「あれ?苗字さん?」


心地よい沈黙の中、ひとり、文字を追いかけていたわたしに声をかけたのは、わたしの好きなひとだった。


「黄瀬くん」


わたしと目が合うと、黄瀬くんは少しだけ表情をゆるめて、それからわたしの座っているカウンターのほうへゆっくりと歩いてきた。そうして、近くの椅子を引っ張ってくると、わたしと向かい合わせになる位置に鎮座した。


「なんで苗字さんが図書室にいるんっすかー?」
「わたし、図書委員で、今日当番なんだ」
「へー!知らなかったっす!」


知らなかったというより興味がなかっただけじゃないのかな、なんて卑屈に考えてしまうのは、きっとさっきまで悲恋ものの小説を読んでいたせい。わたしは、そう思うことにした。閉じられた本は、今はただ沈黙を貫くだけだ。読まれることのないことばは、わたしの心を揺さぶることもなく、もはやなんの効力も有してはいないのだ。だというのに、届かない悲しみが呼応するかのように、もどかしさの余韻は響くようにこの胸を打ち続けていた。ことばとは、本当に末恐ろしいものだね。


「黄瀬くんはどうしてここに?」
「あー、ちょっと、時間が余っちゃって、暇つぶし?かな?」
「え、部活は?」
「今日はねー」


今日は雑誌の撮影があるらしく部活はお休みするのだと苦く笑った。すぐに学校を出ると早く着きすぎてしまうため、少し暇をつぶしてから出発するらしい。


「中途半端にあまりすぎて、自主練っていうのもできなくてねー」
「へー、そうなんだね」
「図書室って結構閑散としてるんすね、もっと人いるかと思ってたっす」
「そうだねー、三年生とか勉強する人は自習室に行くしね。もちろん普通に利用する人はいるよ、今日は偶然誰もいないけど」
「へー、そうなんすかー」


椅子の背もたれのところに肘をついて、へらりと黄瀬くんは笑った。


「ね、苗字さんー」
「うん?」
「ちょっと、俺の話し相手になってくれない?」


あ、かっこいい表情だ。それは、良くも悪くも黄瀬くんのキメ顔なんだろうなあ。女の子を説き伏せるときに、時々使っている表情だね。何度か見かけたことがあるよ。わたしはそれを知っているから、残念ながら黄瀬くんが期待する効果はないよ。


「いいよ、もちろん」


ていうのは、うそだ。わたしだって、黄瀬くんを好きな女の子のひとりであって、かっこいい黄瀬くんを前にしてときめかずにはいられない。それが、たとえ作られた表情なのだとしても、そんな表情ですらわたしは好きで好きでたまらないのだから。やっぱり、黄瀬くんはずるいなあ。


「やったー!ありがとっすー!!」
「いえいえ、こちらこそありがとう」
「え、なんで苗字さんがお礼を言うんすか?」
「え、なんとなく?」
「なんすかそれー!」


穏やかな夕暮れのときを好きなひとと過ごす時間は、惜しんでも惜しんでも足りないくらいだ、されど残酷なほど早く過ぎ去って行ってしまう。まだ、まだ、もう少しだけ。どうか、このままこのやさしい時間が終わらないように。願ってもいいだろうか。ずっと抱え続けた想いは重く、未だことばにはとてもできそうにない。黄瀬くんは、今でも遠い。


「あ、そういえば今度黒子っちのとこと練習試合するんすよー!!」
「誠凛と?そうなんだ、いいねぇ」
「ねー、めっちゃ楽しみっす!」
「黒子くん、元気かな」
「あれ?会ってるわけじゃないんすか?」
「うん、メールは時々するけどね」
「へー」


中学時代、黒子くんとは何故か三年間同じクラスで、不思議なことに席も隣りになることが多くて、男女の別なくなかなか親しくしてもらっていた。高校が別になった今でも、直接会うことはないがメールでの文字のやり取りは続けていた。


「あ、じゃあ苗字さん!」
「え、なに?」
「よかったら、次の練習試合見に来ないっすか?」
「え?」
「再来週、海常でやるから是非応援に来てよ!」
「…いいの?」
「もちろんっすよ!!」


――絶対勝つから、見てて?苗字さん。


「…うん」
「よっしゃ!楽しみっすね〜!!」


ことばって、本当に末恐ろしい、なあ。きみにとってはなんの意味もないのだろう、特別な意図も感情もなにひとつ込められてはいないのだろう。それでも、わたしには染み渡るように、絡めとられるように、きみのことばにこんなにも簡単に心は侵食されてしまう。夕日がそっと黄瀬くんの髪を縁取って、とてもきれいなのが印象的だった。黄瀬くんがわたしだけに笑いかけていた。


「がんばってね黄瀬くん!」


見てて、なんて。なんて今更なのだろうか。わたしは、きみだけを見つめているよ。決して口にはできない恋心を人知れず募らせながら。この想いがことばになるとき、それはこの想いが壊れるときだ。だから、わたしはこのきもちを決してとばにはしない、するつもりもない。ただ、ひまわりみたいなきみの笑顔を見守るだけ。


「ありがとー!苗字さん!!」


そんなひまわりみたいな笑顔を浮かべる黄瀬くんが見つめているのは、あの子なんだろうけどね。ことばにならない想いは、ただ胸の中をさまようばかりで、受け取られる甲斐もなく募らせるだけだ。わたしたちはお互いに、手の届かないひとばかりを追いかけているね。




泣きたい


130208