夏の風が、揺れていた。
「……涼しいねー…」
羊水に身を浸す胎児のような姿勢で半分瞼を閉じて、彼女は静かにそう言った。僕は抱えていた家庭教師指定の本を横に置いた。家庭教師の女が貸してくれたかなり古びたその本が、青々とした雑草や野花の上に鎮座する様はあまりにちぐはぐでなんだかおかしかった。
「ねぇ」 「なぁに、征くん」 「……きみは」
開いていた口を閉ざして、それでも躊躇した。何故躊躇う必要があるのかさえ、心許ない。数週間ぶりに顔を合わせた唯一の肉親である父は、昨日どんな顔をしていだろう。そして、その父を前におれは一体どんな顔をしていたのだろう?一切の感情を宿さぬ静かなる瞳が僕をひたすらに見つめる中、何故だか僕はその時そのことを疑問に思って仕方がなくなった。理由はなお分からない。ただ彼女の白い手は、唯一の記憶の中の母の白さと重なるように思えた。
「……何でもないよ」 「なぁに?何かわたしに聞きたかったんじゃないの?」 「さあ、何だったのだろうな」
こぼれかけた言葉を、僕自身さえも咀嚼しきれなかった。し、今なおそれは出来ないままだ。
「……ね、征くん!」 「なに?」 「よいしょー!」
そんな掛け声と共に、手を掴まれたまま彼女に勢いよく引っ張られた。そうして引き寄せられるままに身を預けて、笑顔の彼女の隣に勢いよく倒れ込んだ。花の、においがした。揺らぐ視界の先で彼女が微笑みを浮かべていた。低体温の自分の手のひらを握るその手は、思いの外ひやりとしていた。それでも自分よりは僅かにあたたかかったし、同じ程の体温の触れ合いはまるで溶け合うようで不思議と心地よいものだった。
「……おい。何をするんだ」 「えー?」 「服が汚れるだろう、どうしてくれる」 「洗濯すれば問題ないよ征くん!」 「そういう問題ではない」
夏の太陽がゆるやかに頬を射す。東京で毎日のように目にした揺らめく陽炎は今日は一度も目にしていない。視界が眩んだのはこの一度きりだ。生まれて初めて、地面に、雑草の上に寝転ぶという経験をした。いつだって清潔かつ身綺麗で高価な衣服を身に付けていた自分が、故意に服を汚すなどということは物心ついてからは一度とてなかったはずだ。目を閉じれば瞼の裏には、小さな子供が公園で泥だらけになりながら遊ぶ様を、遠くからひとり眺めていた幼い自分がいる。
「大丈夫だよ征くん。寝転んだだけじゃ汚れないよ、たぶん」 「たぶんか。お前だって自信がないんじゃないか。まあ、この際もういいさ。おれも抵抗しなかったしな」 「うふふー」
大の字になってクスクスと笑う彼女にため息を吐きつつも、一点の曇りさえない抜けるような青空を仰ぐ。少し眩しいために目を細めて、それからそっと閉じた。深く、深呼吸をする。
「田舎はいいな」 「あ、征くん田舎バカにしてる?」 「いや、むしろ逆だ。……羨ましいのかもしれないね」
抜けるような青空も、宙を踊る風たちも、そんな風に身を揺らす木々や草花さえも、あらゆるものがここでは自由なのだ。何にも縛られることなく静かに力強く生を謳歌している。今この瞬間、ここには、自分を縛るものは本当は何一つありはしないのだ。何かのため誰かのため、あるいは遠い先の将来のため、僕が投げ出し投資してきた全ての努力も時間も、今この瞬間、青空の下、大地に身を任せてただ呼吸だけをこなす自分にとっては何の意味もないものに成り果てているような気がする。ずっとずっと未来の、何かも分からない不確かなもののために僕は生きていた、生かされていたのだ。
「きみには何か、将来の夢がある?」
こぼれた問いかけは、先程聞きたかったこととは違うものだった。だが、必ずしも最初の意図からかけ離れていたわけではない。
「わたし?わたしはねぇ……」
左腕を枕にして隣に寝転がる彼女を今度は自分の方が観察を試みた。彼女は僕と同じように深呼吸をして、口を開く。また同じように閉じた。
「わたしはー……えっと、普通将来の夢って、自分のなりたいもののことだよねぇ?」 「まぁ、おおよそはそうだね」 「なりたいもの……っていうかやりたいことはあるけど、今もちょっとできてるしぃー……勉強中っていうか」 「……そうか」 「でもね、なりたいものじゃないけれど、たったひとつ夢があるの」 「それは、何?」
一陣の風がまた吹き抜ける。彼女が囁いた音を拐うようなそれに僕は何故か胸を痛めた。そんな同情的な性格はしていなかったはずなのに。まるで、そのたったひとつの夢が叶うことはありえないかのような暗示に思えたせいだ。
「いつかお父さんとお母さんが仲直りをして、家族でもう一回、海に行けたらいいなぁって」
思うんです、と。彼女は目を閉じたまま口角を上げた。三枚の葉を持つクローバーが彼女の頬に触れて影を作っていた。
「……家族」 「お父さんがやさしくしてくれたら、いつかお母さんが戻って来てくれたら、きっとそれだけで叶うんだけどね」 「……」 「うまくいかないや」
