▼染めの

「千加子」

奥方に遣いを頼まれた千加子は、赤司家邸宅から徒歩十分の菓子屋千歳堂に赴いていた。千歳堂は赤司家馴染みの店であり先代の頃より贔屓にしている店。当代の奥方はここのカステラを大いに好んでいた。また千加子にとっても、九つの頃より五年もの間通いつめた馴染みの店であった。奥方お気に入りのカステラを携えた帰路、名を呼ばれ振り返ると、元服の年頃に差し掛かり美しさの中に精悍さを交ぜ合わすようになった赤司征十郎の姿があった。千加子は図らずも頬を薄紅に染めてはにかみを浮かべ御辞儀をする。

「征十郎さん」
「母さんの御遣いかな。一声掛けてくれれば僕も付き添えたのに」
「い、いえ。そんな滅相も御座いません。征十郎さんのお手を煩わすわけには……。それにお勉強中でいらっしゃったでしょう?お勉強のお邪魔など決してできません」
「殊勝なのは結構だが、僕としては勉学よりも君との時間の方が大切だよ。せっかくだから君と散歩したかったのに残念だ」
「……いえ、そんな」

赤司は頬を染めて困ったような表情を浮かべる千加子に微笑を向けながら、その赤く染まりし頬を掌でやさしく愛撫する。千加子は年頃になり小さく可憐な花のような他の誰よりもかわいらしい少女になった。少なくとも赤司にはそう映っていた。千加子は決して傾国の美女ではないし、むしろ美しさで言えば赤司本人の方が幾らか上かもしれない。だがそれでも赤司の目には国一番の女として映っていた。九つの頃より兄妹のように共に育った千加子を赤司は誰よりも何よりも慕わしく思っていたのである。赤司は未だ頬の赤い千加子の手を取ると、その手から荷を取り上げ空になった千加子の手を己の掌で包み込んだ。

「帰ろうか、千加子」
「はい……征十郎さん」

あの日と変わらぬ、されど少し大人びた微笑みがその日も赤司に向けられ、赤司はどうしようもないほどに心が満たされ癒されていくのを感じていた。



二人が帰宅すると父母が揃って二人の帰りを待ちわびていたらしく赤司は首を捻るが理由は思い当たることはなく疑問は残留する。まさか千加子を里に戻すのかと少しばかり最悪の疑念を持つが、すぐにそれはなかろうと疑惑を打ち消す。

千加子は赤司家では内実養女のように遇されていたが、黒子家の方は元々奉公のつもりで赤司家に預けていた。というのも千加子の実家である黒子家は西洋諸国との海運貿易で生計を立てているのだが、現当主である千加子の父の先代(千加子の祖父)の折に海難事故により大損害を被ってしまっており未だにその付けは清算できていない。当代はその埋め合わせに奔走しており、その経済状況は未だ芳しいとは言えない。その苦肉の策として赤司の家に末娘である千加子を泣く泣く奉公に上げることにしたというのが、赤司の知りうる限りのことである。

なお、何故赤司の家になのかというと、黒子家当代と赤司家当代が旧知の仲であることと、西洋の書籍を多く扱う赤司家の書店にとっては先方は重要な取引先であるということの、私情及び公の建前を同時に有していることから赤司の父である赤司家当代の方から直々に先方に申し入れたようだ。此処等あたりの事情を赤司が知ったのはごく最近のことなのだが、とはいえ赤司本人は父の裁量に今では大いに感謝していることは言うまでもない。

「お帰り。征十郎はまた千加子さんの後を追い掛けて行ったのかい。お前は相も変わらず千加子さん一筋だね」
「お帰りなさい、お二人とも!千加子さん、御遣いどうも有難う。征十郎さん、貴方また千加子さんを追っかけていらっしゃるのねぇ。結構ですこと」
「あ……只今戻りました。旦那様、奥方様」
「只今戻りました、父さん、母さん。勿論ですよ、僕は幾つになろうと諦めませんからね。それと、母さん。いい加減、僕に内緒で千加子に御遣いを頼むのはやめて頂けませんか。解っているくせに酷い人ですね」
「あら。解っているからやっているのよ?」

