小ねた
2013/09/10 22:43

「それならもう、なまえちゃんの好きにしたらええ」

そうして、今吉様はあの日笑ってくださった。




「なまえ」

誰かに呼ばれて目を覚ます。瞼をゆっくりと上げ、眠気眼に入ってきたのは相変わらずクールというか無表情な母の姿。

「なんですか」
「いい加減起きなさい」
「……まだ5時半ですが」
「今日は私もお父さんも出かけるって言ったでしょう」
「え、もう出るの…って早すぎじゃないですか」
「言ってなかったかしら」

言ってねーよと思いつつ、洗面台で顔を洗う。すやすやと気持ちよさそうにまだ眠っている我が子の寝顔を尻目に服を着替えた。

「じゃ、もう行くから。なにかやらかしたりしないように」
「はーい……って、ちょっと何私の娘をさりげなく誘拐していってるんですか。下ろして、ていうか返して」
「誘拐だなんて失礼ね。せっかくだから連れてくって言ったじゃない」
「聞いてませんが」
「あら、言ってなかったかしら」

だから言ってねーよ。すっとぼけな母にため息をつく。大体やっと首が座ってきたばかりの赤ん坊を一体どこに連れて行く気だったのか。つーかどこに行く気だったのか。

「……まあ、いいかしら。じゃ、私たち行くから、あんたもゆっくりしときな」
「ゆっくりしといではこっちのセリフなんだけど」
「火事・事故には気を付けなさいね」
「承知してますとも」

こくりとうなずいて、出掛けていった母、そして無口な父がいなくなってとても静かになった。秋の涼しい朝が気持ちよかった。寝起きで腕に力がうまく入らなくて、ベビーベッドに娘を寝かせようとしたが離そうとすると泣き出してしまったのでとりあえずおんぶ紐で固定し背中におぶって庭の水やりをすることにした。

青く滲む空がとても美しい。……退職することになったときも、妊娠が発覚したときも、この土地に来たときも、結局両親からは何も言われなかった。……いや、言えなかったのかもしれない。

――……なまえ。くれぐれも、あんたの意に沿わないような結果にはしないように。

あの日、私の髪を結いながら母はただそれだけを忠告した。……正直母は私に興味がないのだと思っていた。母だけでなく父も。昔から仕事人間でどちらか手が空いた方が保育園に迎えに来てくれて、家では性格故に寡黙だった両親に淡々と世話されていたように思う。私自身もどちらかというと大人しく無口な子だった。就学直前くらいの頃に征十郎様に引き合わされてからはずっとお屋敷で暮らしいた。それ以降は両親よりも征十郎様との会話の方が多かった。

私を養育してくれたのは確かに両親だったが、少し特殊な環境であったこともありあまり両親とは親しい関係であるとは言えなかった。京都の学校へ転校することになったときもノータッチだったくらいである。とはいえ別に恨んだりとかは全くしていないし特別寂しかったわけではない。何よりも自分の仕事を大切している両親を尊敬しているからである。

……ただ、私がどういう立場にあるかを両親はずっと知っていたはずで、でもそれでも何も言わないということは私には興味がないのだと早合点していたけれど、だがたぶんそうではなかったように思う。私が自分の決断を話した日、寡黙な両親はただ「……わかった」と言ったきり頭を下げる私の頭を交互に撫でてくれたのだ。

そこからの行動は早かった。旦那様に話を通し(思いの外風当たりは悪くなかった)、そして両親共々そうそうに退職を申し出た。使用人頭の田中さんは唇をきゅっと結んだあと、丁寧な労いの言葉と共に長年働いた両親、また転校までした私に対しても手厚すぎるほどの退職金を手配してくださった。家族で話し合った結果、母の実家近くにあった母の資産であった(初めて知ったが母は地元ではそこそこのお嬢様だった)この家に越すことになった。本当は自分の責任なのですぐにでも働きたかったが、両親の希望もあり順当にいけばあと数ヶ月で卒業できたため大学は最後まで頑張り卒業した。それから卒業後にこちらに正式に引っ越した。田舎で不便も多いが柵も醜聞もなく静かに暮らしている。私はこの暮らしもなかなか気に入っていた。

「……涼しいー…」

隣家まで徒歩5分、一番最寄りのスーパーやコンビニまで車で15分、大きな駅までは20分もかかる、超田舎。ほとんど東京と京都くらいしか知らなかった私からしてみればめちゃくちゃ新鮮である一方、不馴れなことがたくさんあったた。しかしそうもいってられなかった。お腹はどんどん大きくなるし、父親のいない子である。両親がいなければ到底乗りきれなかった。本当に感謝している。生まれた子は女の子だったが、体が小さかったため一時は少し危うい状況ではあったが今はもうほとんど心配はないらしい。……本当は妊娠しないようにいつも細心の注意を払っていたつもりだった。私自身の方は学生で高額なピルを買うのは厳しかったこともあるがそれだけでなく身体的理由で服用ができなかったので避妊については征十郎様に頼るしかなかった。それでも受け入れている私にも勿論責任はあるわけで、ただ中高生の間に一度も妊娠しなかったのは幸いだった。今回初めて妊娠が発覚し、私は思った。愛する人との子を堕胎するのは身を切られるほどにつらい、と。最初はとても戸惑った。あと数ヶ月で卒業、卒論もほとんど終わっていたとはいえ私は当時まだ大学生で、両親共々職を失ったばかりである。最悪のタイミングに思えたが……それでも本心では涙が出るくらいうれしかった。そして両親と今後の方針を徹底的に話し合い、私は太陽が燦々と輝く真夏日に娘を出産した。私の背ですやすやと眠る愛し子。――……わたくしは、征十郎様を心からお慕い申し上げていました。

今でも、時々夢に見る。征十郎様がわたくしを求めてくださった時の夢を。だからいつか、迎えに来てくださるのではないかと。そんな、うそみたいな夢を。

「――……なまえ」


――おれは、……ぼくはどうしたら自由になれるんだろうね。


懐かしくもいとおしい声に呼ばれて、わたくしはいつかのように立ち尽くす。目線を滑らせて、そしてわたくしは驚愕に目を見開く。そこには、ご成婚を明日に控えているはずの征十郎が何故か目の前に立ち竦んでおりました。そんなわたくしに何を言うでもなく征十郎様は開けたままだった我が家の形ばかりの小さな門をくぐり、庭で水やりをしていたわたくしの元へゆっくりと近付いてきました。その切なげな瞳が意味するのは一体なんでしょうか。少しお痩せになられているのは何故でしょう。征十郎様、どうしてそんな悲しい顔をしているのですか。

「……ずっと、お前に会いたかったんだ」

そんな言葉を遮るように背中で寝ていたはずの娘が大きな声で泣き出した。娘が泣いているのに、征十郎様が目の前にいらっしゃるのに…………わたしはただ何もできずに立ち竦むしかできずにいた。


赤司くんと元メイド


手にしていたら如雨露の水が、こぼれ落ちる。