※似非ホラー





やっと見つけた、……やっとだ!


と、いかにも興奮した様子でわずかに血走ってすらいる宝石のような瞳を輝かせながら、初めてお会いして第一声にそんなことを彼は言った。握られた手首は千切れてしまいそうなほどに強い力で拘束されており、そこを軸にして私の顔へと距離を縮めてくる彼のそのうつくしいまでの顔を凝視し返すものの、何度脳内で確認したところで、私がこのひとについて思い出し得る情報は何一つなかった。何度考え直しても結論は一つだけで、この恍惚と目を輝かせながら私に微笑みかけている彼を、やはり私は知らないのだった。


「ずっと、探していたんだ」


その言葉に宿るのは切なさと喜びと、愛慕と偏執と。そんな重い響きを含ませた言葉を私の脳髄に巧みに染み渡せながら、彼は私を骨が軋み上げるほど強く抱きしめて、さらにこう言った。


「もう二度と離さないよ、なまえ」


確かに私の名前を呟く彼は、赤司征十郎というひとだった。







「赤司くん」
「なんだい、なまえ」


にこり、と。神さまに愛されたかのようなうつくしく神聖な雰囲気を纏って、彼は笑った。だがまさに彼は神さまの寵児と称すにふさわしい少年であったのも確かだった。それは噂に聞く限りのことなので、この学校に通う者ならば誰でも知っていて当たり前というレベルの話だ。彼を知らないひとは、きっとこの学校には誰一人いない。そんな彼になぜ私なんかがやさしく微笑みかけられているのだろうか。しかし、私のそんなちっぽけな疑問は、彼の有無を言わせぬ冷たい沈黙のうちに飲まれ殺された。


「私はあなたを存じ上げませんが」
「ああ、知っているよ」
「だから、どうしてあなたが私を知っているのかも分からない」
「それも、知っている」


ただ単に軽くかわしたいだけなのか、あるいは問われたくないからなのか、よくは分からないがとにかく赤司くんは私の一切の疑問に対して答えを与えてくれる気はないようだった。ただ、逃がさないよ、もう二度と離さないよ、と。そんな囁きを含有した微笑みを浮かべながら、赤司くんはとにかく私を手元にひたすら置こうとするのだった。


「お前が、僕が誰だか分かろうと思い出そうと、そんなことはどうだっていいんだ」


そういってただ笑う彼に私は一瞬身震いを感じ、無意識のうちに彼から逃げようと拙くも後退りを試みるのだが、無論それを目敏く見咎めた赤司くんは私の手首を掴み、淡く笑んだ。


「今度こそ、逃がさない」


――この底なし沼に沈められた私の意思を掬い上げる術を、私は未だ知らない。







――許さない。次にお前を見つけた時は、今度こそお前を…――


鈍くひかる赤色は、血の色にも似て。まさか、そんな。そう思考した時既に、手のひらに滴るそれは、弱さにうち震える私のほうへ伸びてきて、そして。


「――………っ!」


やわやわと引き上げられていく意識の中で、ただどうしようもない恐怖が私の胸中におどろおどろしく犇めき続けていた。ああ、冷や汗がすっかり怯えきった身体を無情に冷やしていく。


「………ゆめ…」


脳は既に覚醒しているにもかかわらず、恐ろしさは絶えず私の胸を焦がす。血管を突き破ってきそうな勢いを誇りながら、どくどくと素早く血液は身体中を巡る。忙しなく働く心臓のあたりの、寝間着の布を強く握りしめて、目障りなあの色を振り払うように、目を閉じる。ああ、この夢は過去に何度も見た夢だ。何度も何度も、忘れた頃に顔を覗かせては、小さな私を苛み続けた悪夢。どんなに必死で逃げたところで、決して逃れられたことはかつて一度もなかった。絡めとられるように、何度も何度も何度も何度も、私はこの悪夢に冒され続けている。逃れられないそれは、まるで。


――二度と離さないよ、なまえ。


まるでそれは、飽くなき"執着"に似ている。







「なまえ」
「……赤司くん」
「やあ、今日も逃がさないよ」


そうやって満足げに微笑んだ赤司くんはいつものように私の手を掴んだ。登校早々、赤司くんは私のところにやって来て、そして犬に首輪を嵌めるような意味を体現するかのように私の手首を掴み、引いていく。そんな様子はここ最近ですっかり定着してしまっていて、そんなふうに高校入学早々異彩を放つ私たちに近寄る人物は最早誰一人いなかった。みんな見て見ぬふりを決め込んでいて、トイレなどの例外を除いて、学校の間は常に私の傍らには赤司くんがいた。元より私はあまり物事に頓着する性格はしてないし、また如何様に抗議したところできっと赤司くんは聞き入れてはくれないだろうことを早くに察していたため、最早こんな状況にすっかり慣れてしまっている自分の順応性には苦笑を禁じ得ないのである。


「なまえ」
「はい」
「逃がさないからね」
「分かりましたって」
「ふふ、そうか」


そんな決まり文句を繰り返し言い続けて、ただただいつものように微笑む赤司くんの笑顔はとても、儚いのだった。


「ずっと、僕の傍にいてね」


どうして、そんなふうに泣きそうな顔をするの。







深い海をさ迷うように、落ちてゆく感覚。そうして、私は今日も、きみの夢を見る。


――…なまえっ!いやだよ、なまえ……っ!!