にっこりと妖艶な微笑みを浮かべる奥方に赤司はため息を吐き、当代は苦笑、千加子は恐縮のあまり赤面した。若き頃には深紅の薔薇に喩えられたことのある奥方の美しさは嫡男が元服の年頃に差し掛かりても衰えることを知らず、むしろ増すばかりに艶やかな魅力を纏いて微笑む。赤司はどちらかといえば父に似ているが、挑戦的につり上がった猫の様な英気溢れる瞳は間違いなく母似であった。今も挑戦的な視線で赤司を見据えており、赤司は再びため息を吐くことで鬱憤を晴らそうと試みた。

「それで、お二人揃って一体全体どうなさったのですか」
「ああ、そうだった。まず千加子さん、お里から手紙が届いていたよ。こちらを先に渡しておこう」
「あっ!有難う御座います!」

実家からの手紙は定期的に届く。しかしいつもその手は千加子の双子の兄テツヤによるもので、方々を飛び回る父母からの文は奉公に上がった時からほとんどもらっていない。昨年までは兄のものと共に祖母のものも絶えずあったが、残念ながら祖母は昨年に肺を患い亡くなってしまったので今では実家との定期的なやり取りはほとんど兄テツヤとの間だけであった。しかし、当代の手から直々に受け渡されたものはどうやら兄だけでなく父母からの文もあるらしい。千加子は嬉しく思いつつも少しばかり不安に駆られる。まさか悪い報せではと。

「悪い報せではないだろうから安心していいよ。それより二人とも、いつまでも突っ立ってないでお座りなさい。大事な話があるから」

何やらただならぬ事態に赤司と千加子は互いに顔を見合せた。が、全く想像がつかず二人は何も言うこともなくとにかく指示に従い着座した。当代と奥方はにっこりと、いやにんまりと笑いて思わぬことを告げた。

「二人とも、将来一緒になる気はないか」
「むしろその気しかありませんが」
「えっ!……えっ?」

思わぬ発言に千加子は呆然として、また何故か是の回答を瞬時に即答した赤司の様態に更に呆然とし狼狽した。果たして今、旦那様に自分は一体何を問われたのか。将来?一緒に?誰が?……私?誰と?……征十郎さん?いやいや、おかしいではありませぬか。自分は卑しき下女である。旦那様と父が旧知の仲であることを差し引いても、自分の身分はあくまで商家の娘。対し征十郎さんの身分は士族、更に母君は華族の出であり、普通ならば手の届かぬ尊いお方。いや、身分や外聞などはこの際問題ではない。征十郎さんは私には勿体無いくらいのとてもとても素敵な美丈夫だ。本来であれば……自分などがお慕い申し上げることさえ許されないお方だろう。それなのに……これは一体どういうことか。千加子が首を傾げ逡巡している間にも赤司らはどんどん話を進めていく。

「はあ、やはり言うと思ったが。さすが私の愚息だな」
「それはそれは。どう致しまして」
「あら、お父上は貴方を誉めてなどいなくってよ、征十郎さん。それにしてもその頑固さは一体誰に似たのかしらねー」
「勿論貴女でしょうね、母さん」
「まあ」

にやりと同じような表情で見合う奥方と赤司に千加子は恐縮のあまりに僅かに震える。これはどういう状況なのだろうかと思考するも混乱のあまり冷静に考えを巡らすことすらままならない。そもそも前々から疑問に思っていた。自分は下女として迎え入れられたはずで、実家からもゆめゆめそのつもりでと確かに念押しされて送られてきた。が、来てみたらどうだろう。多大なる緊張と不安を抱えてはいたものの初対面ではなんとか愛想よくご挨拶し、この五年間誠心誠意赤司家の方々にお仕え申し上げ、不敬なども決してなかったと思う、思いたい。自分自身疎まれているとは到底思い難いほどによくしてくれた。

