僕は、「赤司」の子である。


「お帰りなさいませ、征十郎様」


部活が終わり帰宅すると、京都にある別宅における所謂執事という役職である酒井と他の数名の使用人が頭を下げて僕を出迎えた。一つ頷き、ただいまと言えば酒井は垂れていた頭を上げた。


「征十郎様、旦那様よりご伝言をお預かりしております」
「いらない。どうせろくなことではないだろう」
「明日のご予定はございますか?」
「はっ、部活に決まっている。部活の日程は既に知らせてあるだろう」


伺っておりますと再び敬礼をすると酒井はやはり予感通りろくでもないことを口にする。ちらりと表情を伺うがいつも通り無表情であった。


「しかし明日の部活動はお休みして頂かねばなりませんのでよろしくお願いいたします」
「ふざけるな。主将が用もなく休めるか」


ただでさえ一年生で異例中の異例なのだ。僕とて軽い気持ちでやっているわけではない。


「いいえ、お休みして頂きます。明日、東京にて東雲財閥主催のチャリティー・パーティーがございます。旦那様から征十郎様にも必ず出席なさるようにと言付かっておりますので」
「……東雲か。いつものだな」


思わずため息が漏れる。東雲は元より財力や家柄は我が赤司家に匹敵するほど……いや家柄に関して言えばあちらの方が旧い上に格上だ。しかも現東雲の当主は父と同輩に当たるため現在最も交流の深い家である。


「……面倒だな」
「旦那様が征十郎様と昼食をご一緒したいそうですので、征十郎様には明朝9時にこちらを出発していただきます」
「昼食ね。実態は久しぶりの交流と題したいつものお小言だろうに殊勝なことだ。これ以上、この僕の一体どこにケチをつけるつもりだあの愚父は」
「征十郎様」


うるさい。舌打ちをしたくなるがそれを堪え、雇い主を貶める発言をした雇い主の息子に対し些かの反応も見せることなく酒井はただ控えていた。


「……解った。部活の方は休むとしよう」
「よろしくお願いいたします」


最敬礼をする酒井に今度は構わず舌打ちをする。――所詮、選択肢などありはしないのだから。そのまま踵を返し、真っ直ぐに自室へと歩を進めた。自然と歩調は早く、歩幅は大きくなっていた。消化不良のイライラが募る。


「……くそ……っ!!」


乱暴に自室の扉を閉め、持っていた通学カバンを放り投げる。鈍い音がしたがどうでもいい。所詮紙の束だ。書いてある内容も全て僕の頭の中に既にあるのだから今さら高校の教科書など僕にとって無用の長物だ。


――征くんはきっとすごいひとだもの。


……すごくなんか、ない。まだどうしようもない子どもだ。親の庇護下にいるただの子ども。抵抗しようと逆らおうと、それは全て自分に返ってくる無力な、子ども。


「……なまえ」


――きっと誰よりもしあわせになれるはず。


しあわせになんかなれない。きみを忘れてしあわせになんてなれない。だって、ずっとそうだった。昔は怖いことなんて何一つなかった、弱みなど一つだってないと思っていた。でもそれは、大切なものが何もなかったから。だって、知らなかった。あんなふうに人のやさしさに触れたことはなかった。父も母も、優秀な赤司の子をアイしているだけ、実際の僕には興味すら抱けないひとたち。だから小さな、幼い僕が目指したのは父と母の求める優秀で「完璧」な赤司の子だったのだから。


――赤司家の嫡男たる者、文武両道、それが当然だ。
――あなたは、赤司家の大切な後継者なのですよ。


だから、幼い僕は、両親に見捨てられないようにたくさん、……あんなにたくさん努力した。誰にも非難されたくない。誰にも否定されたくない。誰かに淘汰されないように、誰にも決して負けないように。だけど。


「……なまえ、なまえ」


我ながら本当に女々しい。唯一、僕をただありのままに見つめてくれた『なずな』に僕はどうしようもないほど執着した。失いたくなかった。知らなかった前にはもう戻れなかった。花冠をはにかみながら僕に授けてくれたあの日が、僕のたったひとつの大切な思い出。怖いことなんて何もなかった、つまりそれは失うものが何もなかったということ。でもあの日僕は知ってしまった。じわりと滲む感情が僕の空っぽの心を満たしたのだ。たったひとり、彼女だけが空虚で冷徹で弱く脆いこの心に息づいた、ただそれだけ。それでも、あの出会いはただ望まれるままに生きていた僕の自我の目覚めには十分だった。だからもう、唯一である彼女さえこの手の中にあるのなら、もうそれだけでよかったのに。


――もっと、自分を大切にしてよ。


それを言ってくれたのは、一体どっちだったのだろうね。







「おお、征十郎君。久しぶりだね。背もずいぶん伸びて、もうすっかり大人だね。時が経つのは本当に早いね」
「これはこれは。東雲会長、お久しぶりです。本日はお招きくださいましてありがとうございます。大人だなんてとんでもない。僕などまだまだ若輩者ですよ、お恥ずかしい限りです」
「はは、征十郎君も漸く謙遜を覚えたのかな。いやはや、稀代の天才と誉れ高い赤司家のご令息にそんなことを言われたとあっては私の方が恥ずかしい限りだな」


