淡い微睡みの中、ふらりと彼が布団を抜け出したのがわかった。眠りが浅かったわけでもないのに、彼が眠れずにいたことやボクが声をかけてから数分ののちに布団を抜け出して行ったことに何故だかボクは気付いていた。ねぇ、キミは何をそんなにも恐れているのですか。


――『花に嵐のたとえもあるさ』


その言葉の意味を、その言葉の続きをボクは知っている。だからこそボクは今こんなにも切なくて苦しい。やっと、見つけたんです。ボクのたったひとつの、輝ける場所。失いたくない、奪われたくない、もう二度と消えたくなんかない。ボクを見つけてくれる、気付いてくれる、忘れないでいてくれる、必要としてくれる、この頼もしい仲間を、やさしい友人を、楽しい「家族」を。神様、もしもいるならばどうかボクから取り上げないで奪わないで。ボクがようやく見つけた大切な居場所なんです。だから、どうか。


――あんたの居場所は、ずっとここにある。


ボクの大好きな上柿さん、あなたがそういって笑ってくれたから。


「……だからこそ、ボクは大切にしたいんです」


ねぇ、赤司くん。けれどだからこそキミは、いつか失うくらいなら知らないままでいたほうがマシだ、とそう思っているんでしょうね。それでもボクはこの先どんなにつらくて苦しい思いをしても出会えた「奇跡」を喜びたい、ずっとずっと大切にしたい、たとえいつか必ず別れを伴うのだとしても。だってキミが「ここ」をたったひとつの居場所だと思ったように、ボクもおんなじようにそう思っているんですよ。だからボクは、なかったことに、なんて。







覚醒ののち、ゆっくり瞼をこじ開けると見慣れない天井が視界に入りほんの一瞬混乱してしまったが、やがてここは八重の家だったことを思い出す。周りを見回すとまだ誰も起きておらず全員が緩やかな寝息を立てていた。みんなを起こさないようにそっと布団を抜け出して洗面所へ向かい、軽く身嗜みを整えてからダイニングキッチンへゆっくりとした足取りで向かう。そこには、眩しい朝日に照らされながら朝食を用意する彼女の姿があって。その後ろ姿に俺は意図せず笑いがもれてしまい、我ながらバカだなとそっと自嘲する。ああ、こんな何でもない光景にすら思慕を溢れさせてしまうなど。


「おはよう、八重」


俺も大概寂しがりやだな、と再び笑いがもれてしまうよ。俺はどうやら本当にきみのことが好きで好きでたまらないらしいね。もしかするとこんなに清々しい朝は初めてかもしれない、な。一番にきみに会えるなんて、おはようを言い合えるなんて、こんな些細なことさえもきみのせいでこんなにも俺は幸福だよ。


『おはよう!早いな、征十郎がやっぱり一番かー』
「その言葉そのまま返すよ、ずいぶん早起きだな」
『ああ、朝ごはん作らなきゃと思って。征十郎は朝は和食派?』
「そうだな。朝ごはんにパンはほとんど食べない」


それから八重はいたずらっ子のように笑って、一番に起きてきたやつの希望に沿おうかなって思ってたんだけど一番早いのはたぶん征十郎だろうし、十中八九和食派だろうから結局悩むまでもなくお味噌汁作り始めたとこなんだよ、と言った。


「ふふ、そうか。何か手伝おうか?」
『あ、それならテレビつけて?それで真太郎を起こしてきてよ、もうすぐおは朝の占い始まっちゃうから』
「ああ、それなら問題ないさ」


俺がそういうと八重はきょとんとした表情で小さく首を傾げた。まったく、性格はドライなくせに時々見せる仕草は閉口するくらいにかわいらしいのだから本当にお前はずるい子だよ。テレビをつけておは朝にチャンネルを合わせるとちょうど若い女性アナウンサーが[次は占いのコーナーです!]と告げた。初めて目撃したのは果たしていつのことだったろうか、その時のことを思い出してつい笑ってしまう。緑間のバカさ加減は本当に最高なのである、殊おは朝に関して。


『ああ!ほら、始まっちゃうじゃんか』
「大丈夫だから、とりあえず見てて」
[…おは朝占いコーナー!本日8月×日の……]
「ああ、もうすぐだよ」
『は?なにが、』
「――おおおおおは朝ァァアアア!!!」
「ほらね」


ドタドタと足音を踏み鳴らしながらやってきたのは勿論緑間である。寝癖はそのままだしパジャマもわずかに寝乱れているし、飛び起きてから眼鏡だけは引っかけて走ってきたかのようでまさにひどい有り様であった。そんな緑間とぽかんと口を開けて驚く八重に俺はやはり口角を上げたのだった。


『え、真太郎、まじかよ』
「だから言っただろう?たとえ寝坊しかけたとしても占いが始まる頃には死に物狂いで起き出して是が非でも見るんだよ、このおは朝バカは」


そして更に「まあ、緑間にとっては命に関わることらしいから本当に必死なんだろうな、最早呪いだろう?」と俺が八重に言おうとすると緑間が寝起きでかすかすな声で「うるさいのだよ赤司ィ!聞こえんだろう!!」と抗議しやがるものだから最後まで口にすることはできなかった。おい、ふざるなこの占いバカ。俺と八重の会話を邪魔するな、コロされたいのか。


