「学食行こうか、苗字」
「はい」


四時間目終了のチャイムが鳴り、終礼の挨拶の後、颯爽とわたしの席にやって来た赤司くんはいつもの通りわたしに声をかけた。そうして、赤司くんはわたしの返事を聞くやいなやすぐに踵を返したため、わたしもお弁当の包みを引っ掴み慌ててその背を追った。手触りのいい髪をさらりと靡かせながら、半歩前を歩く赤司くんは本当にかっこよくて、わたしには勿体ないくらいに素敵だった。その凛とした様子に視線が離せない。わたしが見とれていることに気付いた赤司くんがわたしを見る。


「…ん?どうした、苗字」


視線のやさしさが、くるしい。自然と頬が赤く染まってしまい、思わず俯いた。ああ、こんなときは上手に演技はできない。こんなとき『あの子』はどうするのだろう、どんな表情をするのだろう。わからないけど、これはきっと素の自分なんだろうなぁと思えば、わたしにもまだこんな純情なとこがあったのだと不思議な気持ちでもあった。赤司くんを前にしたら、なんだか暴かれている気分になる。やさしさの向こうの、獰猛で容赦のない冷たさがわたしを見据えていた。


「…何でもない」


そうか、と呟く赤司くんは既にわたしを見ていないようだった。元々、この人はわたしにさほど関心は寄せていない。それが、悲しい。そして、わたしは背中に突き刺さるいくつもの悪意ある視線に気付かないふりで、今日もただこの人の隣を歩いていた。咎めるような視線は絶えずあった。わたしがこの人と関わるようになってからずっと。


「赤司くん」
「なんだ、苗字」
「わたしは昔、人魚姫のお話が好きだったんだよねぇ」
「……急にどうした?」


脈絡のない切り出しに困惑したような表情を赤司くんはしていた。それに微笑みで返してしまえば、今度は怪訝な顔に変わっていった。まあ、自分でもよくわからないのだけど。何故か口をついて出た言葉の意味が、わたし自身分からず赤司くん以上に当惑してしまう。相変わらず、誰よりも自分が謎だ。誰よりもしあわせに貪欲なくせに、敢えて苦しみのある場所に立とうとするのは何故なのか。とはいえ、ひとつ分かることといえば、この隣という位置はわたしにとって何事にも代えがたいほどの価値を持つということである。


「はは、ごめんごめん。忘れてね」
「……いや、覚えておこう」
「…え、なんで?赤司くんは意地悪だなぁ」
「そうだな。俺は意地がとても悪いんでね」
「根に持つとはらしくないねぇ」
「はは、余計なお世話だ」


からからと笑う様子に特別な意図は一切なく、赤司くんの視線はずっと前に向けられていた。廊下の終着点を折り返し、階段に足をかけたあたりで、わたしの無防備な背中をなぶり続けた例の悪意ある視線は不意に途切れた。ふっと内心胸を撫で下ろした。







「なまえー!!」
「うわぁ!涼太くん、びっくりするでしょう!」
「なまえなまえなまえー!!」
「黄瀬、俺の苗字をいい加減離せ。さもなくば…」
「ひっ!すんません赤司っちー!!」


食堂内にて既に席についていたみんなの元に到着した途端、いつもの茶番劇が始まり、くすりと笑みがこぼれた。それは隣にいた赤司くんも同じらしく、愉快げな表情を浮かべていた。定位置となっていた赤司くんの隣に腰かける。


「苗字さん」
「あ、なに、黒子くん」
「実はずっと言おうと思ってたんですが、××小学校出身ですよね。ボクのこと、覚えていますか?」
「…うん、もちろん覚えてるよ!テッちゃん、でしょう?」
「……はい」


ふわりと柔らかい黒子くんの笑みは、まるで羽根が舞い散る天使のように愛らしく神聖だった。予想以上にうれしそうに笑うから、一瞬どきりとして、お弁当の包みを開けようとしていた手が止まる。…黒子くんって、なんていうか……なんてかわいらしい人なんだろう。


「実はですね、苗字さんはボクの初恋なんです」
「…っえ!」
「あの頃、キミはボクにとっての…」
「え、あ、あの……黒子くん?」
「昔みたいに呼んでください、なまえちゃん」
「えっ、あの、」


なんだ、なんなのだ?何かまずい方向にいってないか?こんなあからさまに好意を向けられたことがなくて、困惑のあまり思わず赤面してしまう。黒子くんから目を反らしたいのに、正面からわたしを熱っぽく見つめる視線がわたしの視線を捕らえて離してくれない。数秒の間、なんて言ってかわすべきが見つめあったまま思案していると、突然誰かの手のひらによって視界を奪われる。


「おい。なに人の彼女を口説いているのかな、黒子?」
「ああ、赤司くんいたんですか。それは失礼しました」
「…目の前で堂々としておいてよく言うよ」
「大体、ボクは苗字さんと話しているんです。キミは関係ありません」
「ふざけるな、こいつは俺のものだ。関係ないのはお前だよ」
「独占欲も大概にしたらどうですか。少なくとも、結婚してるわけでもなし、たかが彼氏くらいでボクを咎める権利があるわけではないでしょう」
「…口を出して何が悪い?」
「逆にボクが口説いたところで何が悪いというんでしょう?」


