※泣いてしまう赤司の話
注意:微ネタバレと捏造、赤司不安定


征十郎はきっと、本当は泣き虫になりたい子だった。

「上柿?」

名前を呼ばれて閉じていた瞳も開ける。首をもたげて腕の中に埋めていた顔をその声のほうに向ける。開けた視界はあまりに明るくて、わたしは眩しさに思わず目を眇めた。

『……真太郎』
「身体の調子でも悪いのか?」
『…………違う。なんでもないよ』

未だうまく開かない目を擦る。イライラからついつい強く擦ってしまったわたしを真太郎が見咎める。

『……なんでここにいんの、真太郎』
「それはこちらのセリフなのだよ、何故こんなところで寝ている」
『んー、いや眠くてつい』
「無防備にも程があるのだよ」
『さーせんっした』

征十郎は、きっと自分を強い人間だと思っていた。そして現在も変わらずそう思っているのだろう。きっとそれに間違いはない。あんな強さを持つ人間をわたしは他に知らない。何より恐ろしいのがその自負が決して傲慢ではないということだ。あれは小さな身体の内に秘めたる才と確かな実績に裏打ちされた驕りのない正しき自信と自尊心だ。彼は自分のことさえ読み間違えるということをしない。彼の中心にあるもの、芯となる、核となる志はまさに一途と呼べるほど揺るぎない。だから、だからこそ。征十郎はいつも振り返らないし、顧みることをしない。進む、まっすぐ前だけを見て。

「大体お前は前からそうだ。危機感というものが全くないからお前はダメなのだよ」
『ダメって。ちょっとあんたダメって。久しぶりに会ったのにひどい』
「ひどいのはお前だろう」
『ハイハイ。どうせはわたしはダメな女ですよ〜』
「自覚があったのか」
『真太郎さんひどい』

だから、わたしは怖かったのだ。いつか、征十郎が進むことができなくなったとき、その一途で実直な一本芯がいつか折れてしまったとき。その信じるものがいつか壊れてしまったそのときに。

『……ねぇ、真太郎』
「なんだ」

あの日あなたが視たものを、あの時わたしにも視ることができたなら理解できたのかもしれない。これを後悔というにはあまりに無慈悲だ。誰にも理解できないからこそだったのだろうから。

『あれからいくつも季節は巡ったのに、どうしてあの日々は戻ってきてくれないの』

真太郎は沈黙した。それから唇を僅かに歪めて眉間にしわを寄せた。忘れられない。なのに思い出せない。どんどん曖昧になり朧気になる。忘れて、やがて消えていってしまう恐怖が剥がれない。征十郎が恐れていた消失がわたしまでも苛む。そしてそれは、きっと目の前で目を伏せる彼さえも平等に。




今なら分かる。あれはきっと、征十郎のたった一度のサインだったのだと。

『……征十郎?』

その日わたしは週番のため部活に行くのが遅れていた。やっと終わった最後の仕事である日誌を職員室に届けに行ったその往路で、何かに追いたてられるかのようにせかせかと早足で歩を進める征十郎をわたしは見かけた。表情は見えない。だが、わたしの小さな呟きが意外にも聞こえたらしい征十郎がわたしの方を見た。階段を降りるのにあと二段残したところで立ち止まったわたしに征十郎が何も言わず近付いてきた。目の前で征十郎がじっと立ったまま何も言わなかった。

『え、あんたその顔、一体どうしたの?』
「……」
『……征十郎?』

問いかけてもだんまりを決め込み答えてくれそうにない征十郎があまりに普段の様子とは違っていて、なんだか全くらしくなかったのだ。小さな不安を胸に、段差故に少し下にある征十郎の顔に触れようとしたわたしの手を、彼はぎゅっと強い力で掴んだ。そのまま強く引かれる。バランスを崩したわたしを抱えるようにして、征十郎はわたしを強く抱き締めた。

『征十郎?』
「…………」
『……何か、嫌なことでもあった?』

まるで幼子を慰めているような言葉に我ながら呆れてしまうが、それさえ気にしないで征十郎はただわたしの肩口に顔を埋めて沈黙だけを選び続けていた。わたしの腰を支える腕に力がこもる。不安の現れのような動作に思わず震える背中を擦る。

「…………八重」
『うん』
「八重、八重」
『うん』
「どうして、っ」

小さな嗚咽にその先の言葉は掻き消され言葉にはならず、たった一度のその機会を失ったかのように再び沈黙を忍ばせる。たった一言。ただそれだけが、征十郎が唯一もらした弱音だったのだと今なら分かる。すべてをこめたその音はただそれだけのものなのにあまりに悲しい響きを有していた。わたしは、ひどく困惑した。

「……八重」
『うん?』
今さっき、それを受け取った。たった今、知ったんだ。……いや、違う。俺は本当はずいぶん前から予想していた、分かっていたはずだった。ただ、気付かないふりをしただけだ。その可能性を無視し続けていただけなんだ。それを認めてしまうのが怖かった、……どうしようもなく怖くてたまらなかったんだ」
『え、ちょ、なに?』
「だけど、今、もう解ってしまった!もう、どうすることもできない……っ!!」

それはおそらく、予兆だったのでしょう。いつもみたいに穏やかで物腰柔らかな征十郎とは違う、あるいはわたしたちの前だけで見せる無邪気でノリのいい征十郎とも違った。こんな、ともすれば折れてしまいそうな征十郎をわたしは知らない。何が征十郎をここまで追い詰めたのか。もしくはこの先追い詰められてしまうのだと?

