――完全無欠を誇る我が部の知将、赤司征十郎にはかねてから愛慕うたった一人の想い人がいた。


「――…×××」


そもそも俺がそのことを知ったのは本当に偶然であり、きっと他のみんなは知らない彼が胸の内に秘めている最たる秘密であろう。一度だけ、彼がいとしい『彼女』の名前を切なそうに口にしたのを偶然聞いたことがあった。会いたい、触れたい、手に入れたい、そんな純粋なまでの欲望が直情的に現れたような心からの叫びだと思った。その切ないくらい一途な恋情を偶然耳にして以来、いつも部のため俺たちのため、時に私情を捨ててまで正しき采配を振るう赤司っちが、そのいとしい人とどうか純粋に幸せになってくれたらいいのになあと、俺は友人として願っていた。


――まさかその願いの行く末が、俺の一番大事な女の子を深く傷つける哀しみに繋がっているとは、その時には全く予想すらできずに。


「――…ついに捨てられたみたい、もうぜんぶおわりだ」


もしも、もしも、俺の願いが本当の意味で叶っていたなら、俺が赤司っちの本当のきもちを知っていたなら、こんなことにはならなかっただろう。俺の大好きで大切ななまえが、泡になって溶けるその前に。







――わたしは、歪な子である。


「…あかし、くん?」
「黙ってろ」


そうして奪い尽くすようなキスを絶え間なく施される、呼吸も儘ならないほどの。赤司くんがわたしを抱きしめながらキスをするとき、普段は心の奥底にしまいこんだ罪悪感がわたしの心をせめぎたてる。ああ、この悦びも幸福もすべて、本来わたしのものではないのだ。わたしが与えられるべき愛ではない。赤司くんはわたしを少しも見てはいない。わたしは、所詮『彼女』の代わりでしかないのです。赤司くんがわたしを通して別の『誰か』を想っているということに気付かないふりをして、ただ苦しいくらい惜しみなく施される快楽から逃れるように、いとおしい彼に不様にも手を伸ばす。


「……あかし…くん…!」


求めても呼びかけてもあなたは決して応えてはくれない。まるでわたしの罪の証のようにこびりついて剥がれない。赤司くんが切ないくらいに『彼女』をひたすらに求めて叫ぶように呼ぶ声に、悲しくて苦しくて寂しくて涙が出た。求められた時、赤司くんは一度もわたしの名前を呼んだことはない。わたしは所詮『彼女』の代わりでしかないのだと想い知らされる。赤司くんがくれるのは、やさしさ。ほんの断片でしかないのだ。どんなに願っても赤司くんは心まではくれない、決して。赤司くんが求めて呼び続けるのは、目を閉じて思い描いているのは、わたしじゃない。わたしなんかじゃないのだ。わたしは、『彼女』という今はいないひとのふりをしているだけ、真似をしているだけ。雰囲気、話し方、笑い方、しぐさ、立ち振舞いとか。明るくてかわいらしい、赤司くんの本当に大切な『あの子』を滑稽にも模倣している。赤司くんが、望んでくれた日からずっと。わたしは仮初めの幸福を享受し続けている。


――お前の才を、俺のために使え、苗字。


赤司くんがわたしに望んだのは、決してマネージャーとしての分析力や観察眼なんかではない。もっと素晴らしい人が既にバスケ部にはいる、赤司くんが取り揃えた最強のバスケ部は既に完成しているのだから。赤司くんが本当にわたしを望んだ理由。それは、『彼女』になるということだ。少しずつ少しずつ、わたしは変わった。記憶の中にある今はいない『彼女』の面影を辿って、少しずつわたしは仮面を完成させていった。わたしの模倣は、もちろん完全に他人に成り済ますわけではないけれど、雰囲気や会話のテンポ、笑い方、ちょっとしたしぐさや言動から、そのひと特有の空気を再現するのである。人間の感覚とは得てして曖昧なもので、たとえ全く顔が違っていてもそのように錯覚させることができるのである。それに、元より『あの子』とわたしは背格好が似ていたから、より好都合ではあった。まあ、赤司くんを完全に錯覚させるなんてのはさすがに及ばないけれど、それでも赤司くんはわたしの中に『彼女』の面影を探している、それが何よりのわたしの誇るべき成果だわ。たとえ身代わりでも、赤司くんに愛されるならば、望んでもらえるのならば。胸を引き裂くこんな痛みなど、耐えてもいい。だから、どうか、ずっと、このまま。


