わたしの特技は、見ないこと、聞かないこと、言わないこと、知らないふりをすること、分からないふりをすること。そうやっていやなこと、つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、さみしいこと、全部遠ざけてきた。どんなに叫んだって誰も助けてはくれない、不幸も孤独も全部、自分ひとりで戦わなくちゃならないんだ。どんな思いも記憶もすべて、悲しみだって痛みだって、いつだってぜんぶ、わたしだけのものだから。


――そうやって、泳ぐように生きてきたわたしの特技は、いつしか才能を超えた。







「お前が苗字ちゃん?」


へらへら、にやにや。そんな効果音が付きそうな笑い方で、彼は笑っていました。わたしの肩を掴んで自分の方へと振り向かせた彼は、わたしと視線が交差するや否や、そのような背筋が凍るような、何やら企んでいそうな薄気味悪い雰囲気を隠すことなく、わたしの眼前に漂わせていたのでした。それすら意図しているかのように、ただ漫然と。


「あなたは……灰崎くん、でしたか」
「よぉく知ってんじゃん。何、誰から聞いた?」


そうして更に笑みを深めた灰崎くんは本当に得体が知れず、わたしなんかに話しかけた理由も全く思い当たらなくて、わたしの困惑は増すばかりです。


「有名ですよ。今年の春にほとんど涼太くんと入れ替わる形で男子バスケ部をお止めになった、キセキの天才さん」
「……はっ」
「灰崎ショーゴくん、でしょう?」


へぇ?と笑う灰崎くんに思わず、冷や汗が流れました。何故、こんな廊下の真ん中で彼に呼び止められ、何人かの方々の注目を集めなければならないというのでしょうか。そもそも、わたしはこのひととは、正直関わりたくはないのに。


「ハッ!お前、うぜぇほどリョータに似てんなァ」
「…あまり言われないですが?まあ、一応いとこですからね」
「ダイキが言ってたのはマジだったんだなァ」


不躾にわたしをじろじろと観察する灰崎くんの瞳に垣間見えるのは、純粋なる興味と好奇心、冷静な観察姿勢、そして僅かに混じる憎悪。わたしと涼太くんを重ね合わせつつ、慎重にわたしの本質を射抜くように観察していますね、なんだか僅かに既視感です。


「…フゥン?お前、おもしれぇな?」
「……わたしはおもしろくなどありません、つまらない人間で…」
「お前、赤司のお気に入りってマジ?」


ぞくり、過った悪い予感が的中したかのように、わたしの背中をまるで蛇のように悪寒が這いずっていくかのような感覚に襲われました。目を、つけられた。なんて、言えば?こういうときなんと切り返せば正解なのでしょうか。……赤司くんの、お気に入り。確かにそうなのかもしれません、わたしがよくしていただいているのは確かです。しかし、それは……本質的には正解は否と、そう答えるべきなんでしょうね。


「――だったら、なんだというんだ?灰崎」


赤司くんの「ほんとう」には、わたしはなれない。


「ハッ!ご本人登場ってか?」
「どういうつもりだ、灰崎。俺にケンカでも売る気か」
「フゥン?なに、そんなに苗字ちゃんを気に入ってんのかよ赤司?」
「……苗字は俺のものだ」


赤司くんがまるで見せつけるかのように、あるいは目の前のこのひとからわたしを守るかのように、後ろからぎゅっと強くわたしを抱き締めている、そんな様子に灰崎くんはより楽しそうな笑みを強めました。赤司くん、あなたは一体どういうつもりなのでしょうか。灰崎くんの楽しそうな笑みに比例するように、周囲の好奇の視線は増幅を見せた、そして赤司くんの登場によりその中に見え隠れする憎悪と嫉妬が交じるようになって、わたしはため息を吐きたくなりました。


「ハハッ!マジかよっ!こりゃ傑作だなオイ!!」
「なにが可笑しい?」
「フン!苗字ちゃんも赤司に捕まるとか可哀想になァ!」
「…おい、やはりお前、相当俺にケンカを売りたいらしいな?」
「まっさか!お前相手にケンカとか面倒すぎてやってらんねェわ!」


そうしてハハッ!と笑い声を上げた灰崎くんは、なにも言わず赤司くんに抱えられたまま、ただ灰崎くんを見つめていたわたしの頤を掴み、自分の方へしっかりと視線を合わせるように仕向けました。


「お前のお気に入りを盗るにゃあリスクが高すぎて面倒だ、面白そうだがな」
「……」
「だがなァ、赤司お前、この女、お前が思う以上にとんでもねェ女だぜ?」
「…気安く俺のものに触るな、殺されたいのか」


そうして、恐ろしく怒気を纏った声と共に、わたしに触れていた灰崎くんの指を払った赤司くんは無言で、より強い力でわたしを抱き込み、灰崎くんからわたしを遠ざけた。そんな様態を冷酷な視線で徹底して観察を続けていた灰崎くんは「……へェ?」と小さく感心したような声を漏らすと、今度はわたしに向かって自ら視線を下げ、逃がさないかのようにただまっすぐとわたしを睨み付けた。


「気を付けたほうがいいぜェ赤司?」
「…なにが言いたい」
「こいつは俺と同族だぜ?」


同族嫌悪、それを指すかのような鋭い視線はわたしを射抜く。なるほど、確かに。あの蛇のような悪寒はまさしく、そういうことだったんでしょうね?


「…一緒にしないでいただけますか?不愉快です」
「ハハッ!気が合うな、苗字ちゃん」
「まさか」
「俺も不愉快だわ、お前見てるとなァ!」


ああ、いやです。見ないでほしいです。背中の感覚が未だに消えません。わたし蛇、嫌いなんですよね。そんなわたしに気付いていたのか、あるいは無意識なのか、赤司くんが更に力を強めて、痛いほどのその抱擁はまるで、まるでわたしを守り、なぐさめるかのような。


「――俺が思う以上に?」


すっかり沈黙をしていた赤司くんに、わたしは思わずびくり、としてしまいました。ああ、どうしよう。赤司くん、怒って、いらっしゃいます。


「あまり俺を見くびるなよ、灰崎」
「…ハハッ」
「――苗字は、俺のものだ」


ただ、それだけのこと。


「…あかし、くん……」


赤司くんはやはりそれ以上何も言おうとはしませんでした。灰崎くんもそんな様子を興味深げに眺めているだけ。そうして、言いたいことは言い終わったと、どうやら満足したらしい赤司くんは、抱き込んでいたわたしを解放するや否や、わたしの手首を掴んで、この気分の悪い空間から早々に退避しました。赤司くんに引きずられるように腕を引かれながら、わたしはただその一言に込められた意味を、赤司くんのきもちを、うまく咀嚼できぬまま苦しい苦しいと悲鳴を上げる心の叫びに気付かないふりをして、そのことばの甘さを噛み締めることしかできませんでした。


――ああ、わたしは今日も息苦しさを前に、ただ泳ぎながら生きてゆく。




またその元凶にだきしめられる




ねえ、あかしくん。
その一言にどれほどわたしは救われ、どれほどわたしは傷付けられたことでしょう。そのことだけは、きっとあなたさえ、見抜けなかったただ唯一のことなのでしょうね。何故なら、その一言を口にする度にいつも、あなたは誰よりもずっと傷付いていたのでしょうから。




130220