――長い冬が終わり、あれから二度目の夏。


「あっかしー!」


聞き慣れた声に閉じていた瞼を開けると目の前で小太郎が目をまるまると見開いて笑っていた。


「もう休憩終わるけどー?ていうか!どしたの、赤司が休憩中に転た寝しちゃうなんてさ。おねむ?」
「いや、大丈夫だ。……少し考え事をしていたらそのまま眠ってしまったようだ」
「ふぅん?」


体調悪いんじゃないんでしょ?と気遣ってくれる小太郎にすかさず否の回答を提示する。……まあ、確かに部活中のほんの数分の休憩時間に壁に寄っ掛かった体勢で寝入るなど僕にしては珍しく無防備すぎである。立ち上がり凝り固まった肩や手足を解していると玲央もこちらに寄ってきて話しかけてきた。


「あらー?征ちゃん、起きたのね。本当に大丈夫なの?疲れてるんじゃない?」
「大丈夫だよ。ありがとう、玲央」


玲央にまで心配かけてしまうとは。我ながら情けない。思わず苦笑を漏らす。だが確かにらしくない、な。まだ一年生ではありながらキャプテンを任かされているのだから、しっかりと気を引きしめなければ上級生に示しがつかない。……ああ、だけど。


――赤司くんの手は冷たいねぇ。


懐かしい声が心の中を掠めて離れなくなってしまった。それがじわりと滲んで胸中には寂しさが募る。会いたい、会いたい。二年前の冬の記憶が脳内で咲いては枯れ、咲いては枯れて、いくつもの思い出が甦っては消えてゆく。きみを見つけたこと、きみの髪を掴んではからかったこと、僕の望むふるまいをするよう仕向けたこと、あんな酷い僕を好きと言ってくれたこと、抱き締めたこと、手を繋いだこと、笑い合い抱き合ったこと、泣かせたこと、過ちに気付かされたこと、……忘れられたこと。あのときのきみはどんな表情をしていただろう、心の底では一体何を思っていたのだろう。ひとつひとつ、思い出しうる限りに記憶を拙くも辿っては押し寄せる後悔と己の愚かさに目を伏せる。


「夢を、見ていた」
「夢ー?それってどんな?」
「征ちゃんの見る夢って、ちょっと興味あるわね」
「はは、そうか?……そうだな、」


傍にいればいるほどに躊躇いが生まれていった。それを振り払い無理やりにでも彼女を傍に置こうと愚かにも強行したのは他ならぬ僕自身。想いに自覚は伴わないまま、無自覚の執着だけで繋ぎ止めようとしたのだ。それでもやがてはいとしさは罪悪感へ、思い上がりは後悔へ、策謀は絶望へと転じ、読みきれなかった結末に僕は僕自身を何度も責め抜いた。だがそれさえも苗字は決して望みはしないのだろう。結局、彼女はこんな僕のことを一度も責めることはなかったから。


「……僕が、人になった日の夢、かな」


えっ!?と揃って驚愕に目を見開く二人の表情があまりに滑稽で思わず笑む。練習の再開と次のメニューとしてスリーメンを行うと指示を飛ばして、そんな二人の追及をかわした。――……ああ、そういえばオズのブリキは結局心を手に入れたのだったろうか。







苗字との思い出を追懐するにはつらい記憶が多い。いや、違うな。楽しい思い出ばかりのはずなのに後悔と罪悪がそれを塗り潰してしまうのだろう。彼女の笑顔を思い出せば思い出すほど張り裂けそうなくらいに空っぽの胸がちくりと痛む。


「あっあの……!あ、赤司くん!!」


誰かに呼ばれて体育館へと向かっていた歩みを止める。出会って初めの頃(実際は初対面ではなく再会だったのだが)の彼女は、ああ、こんなふうに緊張していて、どもっていたな。それでも前髪の向こうの怯えたような目がまるで宝石のように美しかった。それが、ただただ鮮烈だった。


「何か用か?」
「え、あ、あの!私、隣のクラスの……」


と、どことなく見たことがあるような気がする隣のクラスらしい女の子に呼び止められ閉口してしまう。この先に続く言葉が分からないほど鈍感ではない。溜め息を吐き出してしまいそうだ。


「わた、私!赤司くんが……好き、です!!」


耳まで真っ赤に染め上げた女の子に、僕は。


――あなたのすべてが、大好きです。


「私とっ……付き合ってください!!」


少しずつ少しずつ無情なほどに消えてゆく過去の大切な思い出とそれは二重三重に重なった、重なってしまった。だからこそあのとき僕は初恋の少女の面影ある彼女のことを手に入れたいと願ってしまったのだ。だけど、……ちがう。違うんだ、僕が聞きたいのは。