「あいしてるよ」


――たとえそれが、わたしに向けた感情ではなくとも。


ねぇ、あかしくん


この言葉は、きっともう一生口にすることはないのだろう。だって、もう二度と許されない。わたしが傍にいることを許されているのは、赤司くんのほんの気まぐれでしかないのだ。手の届かぬ遠い『彼女』の面影に少しでも触れたいと願う赤司くんの狂おしいほどの熱情をほんの少しでも紛らすための、すべて仮初めの睦言。でも、それでもかまわなかった。誰かの代わりでも、「愛している」のがわたしの才能を指しているとしても。


すき、好き。あなたが大好き。


口にはできない想いだけど、いつか捨てられて終わる関係だけど、でもそれでも、あなたが必要としてくれただけで、あなたが嘘でも「愛してる」と囁いてくれただけで。


――わたしはただそれだけで、しあわせだって、ちゃんと笑えるです。







隣で安らかに寝息を立てる赤司くんの寝顔を眺めながら、その安寧に無意識に手を伸ばす。白く美しい頬まで伸びて、直前でやめた。触れては、だめだ。許されない想いが苦しい。愛されないことが、涙が出るくらい悲しい。だけど、やめられない。こんなに苦しくて悲しくてたまらないのに、愛される錯覚を捨てきれないんだ。愛されたいのに愛されない。触れたいのに触れられない。わたしを見てほしいのにすり抜けられる。……名前、呼んでほしいのに、なあ。赤司くんは紛い物であるわたしの名前など、きっともうずっと呼ぶことはないのだろう。


「……×××…………っ」


だって、夢の中でもずっと『彼女』の名前を呼び続けている。答えはないと、知りながら。


「……まだ…だめなんだ……」


もっともっともっと、完璧にしなくては。早く『彼女』にならないと、きっと紛い物のわたしなんてすぐに捨てられてしまう。いやだ、そんなのはいやだ。赤司くん、赤司くん。わたし、もっとちゃんと『彼女』みたいに話せるように笑えるようになるから、だからどうか。


――わたしを捨てないで、要らないなんて言わないで。そのためなら、わたしは自分だって消してみせるから。




蜜を呑む振りをした




「征くん!」


夢の中、いとおしい『彼女』に再会して、俺はうれしさのあまり『彼女』を強く抱きしめる。消えてしまいそうで怖かった、もう二度と会えないのではないかと考えては苦しくなった。抱き寄せ腕に閉じ込めても、きっと目が覚めたらきみは消えてしまう。だからせめて、今この時だけは俺だけのものでいて。


「――『なずな』」


きみにもう一度会えるならば、たとえ何かを捨てることになったとしても。俺は決してきみを諦めない。俺の、たったひとりのいとおしいきみ。


あなたのすべてが、大好きです


だから、苗字を傷つけるための残酷な仕打ちさえも厭わぬ俺は酷い男。苗字が俺を嫌いになるわけがないと確信しているからこそ今日も俺はいとしい『なずな』を想いながら、愚かにもこんな酷い俺を一途に恋い慕う苗字を利用する。


いつか、それを愚かにもひどく悔いることになることなど少しも知らずに。




130521

赤司くんの好きな女の子=『なずな』という架空のオリジナルキャラクターです。ずっと『×××』だとなかなか難しいので、名前は一応このまま『なずな』で固定させていただきます。