「おかえり、なまえ」


赤司くんの家から、わたしの家はなんと徒歩15分という近さにある。わたしは今の家に越してきて数年で、赤司くんとは小学校も違ったし最寄り駅までのルートも全く違うせいか、付き合い始めて赤司くんからお家の場所を聞くまでこんな近くに住んでいることを全く知らなかった。最初こそ驚いたが、今ではこの近さ故に赤司くんの家にお邪魔することが頻繁になっている。


「ただいま、涼太くん」


わたしの家の前で、わたしたちはお互い困ったように笑った。


「うちに何の用?」
「用、ね。……なまえに会いに来た」
「え?」
「って言ったら怒るっすかね?」


下がる眉尻に、わたしも同じように気落ちした。ああ、どうしていつもこんな顔をさせてしまうのか。世界で一番、心配をかけたくない人に一番心配させてしまう自分が余りにふがいなくて、とても恨めしい。


「…怒るわけ、ないです」
「はは。そう、っすか。……よかった」
「………ごめん」
「…なにが?」
「ごめん」
「……いいよ」


無意味な謝罪を笑って受け取ってくれる、このやさしい従兄を困らせたいわけでは決してなかったはすだった。もう二度と心配させないと誓ったはずだったというのに。なかなかどうしてうまくいかないものだ。わたしの一番の願いを叶えるためには、わたしだけでなくてこのやさしいひとまで傷付けてしまうというのか。なんて情けない。わたしはこんな自分が大嫌いだ。


「……なまえ」
「ん?」
「首」


指摘され、視界に映った首もとを慌てて襟ぐりを引き寄せて隠した。その、傷痕のような赤い痕は、まるで何かの烙印のようで、羞恥心が一気に溢れ出して赤面することしかできないわたしを覆い尽くした。


「…わざと、かな」


赤司くんも相変わらずひどいひと。どうしていつもこうやってわたしを困らせるのか。お前の困った顔がいいんだ、と前に意地悪く笑っていたのを思い出して歯噛みした。ひとを困らせて喜びを得るようなひとなのに、わたしが最も傷付く言葉を分かった上でなによりもそれを選び取り口にするようなひとなのに。


「なまえ」
「うん」
「叔父さんたち、今日出かけるんだって」
「…そう」
「だから今日はうちにおいで」
「……でも」
「母さんも姉ちゃんたちもなまえに会いたいって言ってる」
「……」
「なまえ、もう気を使う必要なんてない。意地張らないで、お願いだから昔みたいに俺を頼ってよ」


同い年の従兄とはいえ、実の兄のように慕っていた涼太くん。昔は、何も考えなしだった頃のわたしは、このやさしい兄を無意味に困らせて、頼りきっていた。


「俺たち、家族でしょ?」


でも今度ばかりは頼れない。何を失っても、それはわたしに責任があるのだから。だけど、もしも一つだけ、わがままが許されるならば。


「涼太くん、わたし海に行きたい」


泣くよりも笑うことのほうが難しい。それはわたしが傷付いているからか、悲しみにうちひしがれているせいか。すべては、いとしい海に。


「言うと思った!」


今なら帰りも終電でぎりぎり間に合うね、と涼太くんは笑って言った。







冬の海は隔絶と静寂に満ちていた。暗闇の中、寄せては返す波の音は懐かしい心持がしたが、やはり不気味さは拭えなかった。隣で、寒いし怖ぇっす!と小うるさく嘆く従兄にただ苦笑するしかなかった。中学生の男女がこの時間に冬の夜に海とか。怪しいし危なすぎだよなぁなんて。


「でも涼太くんが老け顔だから大丈夫だよね」
「突然なにその悪口!!」
「あんたは中学生に見えないよなあ〜って話」
「なまえも大概中学生に見えないし!ていうか、わざわざ東京のど真ん中から隣県の海にまで付き添ったやさしいお兄ちゃんに宣うセリフじゃないっすよー!!」
「お兄ちゃん発言うざい」


たかが数日生まれたのが早いだけじゃんとツッコんだら、「反抗期だ!」だの「お兄ちゃん悲しい」だの清々しいくらい似非シスコンぶりを披露してくれたので、みぞおちに一発かましたら静かになった。


「…赤司っちと付き合い初めてからなまえが不良に……!」
「関係ないからそれ」
「……冷たい」


そうだね、冬の夜の海は冷たいね。と返したら砂浜にしゃがみこんで泣き出した。そんなだから赤司くんや相棒組におちょくられんのよって言ったら「分かってるもん!!」と叫ばれた。相変わらず頼りになるのかならないのかよくわからないお兄ちゃんである。冬の海に手のひらを浸すと、刺すような冷たさが指先を襲った。やがて、指先の感覚をじわじわと奪われていった。ゆっくり、ゆっくりと染み渡る波紋のような冷たさ。まるで、赤司くんみたい。


「なまえは相変わらず海好きだよね」
「そうだね。……時々帰りたくなるの」
「帰る、ね。小さい頃は、そんななまえは人魚姫みたいに海に帰って、溶けちゃうんじゃないかとか、思ってたけど」
「涼太くんってばかわいいね」