――どうか、わたしのものになってください。


幾重にも折り重なる後悔と孤独といとしさに、心が渇いてゆく。育てば育つほどに渇望は僕自身を苛む。きみの声が聞きたい。


「…………」
「……あの?赤司、くん?」
「…………すまない」
「え……?」
「本当にすまない、申し訳ない」
「あ、あの……」


つらそうな表情をする女の子に申し訳ない気持ちが再び込み上げる。その想いを返すことなどできるはずもない。僕の想いはあの冬に止まったままだから。


「気持ちは嬉しいが、きみの気持ちに僕は応えることはできない」


いつから、だろう。


「……好きになってくれて、ありがとう」


――いつから僕はこんなに弱くなった。昔はこんなことで、況してや他人のためになど傷付いたりはしなかったのに。いや自分の痛みにさえ鈍感で、合理的にあらゆる事を進めることばかりを優先していた。他人を容易く切り捨てるも傷付けることすら厭わずに。そのはずだった。それなのにいつからこんなにも僕は弱くなった?頭で計算したこととそれに追随することを拒む心情との乖離が著しいのだ。……難しい問題だ、僕の手元にはそれを解決すべき術がない。僕には、この僕には、どうすることもできない。ただ、捨てることもできずにもて余すだけ。――……今まであんなにたくさん切り捨ててきたのに?


「……盗み聞きとは感心しないな、玲央」
「あら?気付かれちゃったわぁ」


走り去る女の子の背中を見送ったあと、絶えず注がれていた視線の主に目を向ける。ごめんなさいねぇと謝りながらもその顔はにやにやと歪んでしまっていた。愉快そうに上がる口角に、僕の眉間のしわが深くなった。


「嫌な趣味をしているね」
「あら、失礼ね。わざとじゃないのよ。偶然近くにいたときにあの子が突然告白を始めただけだもの」
「ふぅん、そう」
「それにしても征ちゃんってば断っちゃったのね、あの子結構かわいかったのに」
「……そうだね」
「なんだかなげやりね。あ、もしかして征ちゃん、実は既に恋人がいるのかしら?」
「…………」


その回答をするには視線を交えられずに、窺ってくる玲央の視線から逃げるようにして踵を返した。歩きながら何もない手のひらを握っては開き、握っては開いた。


「いるよ」
「……あら?なんだ、いるんじゃない!」
「…………」
「……征ちゃん?」
「いや……正確にはいた、かな。今は、いない」
「え?なあに、別れたってこと?」
「……」


――赤司っち、ごめんね。


いつから。いつから僕はこんなにも弱い人間になったのだろう。昔は怖いことも、悲しいこともなかったのに。こんなことで傷付いたりはしなかった。頭で把握しうる以上に気持ちを揺らして迷うなんてバカのすることだと思っていたのに。――……そうだ、僕は、こんなにも弱い。負けることも間違うことも消えることも淘汰されることも否定されることも……忘れられることも、本当はすべて怖い。怖くて堪らないのだ。だけど赦されなかった、望まれなかった。僕は……僕も、赤司征十郎だから。いつか、変わらずに待ち続けていれば僕のこの冷えきった手のひらはいつか温かさを得ることができるのだろうか。


「彼女は僕の前から姿を消した、今はどこにいるのかも僕は知らない」


チームメイトであり、友人でもあるそいつに泣かれて散々謝罪を繰り返された。そんなことを承諾することなどできるはずもなかった。しなくなど、なかった。何故と問えば、あの日の涼太はひどく申し訳なさそうに顔を歪めていた。


「端的に言えば僕が愚かだったからフラれたんだよ。自業自得さ」
「そうなの。……征ちゃんはまだその子のことを、」


――……赤司くんのすべてが、大好きです。
――だから、しあわせになってよ、征くん。



人生にやり直しが利くならば、きっと僕はいもしない神様にすがり付いてでもやり直していた。やり直したい、過去に立ち返って『間違え』た僕を抹消してしまいたい。そんな瞬間があまりにありすぎる。出会ったことが間違いだったのか、心をもらったことが由縁なのか、過ちを見抜けなかったことこそが禍であったのか。僕は何故間違えた?正しくない僕など……あってはならないのに。途切れることない問いかけがぐるぐると廻る。


「そうだね。僕は彼女――苗字のことを…………いや、なまえのすべてが今でも好きでいるんだ」


まるで鏡だった。誰かに愛されたい、必要とされたい、名前を呼んでもらいたい。取り繕った表面に覆われた本質、嘘と虚飾と建て前の背後にある本音、噂と肩書きもしくは生きる才によって過剰に彩られた自覚と自制、あるいは執着で保たれるアイデンティティーか。僕は、『赤司』の子であることを望まれた。そのために生まれた、育てられた。そしてそれは今なお継続中である。これを業と呼ぶならば、きっと僕は勝ち続けて勝ち続けて……そしてその先に何を得て何を失うのだろうか。そんなことを考えて目を伏せる。


――……それなら?そうであるならば、一体苗字は何に縛られて生きていたのだろう。与えられた役割さえも大切にして、笑って、泣いて。僕は本当は彼女のことを何一つ知らない。




131007
栄光を着飾る王さま 03