「変わる、終わる、壊れる、そしてきっと恨まれる」
『は?ちょ、征十郎?なに……』

数瞬の沈黙の後、征十郎は突然わたしを強引に引き剥がした。あまりに強い力で掴まれた二の腕がひどく痛んだ。思わず顔をしかめる。

『……征十郎、痛い』
「どうすればよかった?俺はどうすればよかったんだ?どう動けば回避できるんだ?何故?俺が見誤ったとでも?間違えたとでも?俺が、読み違えた?何故?どうして?いつ?どこで?」
『征十郎!な、どうしたの?痛いの、離して!』
「俺が間違えた、間違えた。俺が、俺が。何故?赤司征十郎が間違えた?何故?いやありえない。俺は誰にも何にも決して負けない、だからいつも正しいんだ……間違えたりなんか、しない。赤司征十郎は間違えない!!」
『征十郎?征十郎ってば!!』

そのときの征十郎の表情を読み切れていたならば、どんな言葉を掛けたらいいか分かっただろうか。何度呼び掛けても征十郎は答えてはくれず、苦悩に表情を歪めて自分を責め抜き絶望の沼に自身を沈めていた。

「……俺は」
『征十郎?ねえ、征十郎。一体どうした?』
「…………」
『……大丈夫?』
「っふ。ふふ」
『な、に、笑って……』
「……ああ、ごめんよ。なに?八重」
『!』

その瞬間に戦慄が背を駆け巡ったのが解った。空気が、変わったのである。いや、替わったのだ。そんな確信が脳内を占拠し、わたしは、何故かどうしようもなく、悲しくなった。

「すまない。とんだ醜態を見せてしまったね。許してくれ」
『……うん、大丈夫?』
「大丈夫?おかしなことを聞くね。僕が、“大丈夫”じゃなかったことが今まであったかい?」
『うん、あった。何度も、何度もあったよ。あんたには』
「っふ、相変わらず面白いね。君だけだろうね、そんなことを言うのは」

表情も口調も穏やかで、あるいは強かでもあった。それなのに、何故わたしの腕を掴むその手は震えている?口角は笑っていた。だが、目だけは刹那さえ、笑っていなかった。

『そんなことはないよ。きっと、あんたの友人はみんなそう言うよ。みんな、言うよ』
「……ああ、やはり面白いな」

笑わない瞳に笑みを向けたがやはり届いてはくれず、甲斐なく刹那に零れ落ちた。掴まれているから、抱き締めることさえ叶わなかった。このわずか数十センチの距離がまるで永遠を違うように果てしなく遠く遠く感じた。

「八重」
『う、ん?』
「僕は、間違えない。赤司征十郎は決して間違えないよ。これが答えであり結果だよ。いずれすべてが明らかにされるだろう、僕こそがすべて正しいということを。だから僕は失うことすら迷わない。たとえ、……あいつに憎まれることになろうとも」
『……あかし?』

そして、再び抱き締められる。泣いた。訳もわからずわたしは泣いた。悲しい。なんて、悲しい響きだろう。どうして彼は自らを追い詰め、自ら傷付けるのだろう。また、再び空気が転調する。

「……八重」
『征十郎』
「…………すまない」
『どうして?』
「きっとお前も、許してはくれないだろうな」

すがられ抱き締められた時も、強く腕を掴まれた時も、転調の瞬間も、手元から落ちることのなかった日誌が、バサッと音を立てて落ちた。征十郎が笑い、声もなく泣く。

「……きっと、俺はその時そこにはいないだろうから」

それから征十郎はその唇をわたしの額に寄せた。震えながらなおも掴まれている腕がもはや限界だった。さわり、と風と共に征十郎が告げた五文字に目の前が真っ暗になる。

『……待って征十郎!!』

掴んでいた手を離し、弁明はなく、征十郎は背を向けて歩いて、離れて行く。この愚かな二本の足は動いてはくれず、棒のように立ち尽くしたままだった。追いかけて、抱き締めなければ。そう思うのに。

『……赤司征十郎は、』

なんだ、なんなんだ。その悲しい言葉。征十郎、あんたは一体何を伝えたかったの。何に気付いたの。何を、そんなにも恐れているの。それを分からない限り、わたしには何も言う資格はないのだ。

『誰かに憎まれて?……そうまでしなければ自分が何者かも分からないとでもいうのか』

“間違えない”。ただそれだけが自分を守る鎧ならば、なんて悲しくて脆く、寂しい子なのだろう。どうせなくしてしまうのなら最初からいらない、と?征十郎、あんたはバカだ。大バカだ。やっと、笑えるようになったのにどうして自らまた笑わなくなるの。バカ、本当にバカだ。




過ぎた時間は決して巻き戻らない。あの日々はもう思い出の中でしか生きられない。だが、だからこそ思う。みんなはいつか必ず帰ってきてくれる、戻ってきてくれると。自ら築き上げたものさえ置いて、たった五文字を残して遠くへ行った、今も強さと正しさを糧に生きているあの子も。あんなに儚くて美しい響きはこの世にはもうどこにも存在しないと、やがて薄れ行く日々を儚みながら、わたしは強く想う。

――……征十郎、あんたそんなふうに生きて、今本当に楽しい?

何度目かの問いかけの返事はまだない。


別れの五文字
131026

ネタ提供してくださった方、ありがとうございました。たぶん思っていらっしゃったのとは違ったと思いますが、書いてみたかったことなのでこういった形にさせていただきました。ネタ提供、どうもありがとうございました!