な!かわいい、とか……とうれしいのか恥ずかしいのかは解らないが、何故か染まっている頬を両手で包み、しゃがんだ状態で頬杖をつく従兄には気付かないふりをして、再び冬の海に手のひらを浸す。夏だったら、靴も脱いで膝くらいまでは浸してみたいのだけど。さわさわと吹き付ける風は今も否定的に髪を撫でている。赤司くんの、わたしの頭を撫でる手のひらを思い出す。そうして、海水に浸した右の指先は遂に感覚を失う。握り拳がうまくできないくらいに震えていた。今度は左手を浸して揺れる波に漂わせていると、右の目から雫が零れて海へと落ちた。


「……あのさあ、なまえ」
「ん、なに?」
「今でも海、好き?」
「大好き」
「じゃあ、赤司っちのこと、好き?」
「嫌いだったはずの自分の特技を使って、本来恋敵である誰かに成り代わるくらいには」
「なまえって、バカっすよねえ」
「知ってるよ」


笑っても、まっすぐに見てくれない。愛を込めて見つめて見つめ返されても、その先にいるのはわたしではない別の誰か。愛してるの言葉はただの言葉遊びで、意味なんかきっと欠片も籠ってはいない。ただあの子に成り代わろうともがくわたしを、高みから見物しながら余裕の笑みを浮かべて楽しんでいる、ひと。


「あらゆるもの手に入れる、そんな赤司くんが、たったひとつの手に入らないものを求めて、痛々しいくらい手を伸ばしてる。その手に入らないたったひとつが、あの子」


何度も夢に見るくらい、あの子を求めて呼び続けている彼をどうして愛さずにいられるだろうか。その伸ばし続ける手のひらをそっと包んで、頑張ったねってキスしたくなる。泣きそうなくらい一途な背中を抱きしめて、寂しかったねって慰めたくなる。赤司くんは、強いのに脆いひと。何でも手に入れられるくせに、一番ほしいものが手に入らない孤独なひと。それを知ったらもう、どうしようもなくいとしくて、ただ何かしてあげたいと願ってしまった。


「…バカだよなあ。悲劇のヒロインも大概にしろよってかんじだわ、ほんと最悪、クズすぎ」
「なまえ、素が出てる」
「我ながらうすら寒くて笑えるわ〜、ほんとに救いようのない」
「なまえー、落ち着いてー」
「……バカだよねぇ」


隠れるようにしていたわたしを見つけてくれたことも、どうしようもないわたしを必要としてくれたことも、やさしく頭を撫でてくれたことも、打算的にとはいえ甘やかし愛してくれたことも。思い出だけは、本物だった。いつか、お互いに忘れても、すべては消えることない幸せな思い出。浸した左手も既に冷たさに侵食されていた。もう感覚はない。だが涙はもう出ない。


「………あのね、言いたくないんだけどね」
「あー、知ってるから、いい」
「えっ?!」


悲劇のヒロインは、所詮幸せにはなれないのかもしれないな。海から離れて、驚く従兄の元に戻って、未だ冷たい手のひらを眺めながら、感覚を取り戻そうと握ったり開いたりを繰り返した。


「……『なずな』、怒るかな」


赤司くんに抱かれながら、同じように思ったこと、きっとずっと忘れない。


「もう、幕引き。フィナーレだから、端役はいい加減退場しないといけないよね」
「…え、ちょ、なまえ?」


夜は好き。静かだから好き。寒いのも、嫌いじゃない。海も、好きだ。冬の海は、なんだか赤司くんに似てる。静かに流れる空気はとても凪いでいるのに、刺すような静寂や寒さは思いの外攻撃的だし、秘めたる凶暴性や危うさは不思議とわたしの心を誘う。海に浸されながら、溶けて消えられたらどんなに幸せだろう、なんて。


「――あのさ、涼太くん。わたし、やっぱりあの話受けることにしたから」


明日はきっと晴れるんだろうな。冬の大三角形が頭上ではきらめいていた。あまり星座に詳しくはないのだけど、シリウスがどれかくらいかは分かったのでなんとなく口角が上がった。「ちょおおお!本気で言ってんの?!まじで?!大丈夫なの!!!?」と相変わらず小うるさい従兄を置いてきぼりにしつつ、そろそろ帰ることのできる最後の電車が出てしまうので、久しぶりに海に来れたうれしさを鼻歌で表現しながら駅へと歩を進めた。慌てて追い付いてきた涼太くんが横でわめき散らして、正直うるさい。ポケットに避難した両手の感覚は既にほぼ正常に戻っていて、少し残念ではあったが、もはやどうしようもないことである。わたしは、ただ笑った。


「…あーあ、もう疲れた。それにお腹も空いたなー」


人気者になれても、臆病にはなれても、影を薄くはなれても、最後に明るいかわいい女の子にはなれたとしても。本当にほしいものなんて、やっぱり手に入らなかった。見つめた手のひらにはやっぱり、なんにもなかった。瞬きを繰り返して、つまらない愛の終わりを静かに予感する。それでも、新しい朝は新しい別れを引き連れて、また訪れる。ああ、そう、きっと赤司くんの言うとおり、わたしは今夜も枕を濡らさずには夜を超えられないのだろう。赤司くんもひとり夢に泣くのだろうかと思い、目を閉じた。




そしてみんないなくなる




せめて一度でいいから、わたしの名を呼んでほしかったけれど。小さな嘆息は、冬の風に飲まれ消えていった。




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