『寝坊しかける度にこんなおもしれーことになんのか』
「あんな勢いで走ってきたからな、寝ていた誰かを踏んでなきゃいいが」


そういえば襖側、つまり一番出口近くで寝ていたのは思い出してみれば黄瀬だった気がする。なかんずく俺や紫原は緑間の朝の様態を理解しているし青峰や黒子も去年の合宿で一度目撃しているからな、みんな何も言わずとも緑間よりも奥側の布団を選んだが今年から入ったため黄瀬はこのことは知らないはずだ。誰か教えてやればいいのに誰も指摘してやらないのだから俺たちも本当に性格が悪い。まあ、普段朝練もめったに遅刻しない緑間が休日とはいえ必ずしも寝坊しかけるとは限らないわけだし、わざわざ指摘するまでもなかったとも言えるが。ま、正直みんなめんどくさかっただけだがな。


「ちょっとぉ!!寝てる人踏んづけていくってどういうことすか緑間っちー!!!」


そしてやはり涙目で駆け込んで来たのは着ぐるみ黄瀬だった。そしてバカみたいに真摯な表情でおは朝占いを熱心に見ている緑間に文句を言って辛辣にあしらわれた黄瀬がさらに泣きわめいた。こうかは ばつぐんだ!


「やはり被害が出たか」
『真太郎ェ……はあ、くだらん』
「うわああんー!慰めて上柿っちー!!」
『ちょ、抱きつくな涼太。今包丁持ってるんだぞバカ』


イラっ!おい、なに八重に抱きついているんだそんなに死にたいのか。よろしい、ならば戦争だ。


「…おい、黄瀬?」
「ひっ!すんまっせんした赤司っちー!!」
「俺も面倒なんだ、いい加減自分の立場を理解しろ」
「いっつも楽しんでいじめ吹っ掛けてくるくせによく言うっすよお!」
「何か言ったか?」


いえ何も!!と涙ちょちょ切れ状態で黄瀬が返すものだから、くすりと笑いがもれる。相変わらずバカだろお前。末の弟、か。俺は一人っ子だから本当に弟がいるならこんな感じなのだろうかとふと思って、思わず八重に目を向ける。


『兄弟ゲンカはあっちでやってよ、わたし朝ごはん作るから』
「上柿っち〜!!」
『…しゃねーなあ、』


ゆるやかに弧を描いた口元からそうこぼした八重は泣きじゃくる黄瀬の頬をそっと撫でた。穏やかな表情と、やさしい目尻から垣間見えるはやはり。


『ほらほら、あんたいくつよ、まったく』
「だってだってー!」
『泣くなよ、イケメンが台無しだぞ?』
「!!お、俺もう泣かないっすー!」


ああ、どうしてきみは。やはりこんなの、苦しいばかりだ。心の奥底に封印していた羨望も思慕も、いとも簡単にきみは溢れさせてしまうんだ。八重、きみは本当にずるい子だよ。時にきみがこうして垣間見せる愛のひとかけらを感じとる度、俺のきみをほしがる想いは増すばかり。やはり、俺は。


「黄瀬の頬を撫でるのは結構だが、八重」
『うん?なに、征十郎』
「お前それ、先ほどまで魚を捌いていた手だぞ」
『あ、やべ』


俺がそう指摘すると八重は特に気にするでもなくカラカラと笑う一方で、珍しく八重に甘やかされてゆるゆるだった黄瀬の表情は一気に青ざめていった。はは、ざまぁ見ろ。


「うわあん!!上柿っちのバカぁ!!」


案の定泣きながら洗面所へと走っていた黄瀬の黄色い背中(着ぐるみだからな)に小さく嘲笑を送った。


『また泣かしてもーた』
「八重」
『ん?』


――なあ、八重。やっぱり俺が今一番ほしいものはね、きみの、きみからの「愛」なんだ。


「…なんでもないよ」
『ええ?変な征十郎〜』


だけど、きみは知らないんだろう。きみの存在が、寂しい俺をどんなに救ったかということ。それをほんの少しもきみは理解していないね。


「ふふ、すまないね。では俺は着替えついでに他のやつらを起こしてくることにするよ」
『おう、了解〜』


――せめて八重だけは、俺は失いたくないんだ。


「くそお、ラッキーアイテムがァ!!」
『え、なんだったの真太郎?』


ふたりの会話を小耳に挟んで小さく笑いながらダイニングキッチンから出て、まだ残りの三人が寝ているだろう和室に向かった。そうしてふすまに指をかけて、ふと止まる。――ああ、バカだな俺も。失いたくないのは何も八重だけのはずがないだろう、もはや今更失えるわけがないのに。俺の、たったひとつの居場所。だけど、それでもみんないつかは離れて行くんだ。


「……花に嵐の、」


いつか失う苦しみを味わうくらいなら、いっそのこと自ら手放してしまおうかと、弱い心は苛む。ねえ、俺やみんなを救ってくれた八重、きみならこの言葉を前に一体何を思うのだろうか。


 「花に嵐のたとえもあるさ
 さよならだけが人生だ。」



長い瞬きののち、俺はふすまに手をかけ、そっと開いた。




"Home, sweet home" 10
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