「赤司くん!」 「うるさいな、そんなに声を張らなくても聞こえている」 「え、あ!すみません…」 「すぐに謝る癖もいい加減どうにかしたらどうだ」 「いや、その通りだと思って!すみません……あ」 「相変わらず学習能力のない犬だね。これは厳しく躾直す必要があるな」 「い、犬!ていうか、しつけって……」 「……なに頬を染めているんだお前は。何を想像した何を」 「えっ、あっ、ごめんなさいぃい!!」 「…ふ、まったくお前は」
そうしてすっかり頬を真っ赤に染めている彼女の耳元へ唇を寄せた赤司くんは、ひどく楽しげな表情で何事かを囁いていた。さすがにボクの位置からは彼が何を言ったかなんて聞こえるはずもないけれど、おそらく何か甘い言葉か、彼女を恥ずかしがらせる類いの言葉を口にしたのだろう。鮮やかに恥じらう彼女に対し、普段の彼からは想像もつかないような甘い眼差しを注いでいた。今この時が地獄のような練習の合間の貴重な休憩時間とは思えない。まるであそこだけ切り取ったように別世界だ。
「……はぁ」
横で、練習の疲れとはまた無関係なため息を溢す彼もまた、何か思うところがあるらしい。
「黄瀬くん」 「…うおお!く、黒子っち!!い、いたんすか!」 「ずっといましたけど」 「すんません、久しぶりに気付かなかったっす…」 「まあ、キミはあの人たちを見ていたみたいですし、ボクもボクで考え事をしていましたからね」
気配が限りなく薄くなっていたでしょうし、と言えば黄瀬くんは少しだけ目を開いたかと思うと困ったように笑いながら、なんすかそれと言った。
「……苗字さんが心配ですか」 「そりゃあ、ね。俺にとって妹っすから」 「本当に…それだけですか?」 「………はは」
沈黙と短い空笑いは何を意味するのか。あまり、口にする気はないようだけど。
「…少し、ボクの昔話に付き合ってくれますか」
不思議そうな金糸雀色の瞳はまるまるっとなって、その幼さはまるで小さな少年のようで、いつも笑えるくらいかっこつけてる黄瀬くんにしては意外だ。余程、虚をついたらしい。
「ボク、××小学校の出身なんです」 「えっ、俺もっすよ!!」 「そうですか、クラスもたくさんありましたし、お互い知らないままでしたね」 「あとなまえも××小出身っすよ!」 「はい、彼女は知ってました。三年生の時に同じクラスでしたから」
エエッ!と驚く黄瀬くんに小さく笑う。まあでも、同じクラスになったのは三年生の時だけでしたし、苗字さんの方はボクのことを覚えてないかもしれませんが。…懐かしいな。当時のことを思えば、なかなか感慨深かった。あの頃から、いや生来の性質として陰が常人よりも薄いボクは、あまり特別に親しい友人もなく、また元々の性格故に誰かと外で遊ぶよりも1人室内で本を読んでいるような子どもだった。そんなボクに声を何度かかけてくれたのが、苗字なまえという女の子だった。
「彼女は明るくていつも笑顔で、クラスの中心にいるような人気者でした」
活発でハキハキとした性格の彼女ではあったが、思いやりのある言動が多々あったし、あの年齢にしてはずいぶん他人の感情や思考に聡い面があったため、明るい性格や生来のやさしさ、他よりも成熟した思考により、男女問わず友人が多くいたようだった。彼女の聡明さは対人関係に止まらず、勉強の方もできるらしく授業中でも積極的に発言していたような気がする。
「多分気紛れだったんでしょう。本を読んでいたボクに話しかけてきて一緒に遊ぼうと彼女は何度も誘ってくれたんです」 「なまえは気になる子を追いかけ回して友達になろうとする子だったすよ」 「ふふ、そうですか。今考えると本当はうれしかったんですがね、何分少し意地を張っていたというか……せっかくのお誘いを毎回毎回拒絶するボクを飽きもせず繰り返し誘ってくれたんです」
外で遊ぶことよりも本を読むことが好きであったというのもあるし、何より遊びに夢中になっているうちにボクの存在を忘れられるということが少なくなくて、それが数回起こればボク自身もさすがに嫌になってしまうわけで。しかも、その子たちに悪気がない分、まだ繊細だったボクは余計に傷ついてしまう。それがいやだった。
「でも、ある日彼女が何なら遊んでくれる?と誘い文句を変えてきましてね。いい加減うんざりしていたボクはこう言ったんです、かくれんぼならいいよ、と」 「エエッ!黒子っち相手にかくれんぼとか」 「はい、ボクが隠れてしまえばそうそう見つかるものではありません」
当時を思い出して、思わずクスクス笑ってしまう。ああ、もしかしたらボクの初恋は苗字さんかもしれないなぁなんて思うくらいに。ボクの忘れられない大切な思い出の一つである。
――テッちゃん、どこぉー!?
幸か不幸かは正直なんとも言い難いけれど、あの日数人のメンバーでの正当なるじゃんけんの結果、彼女が鬼でボクは隠れる方になった。ボクは適当なところに隠れ、初めの何人かが見つかったあたりで、既にボクのことなんか忘れているだろうと高を括り、その場から気付かれないようにバックレた。どうせ見つけられずに諦めるだろう、と。
――なぁ、なまえ!もうよそうぜっ!どうせ帰っちゃったんだよ。 ――やだ!わたしは絶対にテッちゃんを見つけるのっ!もう遅いし、みんな帰っていいよ? ――えー!?なまえちゃんはどうするの? ――見つけるまでは、わたしはあきらめないよ。
別の離れた場所で本を読んでいて、帰りに遊んでいた公園に通りかかったとき、ボクは幼いながらに強い衝撃を受けた。もうあれから数時間は経っているし、十人近くいたメンバーのほとんどは帰ってしまっているのに、そんな砂だらけになって探したところでボクはどこにもいないのに。あきらめないと言った瞳はどこまでもまっすぐで、とてもきれいだった。どんな大輪の花も、どんなに高価な宝石とて、あの子のあの愚直なまでのひたむきさに比べたら。
――テッちゃん、わたしとおともだちになって?