おれは、そんなことを願ったことはない。そんな望みが一瞬とて過ったことさえ全くなかったのである。ふと、思う。おれは自分の両親のことを何一つ知らない。幼い頃に亡くなった母のことは尚更。母だけではない。おれは、あの父が笑ったとこも泣いたとこも、怒ったとこさえ、生まれてから今まで一度も見たことがない。母が亡くなった時でさえ、父は一度もおれの前で涙を見せなかった。そして父親でありながら子のおれに対し怒りを向けるほどの関心を抱いてはいない、だからあの人はおれを叱ったことはない。ほんの幼い頃でさえ、その役目はお金で雇った他人の役目で仕事だった。ただ優秀な後継者でありさえすればあの人は何も言わないのだ。だから唯一の肉親たる父のことさえ、おれは何も知らない。あの人はどんなことで笑い、泣くのか。伴侶の死に対し一粒の涙も見せなかった男は、現在では一人息子と年に数回しか会話をしない。あの人は果たして母やおれを愛しているのか。そんなことさえおれは知らない。知ろうとも思ってこなかった。この両の手は両親のあたたかみを知らない。――そう考えたら、僕が今まで色んなことを犠牲にして積み上げてきた知識も技術も能力も評判も、本当は何一つ価値がないような気さえした。
「お前は両親を愛しているんだね」 「……そんなすごいものじゃない、ですよ?」 「おれはそんなことは願うことさえあり得ない」
ふと、考えを巡らせる。思えば、考えたことさえなかった。おれはきっと両親に愛されてはいないのだろう。物質的には恵まれていても精神的なものには決して恵まれてはいないのかもしれない。両親のどちらにも抱き締められた記憶はないし、触れられたことさえほとんどないのだ。父はいつもおれと距離をとって接する。一方、記憶の中の母は幼いおれの肩を強く掴むだけだった。
「いつか、家族と海に行けるといいね」
おれは、知らない。あの、公園で泥だらけになりながら遊ぶ子のその喜びも、そんな我が子をやさしく傍で見守っていたその子の母親の眼差しも、異質なおれを遊びに誘ってくれた同級生の彼らのことも。友達と日が暮れるまで遊ぶ喜びや、夕焼けと共に別れる時の気持ち、そして明日への希望を胸に我が家へ家族の元へと帰ってゆくそのぬくもりも。彼らはきっと当たり前のように知っていることなのだ。片やおれは何一つ知らない、知ろうともしなかった。
「ありがとう、征くん」 「……ああ」 「そう言ってくれてうれしいです!」
揺れる彼女の瞳の中にきらめく光を眺めて、急に拓けた視界の眩しさに目を細めざるを得なかった。今まで色んなことを教えられて、たくさんの知識を乞われるままに吸収していって、小学生ながら異端なほどあらゆることを学んでいたつもりだった。その自負はある。だが、それと同時に彼女の瞳の中に気付いてしまっていた。一方でおれは、本当は人のことを何も知らないのかもしれない。あの子のきもちも、両親のことも、自分のことでさえもおれは何にも知らないのだから。
「じゃあ、征くんの夢は何ですか?」 「…………さあな」
自分が大人になる頃、どんなことをしているか、どんな大人になっているか。それを想像することは難くない。きっと両親が望んだ大人に、赤司家後継者に大した苦労もないまま自分はなる、なってしまうのだろう。敷かれたレールをきっとこれからも猛スピードでひた走る。そうして父が引退する頃に、今度はおれが父の座に就き、その仕事を受け継ぐのだろう。そうしてまたおれはおれのようなただ優秀な子を作り、その子がまた次の後継者になる。世襲など今時流行らないだろうに、その忌まわしき連鎖は恐らくこれからも続いていく。愛を知らない子が親になって、同じように愛を知らない子が生まれてしまう。おれが、たった今気付いた何かを知ろうとしない限りは。
――自分が「なりたい」もの
きっとこうなるのだろうと予想されたものではなく、況してや誰かに乞われるものではなく、おれが、おれだけの心が望むもの。今のおれにはまだそれは何一つない。まだ気付いたばかりだ、閉じていた瞼を今漸く開いて見つめ始めたばかり。
「将来の夢、見つかるといいね、征くん」
横たえていた身体を起こして、彼女は白詰草とクローバーを何本か摘み取り、少したどたどしくも器用にそれらを編み込んでいった。やがてそれはずいぶんと長くなり、最後にわっかにして、所謂花冠を完成させた彼女はふわりと微笑み、すでに同じく身体を起こし座った状態で考え込んでいた僕の頭にそっと乗せた。草花で編まれたそれはとても儚く、壊れやすい。
「征くんに、冠をあげる」 「……こんなもの、初めて見た」 「本当?わたしも久しぶりだったからちょっと難しかったなぁ」 「……そうか、ありがとう」 「ううん!征くん、とても似合うよ、すてきだよ!!」
――彼女は、僕に「考える」ことをさせた唯一の存在だった。今まで全く疑問に思わなかったあらゆることに対し立ち止まって吟味することを僕は知った。思えば、この瞬間こそが僕の自我の芽生えであったのだろう。利益を追い求める大人たちの道化でもなく傀儡でもない、この日僕は漸く人の子になれたのである。だからこの日は僕の子ども時代な一番大切な記憶であり、いつか死するまで忘れたくはない生まれてから一番最初の愛への羨望の日。この日ばかりではない。この後、幾度も僕は彼女のことを思い出して、そして想いを馳せることになる。
「ねぇ、征くん」
――自分のこと、彼女のこと、自分の願い、彼女の望み、彼女への恋心、僕が目を閉じてきたすべてのことを僕はただ静かなる両の眼で見つめている。今はもうただ傍にいて微笑んでくれた彼女を………なまえの姿を、どんなに祈っても決してこの眼は映してはくれないけれど。
130813 栄光を着飾る王さま 02
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