そうやって泣いていたあの子は誰だったのだろう。


――いっちゃやだ、やだよなまえ!ぼくをおいていかないで……っ!!


白椿のように白い頬をうつくしいしずくが落ちてゆく。涙で濡れた赤い瞳は。――………赤?


――…そっちへいってはだめだなまえ……っ!!


赤い瞳が宿すは、身を打ち付ける恐怖と、焦燥感と。


――……だめだ、せいじゅうろうっ、こっちにくるな!!!


あの、涙で濡れた赤い瞳は宝石のようにきらりと、輝いていた。


――…なまえっ!!!


それが、私が亡くしていた最後の、記憶。失われていた悲しい思い出。ああ、どうして、あの恐ろしい結末を忘れてしまっていたのだろうか。泣き虫だったあの子の、「せいじゅうろう」の、涙に濡れて輝く赤いふたつの宝石、それが私がさいごにこの目に宿した大切な映像。せいじゅうろう、ごめんね。どうか、もう泣かないで。


――そういって伸ばしたこの手は永遠に届かなくて、記憶は磔にされたまま私の中で泣いている。







「赤司くん」


どうして忘れてしまっていたのだろう。あの涙に濡れた瞳も、白椿のような頬も、私へと伸ばし続けていた紅葉みたいに小さな手も、全部全部、私は知っている。泣き虫で弱虫で怖がりで、小さな虫さえ殺せないやさしさを持った、笑顔のかわいいあの子を。どうして、私は。


「なんだい、なまえ?」


記憶の果てに追いやり、意識のうちから無情なほど完全に抹殺してしまっていたのか。


「私は、きみを知っている」


それをきみは望むというのなら、私は叶えてやれない。まさか、分からずにいられるわけがないでしょう。忘れたままでいい、なんて。ねぇ、どうしてそんな悲しいことをいうの。


「……ふふ」


小さく微笑みを浮かべた赤司くんは、いつものように掴んでいた私の手首を引きちぎりそうな勢いで握りしめて、そうして。


「つまらないなあ、なまえ」
「いっ!痛い赤司くん……っ!!」
「もう思い出しちゃったの?本当に」


――…つまらないな。


どうして、あなたはそんなふうに笑うの。


「離して赤司くん!痛いから、……お願いっ!!」
「んー?そんなに離してほしいのかい、なまえ?」
「うんっ!お願い、お願いよ!!……――せいじゅうろうっ!!」


張り上げた声には最早なんの強がりも交えない。お願いだ、お願いだよ、せいじゅうろう。


「いやだ」


どうしてそんなに変わってしまったの、なにがきみをそんなに変えてしまったの。赤司くんが底のない笑みで、強く握りしめた手首を引き寄せ絡めとって、奪うように縛り付けるように私の瞳を覗き込む。なんて、底のなさだろう。底なし沼のような瞳は私の心を突き刺して、嘲笑いながら傷を付けていく。


「言ったはずだ、なまえ」
「……ひっ!」
「お前が僕が誰だか分かろうと思い出そうと、そんなことはどうだっていい、と」


やめて、お願い。そんな脆弱で哀れな声は届くことなく、やはり彼の鋭く刺すような視線に飲まれ、押し潰されて消えていく。


「閉じ込めた記憶を思い出したのならお前も気付いているはずだよね、なまえ」
「……あ、あかし、く……」
「お前がよく知っている「せいじゅうろう」が、この僕とは全く別の存在であること」
「………」
「――「僕」は、お前の知っている赤司征十郎ではない」


悲鳴を上げれば封殺され、耳を塞ごうとすれば抵抗そのものを圧殺され、目を逸らそうとすれば引き寄せ、笑顔でなぶられる。ああ、あなたの言う通りだ。私は、あなたなんて知らない、知らないよ。あなたのように恐ろしいひとなんて、私は全く知らない。


「覚えているだろう、なまえ」
「…や、だ………いやだっ!!」
「お前の知っている「せいじゅうろう」なんて、もはやこの世界のどこにもいない」


せいじゅうろう。だいすきだった、私の幼なじみ。幼い頃、お隣の大きな家に住んでいたあの子と一緒に遊んだ記憶ばかりがある。泣き虫で弱虫で怖がりで、小さな虫さえ殺せないやさしさを持った、笑顔のかわいいせいじゅうろう。のんびりやで、よく近所の悪ガキにいじめられていたせいじゅうろうを守るのは、いつだって私の役目で。小さな紅葉みたいな手を引いて、たくさん遊んだね。あの日も、そうだった。


「――弱虫で泣き虫だった小さな「せいじゅうろう」は、あの日お前が殺したんだろう?」


ねぇ、なまえ。そうやって嘲笑う彼を前にして、愚かな私は底なしの恐怖にうちひしがれる。


――遠いあの日が脳内を駆け巡ってゆくままに、崩れ落ちそうな私の背中を遠いあの日の山風が儚い記憶を纏いながら浚ってゆく。





梢踏み分け宵明けの 前




130407
後編へ続く


謎の子赤司