よく、してもらいすぎているくらいだ。下女のはずなのに何故か昼間は赤司家援助の元で高等女学校に通わせていただいているという謎の現状もどう考えてもおかしい。それだけではない。こちらに来てから初めの頃、同じ下働きの人たちから「千加子様」と何故か様付けで呼ばれていたこともあった。さすがに様付けはおかしいと主張し、相手方の譲歩の結果「千加子さん」と呼ばれるようにはなったが、それでも自分よりも幾つも年上の、下手をすれば両親よりも年上の人たちからさん付けで呼ばれるというのもなかなかの恐縮ものだ。そもそも同じ下働きの自分に何故様付けで呼び掛けて来たのか今でも甚だ疑問である。

随分前から常々疑問に思っていたが、下女の身である自らが当代や奥方に本心を問えるわけもなく。そしてついには赤司家の嫡男と婚姻?なんて恐れ多いのか!もはや千加子には何が何だかとんと分からぬ。そんな茫然自失としている千加子の横でまさか赤司が満足気に笑っていることなど彼女は気付きようはずもなかった。

「千加子さん」
「は、はいっ!旦那様!!」
「まあ、あくまでこれはまだ提案の段階だから征十郎とよくよく話し合うといい。私たちは反対はしないし、むしろ薦めたいくらいだが。それに実は君のご実家にも了承の回答を貰ってあるんだ。つまり、あとは当人次第というわけなんだが如何だろうか」
「……は、い?」

むしろ薦めたい?実家が了承した?当人次第?旦那様は一体何を仰っているのだろうか。全くもって千加子の脳では許容できぬ大きな話であった。双子の兄テツヤにだけは文の中でこっそりと己の秘めたる心を打ち明けたことがあった。だが自分の気持ちが恐れ多い叶う道理のないものだと千加子自身認めていたからこそ、ずっとずっと秘めてきた、この先も秘めるつもりである想いのはずだった。いつか赤司が然るべきご令嬢を娶る日が来ようとも、決してこの慕わしい想いを打ち明けることはせず、ただ赤司の幸せを願い一心にお仕え申し上げよう、と心に決めていたというのに。

「まあ、千加子さんの説得はあとは征十郎に任せるとして」
「それは有難いですね。僕なりに最善を尽くしましょう」
「あら、やはり貴方って人は千加子さんのことしかやる気を出さないわね。もっと野心家にならなくてはいけないわ。まあ、頑張って頂戴ね」
「お任せを、母さん」

相変わらず同じ顔で笑う母子に苦笑を漏らす当代であった。あまりにお三方がいつも通りなため、もしや騙されたのではと思い当たるが瞬時にまさかそんな方々ではないと千加子は愚考を打ち消す。だからこそ一向に事態を咀嚼できず困惑したままなのだが。

「それともう一つ。千加子さん、郷里には双子の兄君がいらっしゃったね」
「へ?……は、はい、兄テツヤがいます」
「実はそのテツヤさんも来年から書生としてうちで預かることになったんだ。征十郎と同じ中学に編入してもらうから、征十郎も是非仲良くするように」
「勿論です」
「どうやら殊に文学を好んでいらっしゃるようだね。征十郎とも気が合うだろう」
「そうですか、それは楽しみですね」

なんと兄のテツヤまで!と赤司家の御厚意に身をうち震わせ千加子は再び呆然とすばかり。ただそれと同じくして感動までもが千加子の身体中を駆け巡った。兄が、此方に?数年もの間会えずにいる故郷の兄を思う。生まれてから九つの春まで片時も離れることのなかった兄が。千加子は感動のあまり涙が溢れそうになるがすんでのところで堪え、万感の思いを込めてやさしく微笑する赤司家の人々に深く深くお辞儀をして感謝の意を表した。


彼女を愛した記憶


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