いつもいつもひとりで、たくさんの本と共に、ただボクだけの世界を頑なに描き続けた。そんな中、突然現れた女の子。本当は、うれしかった。望んで傍にいようとしてくれることが。友達に、なろうとしてくれることが。
――…ボクは、ここ、です。
何度断られてもめげずにボクを誘い続けてくれたこと、ボクに望んで関わろうとしてくれたこと、日が沈みかけようと、服が砂で汚れようと、みんながもう帰ってしまってもたったひとりでボクを見つけようとしてくれたこと。
――テッちゃん!!みつけたっ!!!
うれしかった、なあ。ボクは今まで誰かに特別に悪意や嫌悪を向けられたことはなかったけれど、だけどその分この性質ゆえに特別な好意や関心を寄せられたことなくて。正直、そういったことにわりと無頓着な性格だったからそのことに対してこれといって嫌だと思ったことはない。でもやっぱり、幼いボクは自分が思っていたよりもずっと傷ついていたと、思うんです。本当は、ボクだって、ずっとさみしかったんだと。
――わたしの勝ちだねテッちゃん!
彼女の負けず嫌いなところ、浅はかなまでの愚直さ、ボクの本心を無意識に汲み上げてしまう聡明さ、とか。きっと、彼女にとっては大したことではなかったんでしょう。だけどそれでもあの日、ボクは泣いてしまいそうなくらいにうれしかったんです。
「……黒子っち?」 「…すみません、つい懐かしくて」
その日から、時々は苗字さんたちと遊ぶようになった。毎回ではなくて、やっぱり本を読むのはやめなかったですけど。
「それからボクは苗字さんを観察するようになったんです。彼女は本当は、一体どんな子なのかだろうかと」 「…どう、思ったんすか?」 「正直……よく解らなかったんです」 「……」 「やっぱり、本質的には明るくてやさしくて人望がある女の子だと思いました。でも、なんだか不思議でした」 「…なまえは、時々大人でもハッとするような賢明なところと、年下の子にもバカにされるくらい子どもみたいなところがあったんす」 「そして、時にはケガさえも厭わないくらい勇猛果敢な一面もあれば、少し意地悪を言われたくらいで強く傷つくくらいに弱い一面も見てとれました」
解らなかった。常に第三者というか傍観に適した位置にいたボクは、冷静にそのままの彼女を観察した。…ちょっとストーカーみたいですけど。知れば知るほど困惑は増した。彼女の本質を辿れば辿るほどに常に矛盾はつきまとった。謎は深まるばかりか、苗字なまえという存在は一体誰で、一体何なのか解らなくなった。
「…少し、俺の、俺たちの話をしていいっすかね」
バスケの時に見せる熱意も女子に接する時に覆う甘さも、一切のものを取っ払った無表情な顔で黄瀬くんは視線を下げた。視線の延長線上では、今も赤司くんと名字さんが楽しそうに笑いあっていた。
「俺となまえの母親が姉妹なんす。その母方のじいさんが、…今はもう亡くなってるんすけど」 「…はい」 「そのじいさんは昔、形態模写で稼いでいたような人で」 「……今でいう、モノマネですね」 「とにかく、うちのじいちゃんは殊『真似』ということに関してはそれはもうすごい人で……俺もなまえも昔から面白いじいちゃんが大好きで」
そこで言葉を切った黄瀬くんは困ったように笑いながら、ため息をついた。
「やっぱり血が繋がってるんだと思うんだ。目で見て、それを脳内で変換して、身体でそれを再現できたとき」 「……キミのその才能は血筋だと?」 「うん。俺にもなまえにも流れてる、誰にも真似できない誰かを真似る才能が。……少し性質が違うんすけどね」
それから俯いて腕の中に顔を埋めた黄瀬くんは、今にも泣き出しそうな声で絞り出すように小さく叫ぶように、その言葉を口にした。
「誰よりもじいちゃんに憧れ、誰よりもその才能を愛し憎んで、そして誰よりも自分が大嫌いななまえは、誰かを真似ることで自分を消したいんだと思う」
ボクが感じた違和感は、今の黄瀬くんの言葉から残念ながら偽物ではないことを知った。明るさと孤独さが混在するような笑顔で、大人びながらも小さな子どものような弱さを纏った苗字なまえという女の子。クラスの中心で人気者だった彼女は、ある日突然変わった。何かに怯えるように長い前髪で表情を隠して、誰かと関わることを恐れるように彼女だけの世界に閉じこもった。他人を寄せ付けなくなった。……いや、他人の方が彼女に寄り付かなくなったんだ。――まるで、彼女のことが全く視界に入っていないかのように。
「そうして今も、自分ではない誰かに成り代わろうとしてる」
――知っていた。ボクが彼女を観察していたように、いつからか彼女もボクを観察していたこと。まるで、……模倣しようとしてるみたいに。
「苗字さんは今、赤司くんの特別な『誰か』の代わりになろうとしてるんですね」
痛くも痒くもない死ねばいい
――こいつは俺と同族だぜ? その言葉はまるで呪いのように、弱いわたしの心を責め立てる。
130518
|