小ねた
2013/08/31 15:49

――……ねぇ、なまえ

小さな手のひらが、なんだかいとしかった。ただ、それだけだった。

――おれは、……ぼくはどうしたら自由になれるんだろうね。

ねぇ、征十郎様。わたくしは……わたしはどうしたらあなたのお傍にいられたのでしょうね。




「……以上が理由、やろなぁ。……どや?ショックかいな、なまえちゃん?」
「………」

俯くわたくしをじわじわと今吉様の視線が苛みます。膝の上で握った拳が痛かったです。ゆっくりと開いて、それから力を抜きました。無意識のうちに込めていた肩の力も抜いて、全身を脱力感が覆いました。……予想を大きくはずしていたわけではない。が、自惚れる気がそうそう起きなかった。ただそれだけのことだった。

「……お言葉ですが、今吉様」

躊躇うことなく立ち上がり、それからゆっくりと自分の席から離れる。そしてまた、今吉様の近くに座す。それから三つ指をつきました。

「誠に申し訳ございませんが、このお話を辞退させていただきたく存じます」
「……ほぅ?」

頭の上で今吉様が嘲笑を漏らす。

「なんやよう分かってへんみたいやから忠告したるけど、この話は今吉からあんたんとこのお偉いさんの赤司総裁に直々に申し込んだ正式な話やで。……つまり、断るっちゅうのがどういうことか分からんわけないやろ?」
「勿論でございます」
「いいや、そんなんは詭弁や」
「!」

強く肩を掴まれ無理矢理に顔を上げさせられました。顎を掴まれて、至近距離で今吉様が微笑みます。わたくしはただ痛みに眉を寄せるばかりでございます。

「……実はなまえちゃんこと調べさせてもらったわ。おたく、父母共に赤司家使用人やろ。ここまで言うて意味分からんとか言うてくれなや。……あんま失望させんとってほしいねん」

わたくし、そしてわたくしの父母は共に赤司家の使用人であり、今の旦那様の先代の代から両親は長年お仕えして参りました。わたくしとて御恩も敬愛も忘れてはおりません。

「今の当主の機嫌損ねるようなことしたらあんたら一家は残念ながら破滅してまうで」

……今日こちらに参るとき、わたくしは母からくれぐれもと言付かっていました。髪を結い、着物を着付けてくれた母を思う。母も、父も、殊更に仕事熱心でお勤め第一な人たちだったので、幼少期はあまり一緒にはいられなかったように思う。それでも私は幸福だったし、やがて私はこの身すべてを捧げても、どうかと願うお方に出会うことができた。こんなにも慕わしい気持ちを抱いたのはただお一人で、それは今もなお、そしてこの先も決して変わることはない、と。ただ、瞳の中でそんなことを思う。色んな柵と重責の渦にたった一人身を投じ、人知れず苦悩し続けていたあの方を想う。

「承知していますよ。――……それでも、わたくしは」

わたくしの唯一のお方。

「ご無礼をどうぞお許しくださいませ。わたくしは、あなたと婚姻することは決してできません。それはわたくしの信条と、そしてわたくしにとって最も大切な約束を違えることになるからでございます」

征十郎様、征十郎様。どうか、どうかお幸せになってくださいね。ずっと、わたくしはただそれだけを願っております。そしていつか、自由になって、心から微笑んでくださいね。

「わたくしはどんなお方のものにもなるわけには参りません。――……わたくしのすべては征十郎様のものでございます」

にやり、と今吉様が微笑む。

「……そこまで言うなら退いたっても構わん。でもなあ、そんな殊勝なことを言うんも別にあかんことあらへんけど、せぇでもな」

わたくしを掴む手に力を込めなさるので、思わず表情を歪める。世の習いではわたくしは本心を隠し、この方の言う通りになさるのが正解なのでございましょう。それでもわたくしはあの方を裏切ることは決してできないのです。……幼い震える手のひらも、いつも憂える横顔も、己の信念の元に京都へと向かわれた日の眼差しも、わたくしを見つめる瞳も、わたくしを求める手の燃えるような熱さも、征十郎様のすべてを忘れることなどできるわけがないのでございます。――ただ許されるのなら、この先あの方の孤独に寄り添うのは私でありたかった。

「健気に慕うのは結構やけど、あん男は最高かつ最上の策略家やで。私情で動くような男やあらへん……それはもう哀れなくらいにな。――世の中、そんな甘ったるくはできとらんのや。意味分かるよな、なまえちゃん?」





その日、頷いたわたくしはすべてをなくした。私の縁談をお知りになり問い質されたあとに、最後に征十郎様にかき抱かれて以来、征十郎様とお会いすることは一切なかった。征十郎様の祈るようなお言葉が今もなお、耳に残って離れない。

縁談を正式にお断り申し上げた後、すぐさま両親と共に職を辞した………両親は何も言いませんでした。それから数ヶ月経った三月、なんとか大学を卒業した私は東京を離れ、今は両親と共に母の実家がある遠く離れたこの地で静かに暮らしている。もう征十郎様にお会いすることも二度とないのだろうな。


――もうすぐ、征十郎様がお嬢様とご成婚する十月である。あの震える手を思い出しながら、私は目を閉じてむずがる我が子をあやし、その赤い髪を撫でて寝かし付けた。



赤司くんと元メイド


やはり、わたくしは愛人にはなれませんでした。