらいに、俺たちは身を以て知っている。


「たぶんね、征くんは誰より頭がいいんだと思う。きっと強くて正しいことを解るひとだから、ひどくもやさしくもなれると思うの」
「…『なずな』」
「だから、征くん。しあわせになってよ。征くんはきっとすごいひとだもの、きっと誰よりしあわせになれるはず」



あの言葉を今でも俺は信じている。ただひとつ、心に残って離れない言葉、ずっと忘れられない大切な大切な約束。苦しくて、切なくて、約束だよ征くん!と俺なんかに笑いかけてくれるあの日の『なずな』に手を伸ばす。


「だからね、もしも征くんが――――」


だめだ、だめだ。今ここで別れてはもう会えない。これはきっと夢だから、目が覚めたらきみが永遠に消えてしまう。いやだ、俺はきみを失いたくない、喪いたくないんだ。初めて、こんな俺なんかを見つけてくれた『なずな』、きみだけが大切なんだ、いとしいんだ。だから、どうかもう二度と。


――さよなら、征くん。またいつか


お願いだからどこにも行かないで、俺を独りにしないでくれ。もう、まやかしでいいから、……嘘でもいいから。







「じゃあ苗字、またあとでな」
「はい、ごめんね赤司くん」
「気にしなくていいからちゃんとやるんだよ、お前はドジだからな」
「え、……気を付けるね!」
「よし、いい子だ」
「はい!!」


ふ、と少しだけ表情をゆるめた赤司くんはわたしの頭を撫でた。赤司くんが何よりこうして頭を撫でてくれる瞬間がすき。抱き合うよりもキスをするよりも、何よりも愛を与えられている感覚になるから。あまり心からの笑顔を向けてはくれないけれど、こんなときばかりはほころびのないあなたの本心が見えるような気がして。愛されてる錯覚は、苦しくも甘い。しあわせな刹那の夢に、今日もわたしは敢えて身を投じていた。だって、必要としてくれたんだ。完全無欠で強くも脆い、あの赤司くんに。


今週一週間のお昼は残念ながら委員会の当番があるので、いつものランチは遠慮することにした。早くご飯はすませて当番の仕事をしなくてはならないから。来週は試合があるから、今週の部活はきっときつい。赤司くんのお家に伺うのも、昨日赤司くんがぼやいていたように多分来週になってからになるだろう。今までだって決して毎日伺っていたわけではないけれど、こんなに接触しないのは、出会ってから初めてのことかもしれないな。――それほどまでに、近い、鮮やかな日々だった。


「よお、苗字ちゃん」


教室でさっさとお昼をすませてから早足で廊下を進んでいた時、後ろからかけられた聞き覚えのある声に眉をひそめながら、足を止める。背中に這う蛇のようなあの感覚、刺すような鋭い視線、他を卑下すれような笑い声。ああ、なんて忌々しい。


「…ショーゴくん、ですか」


視線に交えた敵意と憎悪に、彼は怯むどころか歓喜に近い笑い声を上げた。


「ハハッ!お前、まじリョータみてぇだなァ!」
「…それはどうも」
「今日は赤司はいねーみてぇだな?」
「赤司くんは学食に向かわれたので」


そりゃ好都合、と灰崎くんが呟いた。ニヤリと底がないような薄気味悪さを纏いながら、彼はわたしの方へ一歩一歩確実に距離を詰めた。追い詰めるような圧迫感を伴う接近に一瞬だけ息を詰めるが、とはいえとりたてて恐怖を抱くわけでもなく。ただ無表情を決め込む。昼休みにも関わらず、図書室へと繋がる階段への廊下は、喧騒などは素知らぬように沈黙と静寂だけがあたりを支配している。


「で?」
「…はい?」
「バカみたいに恋敵のはずの他人に似せて自分を偽って、あるはずもない仮初めの幸福を享受する気分は?」
「……」
「――てめぇのもんじゃない別の女のポジションをのうのうと奪って、シアワセそうに笑う気分は?」
「……」


