▼初花

赤司征十郎、数え年九つの春の時節。黒子千加子は赤司家の下働きとして赤司家嫡男の征十郎と出逢った。庭木の一本の染井吉野がちょうど散り時であり、その淡紅色の花弁が庭一面を斑模様の絨毯のように覆い尽くしていたのが印象深い。赤司はその日いつになく不機嫌で朝から飽くことなく眉間にしわを寄せていた。

「まあ、征十郎さん。そんなに不機嫌で一体どうされたというの。今日は黒子さんの所のお嬢さんがいらっしゃるのですよ」
「母さん、ぼくは別に不機嫌ではありません」
「いけない子ね。貴方がそんな言い回しをするのは決まって腹の虫が治まらないときで相違いなくってよ」
「……ぼくが、その女の子と上手くいくと思うのですか」
「勿論よ。あの子はきっと貴方を好いてくれるわ」

母の微笑みは、庭に落つる薄紅の花弁のように、しゃなりと彼の胸中に落とし込まれてゆく。幼い赤司は何を紡げばよいか判断がままならず、母の発言に沈黙でとにかく抵抗した。そんなことはありえない、あり得るはずがない。彼は小さく自嘲する。己の迸る才気と、それを象徴するような赤い瞳が周囲にどう受け取られているかということを、彼はもっとずっと幼い頃から認めていた。自分の存在が異質であることを自覚もしていたし、また自分に対する世間の評も否定することもできず受け入れていた。

元々は代々続く武士の家だった赤司家は、維新後西洋の書物を多く取り扱う書店として一代にして財を築き上げ、今では一介の書生から一国を担う政治家・思想家諸氏から利用される大店へと相成っていた。また元々は武士の家筋から父の身分は士族、母は下位とは言え維新後華族を称することを許された家の出である。

身分、後ろ楯共に不足なし。容貌は美しく、学問ばかりではなくあらゆる分野の才に富んだ赤司を世間が良くも悪くも奇異の目線を遣ったことは想像に足る。一部の者はそんな赤司を余すことなく賞賛せしめたが、多くの者が瞳の炎をたぎらせる赤司を畏怖した。赤司は常に異質な者として扱われた。そんな神童赤司の異質なまでの才気と共に、通常人にはあらざる炎を宿した赤い瞳を畏怖した者たちはこぞって彼をこう呼び忌避した。

――畏ろしき鬼の子、と。

「この度はありがたいお話をありがとうございます。黒子千加子と申します」

緊張、不安を抱きながら懸命に挨拶を口にした少女に両親は温かい労いの言葉をかける。彼女が、先ほど母が不可思議な予言をした件の娘だと赤司は何の感慨もなく諒解した。名目上は下働きとして遣られて来た娘だが、恐らく父母は下女として扱いはしないのだろうと思った。そういう人たちである。またそれだけではない。赤司の記憶が正しければ黒子とは父が大学時代に一の親友であった同輩の名字であったはずである。

「千加子さん。こちらは我が家の一人息子の征十郎。ほら、征十郎さん、口を真一文字に結んでないで千加子さんにお愛想よくご挨拶なさい」
「……赤司征十郎、九つです」
「黒子千加子です、わたしも九つです。どうぞよろしくお願い申し上げます!」

お愛想の悪い自分を母は咎め、父は苦笑するばかりだったが、そんな赤司を気に留めることなく千加子は赤司ににこやかに笑いかけた。赤司は嘲笑を返す。そんな、そんな清純な笑みを両親以外には向けられたことはかつて一度たりとてない。平時、世間の人々は赤司に対して好悪の情を持たない。それは赤司が良くも悪くも異質で特異なためであった。世間の人々というものは“神童”あるいは“鬼の子”である赤司を賞賛し崇拝するか、畏怖し忌避するかの二極何れかであった。それは人知れず幼い赤司を傷付け、諦念すら抱かせていることを、無情無配慮な世間の人々は知りようはずもない。

「おまえには一つ言っておかねばならないことがある」
「はい、なんでございましょう。征十郎さま」

一通りの挨拶のあと、無責任な父母によって大仰にも赤司は家の案内という大儀に任じられた。拒否する言葉を持ち合わせない赤司は言われるままに千加子を連れ出し適当に案内していたが、頃合いを見計らい庭の桜の下で赤司は漸く重い口を開く。絶えずやわらかい笑みを浮かべる娘に幾ばくか歯噛みする。

「おまえがぼくを怖がるのは勝手だ、またぼくの方は慣れているので気を遣う必要もない。遠慮なく避けてくれて構わない。が、一つだけ遵守してもらいたいのだが、是非それをぼくの両親には悟られないように気を配ってもらいたい。ぼくの望みは、ただ、それだけだ」