隣から現れた手のひらがわたしの両目を覆ったままであったので、二人が一体どんな顔で言い争っているのかは全くわからない。しかし、聞こえてくる応酬はおよそ平和なものとは言い難く、また二人の間にある雰囲気とて同様であった。わたしは黒子くんの突然の発言にも驚いたが、赤司くんの対応とそれに対する黒子くんの反逆にもより驚愕していた。…赤司くんに逆らうなんて黒子くんつよいぃ…。


「初恋?だからなんだ、こいつは今俺のものなんだ。余計な茶々を入れるな」
「へぇ?初恋だからなんですか?キミにだけは、言われたくはないです」


無言のうちにあるのは、きっと黒子くんが赤司くんを咎めるための……そこまで考えて息が詰まる。まさか、黒子くんは。


「キミにだけは、言われたくない」


念を押すように繰り返した、意図とは。


「…お前も面倒なやつだな」
「キミに言われると心外です」


はっ、と小さく冷笑をもらした赤司くんは、そこでようやくわたしの両目を覆っていた手のひらを退かした。そうして入り込む光に思わず目を眇めると、赤司くんに掴まれたままだった肩を引かれ、さらに少々乱暴な指先で顎を掴まれて、赤司くんのほうへと向かされる。


「…なんで怒ってるの」
「別に」
「赤司くん」
「うるさい、黙れ」


強引な仕草で合わせられた双眸はとても強くて、少しばかり身をすくませてしまう。びくりと震えたわたしを気に留めることなく、わたしの瞳を見つめる赤司くんがよくわからない。だって、それはまるで嫉妬しているみたいなんだもの。とはいえ、人に限らず気に入ったものに対しての赤司くんの所有欲は尋常ではないから、勘違いしちゃだめだ。目の前であからさまにため息を吐かれても、わたしにはどうすることもできない。


「…なんでもないよ」


赤司くんが、困っている。それは衝撃的ではあったが、同時に甘美な絶望にもつながってゆく。きっと、もてあましているのだろうなあと苦しくもうれしく思うわたしは、相当に歪んでいる。


「赤司くん」
「なに」
「赤司くん」
「……なに」
「ふふ」


笑いながら左隣にいた赤司くんに勢いよく抱きつく。突き放すでも呆れるでもなく、ただちらりとわたしを一瞥した赤司くんに口角が少し下がる。…とりたてて意味をなさないらしい。拗ねるような気持ちでぐりぐりと額を肩口に寄せるが、効果は特になし。


「もー!!さっきからなんなんすか!!ほらなまえ!いい加減赤司っちから離れてっ!!」
「えー」


ついに接触を図ってきた涼太くんが赤司くんにまとわりつくわたしを引き剥がしにかかるので、不満げな声を出して暗に断りをいれると、放置していた赤司くんがようやく反応を見せる。腰に手を回して赤司くんの右肩を陣取っていたが、まるでわたしなんかいないかのように扱い美しい姿勢で、お箸を左手に持ち変えて器用に食事していた。赤司くんは左手も使えるらしい。すごい。


「…うるさいぞ、黄瀬」
「だってなまえが!嫁入り前の女の子がさっきから人前で!!」
「あれ、涼太くんってそんなキャラだったっけ?」
「…苗字」
「はい、赤司くん」
「早くお前も食べろ、昼休みが終わるぞ。黄瀬は退け」
「はい、赤司くん!」


退けとか……とため息を吐きながら自分の席へ戻った涼太くんの背中をなんとなく見ながら、ようやくわたしは赤司くんの言い付け通りにお弁当の包みを開けた。うむ、今日も早起きして作ったかいがある。いただきますと両手を合わせて、自信作たちを次々と口へ運んだ。


「ところで、なまえちゃん」
「く、黒子くん。からかうのはいいから、名字で呼んでよ」
「では、苗字さん」
「なんでしょう、黒子くん」
「さっきの、冗談ですからあまりに気にしなくていいですからね」
「…あなたが人をおちょくるのが好きなのは昔から知ってるよ」
「ああ、覚えてくれてたんですね」


あまりにもやんわりと破顔するので、思わず目を見張る。相変わらず、読めないひと。おもしろいから、いいけど。とりあえず今日はさつきちゃんがこの場にいなくてよかったと内心胸を撫で下ろしながら、だし巻き玉子を口に放り込んだ。……何故か左横からただならぬ視線に苛まれつつ。


「もちろん冗談ですよ……半分ね」


と何を思ったか付け足されたセリフに冷や汗が出た。ちょっと待って、半分とは。あとの半分は一体なんなのか……思考するのを拒否しながらとりあえず隣からのただならぬ無言の圧力が早く霧散しないだろうかと、その策を練るほうがずっと重要なので、冷静に頭を回せるよう努力する。




その優しさと自分の弱さに安堵する




――キミは今、本当に幸せですか。


昼食終了後、なにやら不機嫌そうにさっさと先に行ってしまった赤司くんの背中を慌てて追いかけようと席を立ち、黒子くんの横をすり抜けたときに言われた言葉。少し意外に思いながらも、なんてことはないとわたしの口は完璧な弧を描いて、やはり笑うのだ。それは、もう既にわたしの手元を離れている。


わたしは、赤司くんをほんの少しでも幸せにしたいだけ。


傲慢さと浅はかさを自覚しながら、泳ぐように生きているわたしは、どこまでもどこまでも、あのうつくしい空の色を忘れそうなくらいに、深く深く潜ってゆく。




130523