灰崎くんの上靴が乳白色の真新しい廊下を滑り、キュキュッと耳障りな音を落とし込む。ああ、やっぱり、いやだな。屈み込まれて覗き込まれても、全く動じないわたしに拍子抜けしたように灰崎は再び冷笑をひとつこぼした。そこには僅かに哀れみも混じっているのだろう。ピクリと少しだけ眉根を寄せていた。


「…お前、ツマンネー女だな」
「元はもっとツマンネーから、これでも色々脚色してるんですよ」
「そこがツマンネーっつってんだろ、アホか」
「そうですか」
「……うぜ」
「…ふふ、そんなに似てます?」
「似てんだろ、裏表で全く別のもん隠してるとこ」
「…ふぅん」


血は争えないのだろうか。外装がご立派すぎて分かりにくいけど、中身は本当はとても複雑で、故にとても生きづらい。ああ、ああ、もう本当にめんどくさい。半分は単なる八つ当たりじゃないか。近しいことを今までうれしく思っていたけれど、いらない因縁をつけられるのはお断りだわ。


「俺がわかんねーのはなんできっぱり開き直んねぇのかってことだわ」
「……」
「いいじゃねーか。真似しようかコピーしようが、潔く奪っちまえば。完封だけで、てめぇは満足かよ」
「……また微妙なとこつきますねぇ」
「今赤司の隣にいんのはお前だろォが。なに借り物です、みたいな顔してイイ子ぶってんだよ」
「……灰崎、くん?」
「薄ら寒ィんだよ、半端な覚悟で他人のもん奪うんじゃねーよ!」
「……」
「お前見てると、マジで反吐が出る」


軽蔑、憎悪、卑下、嘲笑。そこにあるのはいつも悪意の塊なのに、なかなかどうしてこの人は悪い人じゃないよな。てっきり、もう少し罵られると思ったが。検討違いだったらしいな。こんなとき、彼なら、どう躱すのかしら。誰にも負けない強かな彼を、思う。


「半端な覚悟?――…まさか」


にやり、笑うさまに灰崎くんはぴくりと眉根を寄せて反応を見せる。ふ、なんて素直なのか?ああ、やはりこれは「正解」らしいな。何度もこの目に映したあの笑みを、この顔に張り付ける。


「諦めているわけではないよ、ただすべきこと、できることをするだけだ」


すべては、いとしい彼にもう一度笑ってもらうために。


「――何人たりとも邪魔するやつは許さない、ゼッタイに」


纏う矜持の重さは到底扱いきれるものではなかったが、さりとて目の前のこの蛇に対する効果は十全であった。もう何も、いらないのだ。自分は、目の前で愕然としているこの男のように先を望んでいるわけではないし、また潔いわけでもない。不愉快に思われようが、つまらないと呆れられようがすべてどうでもよいことである。すべてはいとしい彼のため。――いや、違うな。


「あんたが思うよりずっと利己的に行動しているよ、わたしは」
「……何言ってんだ」
「――『あの子』への手向けだと言ったら、あんたは怒る?」


それとも泣くかと問えば、今までになく灰崎くんは盛大なため息を吐いたのち、舌打ちした。…素直じゃないな。


「…お前、最悪」
「だから利己的って言った」
「……」


すべては最初から自分のためであった。赤司くんのことは所詮体のいい言い訳である。笑ってほしいのは、本心だが。叶わなかった願いを、今折り返すだけのこと。


「…お前、この先どうすんの」
「あんたの予想通りのことをするけど?」
「は……ハァ!?本気で言ってんのかよ……」
「本気も本気、まじだ」
「…うげぇ」


流血沙汰はやめとけよとげんなりされては甲斐がないというもの。さすがに痛いのは勿論ご勘弁願いたいが、きっと穏やかにはいかないだろうな。それは元より覚悟の上だ。


「これからわたし委員会がありますので!ではまた、ショーゴくん!」
「…うぜぇ」


――覚悟を決めた贋者のクライマックスまで、あと。




砕ける骸骨に餞を嘆く薔薇に花束を




わたしの大好きな征くんを、どうかしあわせにして。本当の、心からの笑顔で笑わせてあげて。――それだけが、わたしの願い事。




130710
オリキャラが出張っててすみません。