千加子は予想だにしなかった言葉に思考が固まり返事に窮する。笑みが困ったような類いに反転するのも構わず、赤司はちりちりと燃える身内の炎を隠し、散りゆく桜花に見蕩れていた。それは溢れるようにこぼれ落ちやがて渇いた土へいくつもいくつも還ってゆく。儚いその様を視界に入れて数瞬、おおよそ子どもらしからぬ怜悧かつ剣呑な視線を自身と同じ年頃の少女に向ける。春風は赤司の赤い瞳を誘うようにして吹き抜け、唯一の防御壁であった赤司の長い前髪をかき上げる。炎が外気に晒されて目の前の少女のビードロのような瞳とかち合った。

「……きれい」

小さな呟きが赤司の耳をつんざく。小さなそれは何故か特別な響きを伴い赤司の耳にはっきりとした音として届いた。沈黙、その間にも二人の頭上からはいくつもの花弁が落ちては土へと還っていく。

「……あっ。すみません、失礼をば。えっと……わたしは、旦那様と奥方様には気付かれぬように、ということでしたでしょうか?」
「そうだ……それだけ」
「ただ、あの……どうしてわたしは征十郎さまを、怖がることになるのですか……?」

赤司征十郎はこの時生まれてこの方最大の驚愕と呆然を覚える。余裕綽々、沈着冷静、慇懃無礼を地でゆく彼にしては不覚とも呼ぶべきほどに唖然としたのである。

「……千加子、といったな」
「はい、そうです」
「この目の色、まるで曼珠沙華、あるいは血でもなんでもいい。真っ赤な、げに恐ろしき忌み色だろう。この目を見た者は誰でも異質さに耐え兼ね畏怖する、ぼくの持って生まれた業そのものさ」
「……」
「――人はぼくを鬼の子と呼ぶ」

世間の人々とそれだけ一線を画されるだけの理由を確かに赤司は持っていた。溢れんばかりの才気だけが理由ではない、彼の炎もまた理由であった。いやもはやそれは理由という枠には収まらない、赤司の炎はむしろ赤司が世間の人々から異質扱いされることの集約としての象徴、具現であると言えるかもしれなかった。神童、鬼の子、如何様に称されようとそれは赤司の及ばない範囲内でのことで、赤司にはどうすることもできないし、またどうしようもできないことに人知れず傷付いてきたという弱さや孤独さえも、赤司の及ばぬどうすることもできないことであった。いつしかそれらの異称は赤司を異端せしめるだけでなく、幼い赤司にどうしようもない孤独を背負わせていることもまた、世間の人々は知りようはずもなく、ただ無責任に幼い“鬼の子”を冷たい世間に晒し上げるだけである。

そんな悲劇を一蹴するかのように、素知らぬ顔で千加子は花がほころぶような笑みで赤司に笑いかけたのであった。

「え、っと、……わたしは田舎者ですしあまり賢くはないのでそういったことは……あまりよくわかりません。でも、わたしはきれいだと思います。とても、きれいな色だと思います。やさしくてあたたかい炎のような赤い色、わたしの好きな色です」

瞬間、赤司の炎は勢いを増す。胸を焦がすような余情が赤司の小さな身体を駆け巡る。熱き血潮が巡るかのような感覚は、やがて生まれ落ちた日の深雪色の頬を、自身を象徴するその色に一瞬にして染め上げた。思考は止まったまま、やはり唖然としたまま赤司は目の前の少女だけを見つめた。こんな、こんな笑顔を、ぼくは生まれてこの方両親以外に向けられたことはない。忌み嫌われ畏怖され続け、自分自身も抉り取ってしまいたいほど疎んでいたこの目、この色を。この子は、果たしてなんと称したというのだろう。ぼくは、鬼の――。そこまで巡った思考は突然途切れた。千加子は赤司の手を取りて、再度微笑みかけるやいなや、斯く告げにけり。

「わたし、だいすきです!」

だいすき、と。それは瞳の色を指していたことは歴然であったが、炎の子赤司征十郎はこの時確かに、やわらかい笑みを浮かべる少女黒子千加子に恋に落ちていた。それは自身を守るために氷つかせていた心が雪解けを迎えた瞬間だった。初めて、父母以外の誰かに赦され受け入れてもらったような感覚は、虚勢を張り続けてきた幼い赤司には染み渡るように心を満たした。生まれて初めて、赤司は自分のために泣きたくなった。と、同時に生まれて初めて誰かのために笑いたくなった。ただ、このかわいらしい花の少女を赤司は心の底からいとしいと、――だいすきだと、そう思った。

その言葉を何度伝えても言い足らない、きっと一生を尽くして伝えてもそれでも足らない、再び生まれ変わりまた何度でも何度でも伝えたくなる、とそんな予感さえしている自分があまりに滑稽で、むず痒くもあって、赤司は自分でも気付かぬ内にやわらかな笑みを浮かべて千加子の手を握っていた。


彼女は美しかった


131106