穏やかに笑う東雲会長に黙って微笑を返す。これ以上の謙遜は過剰だ。未だ続く鬱陶しい会話に耐えながらいつものように笑みを張り付ける。だから、ここは嫌いだ。


「まあ、征十郎さん。お久しぶりね、もう高校生だったかしら?お父様にだんだん似てきていらっしゃいますわね」
「お久しぶりです、加宮夫人」


次から次に話しかけられ辟易する。しかもこの加宮夫人は話が長い上にとりとめがなく、退屈だ。


「征十郎さんは相変わらず優秀なんですってね。赤司会長が本当に羨ましいわ。うちの息子も征十郎さんと同年なのに、相変わらずパッとしないのよ」
「いやいや。ご子息と同級だったのは小学校のみでしたが、僕と違い友人が多く先生方の信頼も厚かった。僕はあまり友人が多くはないのでそんなご子息が羨ましいくらいでしたよ。人望・人脈といった点では僕などはご子息の足元にも及ばないですよ」
「……まあ」


うふふ、相変わらずお上手ね、とたかがこれくらいのことで気を良くしたらしい夫人の、吐き気のするほど真っ赤な唇が弧を描いた。贅沢の証というような体躯を感動にうち震わせる。――優秀、ねぇ。それはこんなふうに相手の気を良くするためだけの愚かで些末な振る舞いのことか、あるいは学校の成績を指すのか、部活動での功績か、リーダーとして上に立てるだけの力量についてなのか?ただ勝ち続け、勝者であること。何もかも勝ち得てきた、奪ってきた。この穢い世は所詮弱肉強食、生きるか死ぬかの殺伐とした世界。奪われないためには勝ち続けるしかない、ただそれだけのシンプルな。


「お父様はこんなご立派なご子息をもてて本当に幸運ね」


僕は不幸だと、思っているがな。


「夫人、申し訳ありませんがまだまだご挨拶申し上げなくてはならない方々がいますので。是非また次の機会に」
「あら、そうなのお」


振り返りもせず人を掻き分け進む。ある日、誰だったか言っていた。――赤司は何でも持っていていいよな、と。余計なお世話だ、そもそもが僕が勝ち得てきた全てをそんな言葉で片付けるなど心外もいいとこである。不愉快な記憶を思い出してしまったが、顔には出さずに夫人の御前から静かに辞す。……ああ、きっちりと締めたネクタイが煩わしい。だがこれを締めている間は少なくとも僕は「完璧」な赤司の――。


「…………え?」


暇潰しも込めてつまらない思考を巡らしていたが、それも止まる。何か分からないものが胸の中で溢れてどうしようもなく震える。否定する頭と否定したくない感情が競り合って、僕を鈍らせる。


「苗字……?」


何故、ここに……彼女がいる?あるはずがない、まさか会いたいあまりに幻覚が見え出したか。この僕もついに耄碌したか?いやいくらなんでもそれは早すぎるだろう。まだ15を数えたばかりなのにな。……いや違う、だからそうではなくて。


「お?征十郎じゃないか」


東雲会長を取り巻くように会長の周囲には人々の厚い層ができており、確かめようにもなかなか近づけずにいた。かなりイライラしていたところで東雲の息子に話しかけられる。年はいくつか上だが立場上よく似ていた上に両家の親交が深かったためにそれなり互いを知る仲だ。そして今回のパーティーの主催の家の者だ。築百年を誇る由緒正しい東雲の豪邸で開かれた盛大なパーティー。招待客のほとんどは財界、政界、場合によっては芸能界の著名人。この規模だけでも東雲の有する力の強大さが見てとれる。正直、ただひたすらに豪奢な会場に多くの人が蠢くこういった場は昔から苦手だった。ここではあくまで僕は「赤司家の子息」でしかない。面倒で、陰湿で、最悪な場所。美しく飾られた花も、美味しい料理も、型にはまりきった美辞麗句も、全部もう忌々しい。


「おい。あそこの……今お前の親父と話している白と薄ピンクのカラーのドレスの女は……」
「お、なに。征十郎、もしかしてあの子のファン?かっわいいよなー、俺も超大好き」
「……は?」
「あれ、もしかして知らんのかよ。彼女は……――」


白い肌にやわらかな赤みが差して、やんわりと微笑みを浮かべた。まるで花が咲いたように。淡い髪色に夕焼けのような橙色の髪飾りが美しく映える。細く頼りなげな指先が微笑む彼女の口元に添えられる。僕の、知らない顔。


「彼女はあの『なずな』だよ。あ、知らないんだっけ?えーっとな、確かちゃんとした名前は、――」


きらびやかで明るい照明に目が眩んでしまいそう。たくさんの花や人々の強すぎる香水の香りが混ざり合って目眩を起こしてしまいそう。だがそれ以上に、今やっと見つけた最後の答えに何もかも捨てて駆け出してしまいそう。これ以上はもう、待てない。やっと、見つけた。僕は競り上がる歓喜と愉悦に震えるのを堪えて、ただ口角を上げて笑っていた。そう、やはり僕はいつだって正しい。そうでなければならないのだ。今度はもう、間違えない。決して間違えない、だから。




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栄光を着飾る王さま 05