小ねた
2013/08/25 08:55

「なまえ」
「はい、征十郎様」
「きみは今日からぼくのものだからね」
「……?はい」
「誓えるか?」
「はい、なまえはずっとずっと征十郎様だけのものです」

握った小さな手と寂しさを滲ませた真剣な瞳。揺らめくその弱さをわたくしはただ愛したかったのでございます。




僕が望むのは元より、ただひとつ。

「まあ、征十郎さんではありませんか」

父さん直々に指示されて、我がグループ下にある某有名ホテルに視察に赴いた、その日。予想外にも一応婚約者である女に声を掛けられた。些か面倒だと思いつつもとりあえず外面用の顔をする。振り返った僕に、女は楽しそうな笑みで応える。

「おや、貴女ですか。驚きました、何故こちらに?」
「全くの偶然です。実はこちらで地方の友人と会う約束をしていたのです。……ああ、一応婚約者として弁解しておきますが、勿論相手の方は女性ですわ」
「……勿論、僕は貴女を疑ってなどおりませんよ、ええ」

別にどうでもいい。結婚後はともかく婚前にこの女がどうしようが僕には関係がないし、興味もない。外聞と体面さえ配慮して秘密裏に事に及ぶのなら僕にとってはどうでもいいことだ。別に、僕が愛しているのはこの女ではない。

「ふふ、ずいぶんご機嫌ななめなようですわね。……ああ、そういえば本日は私の愚兄と、……あなたの愛しのなまえさんとがお見合い……失礼、お食事をなさるんでしたわね、征十郎さん?」
「………」

……この女は、大変面白い女である。以前なまえに言った言葉に嘘はない。ただ、同時に大変性格の悪い女だ。ニコニコと上品にかつ無害そうに微笑みながら相手を煽るのが実に上手い、それが面白いと思った理由ではあるが……僕はそれでも歯噛みした。

「相変わらず性格……失礼、意地の悪い方ですね。愛しの?婚約者たる貴女の前でまさか頷くとでも?大体、使用人である彼女と僕とを見て一体いつそのように思われたのか、こちらとしては甚だ疑問ですが」
「あら、まあ。征十郎さんも往生際の悪いお方ですわね、まさか私が気付かないとでも思いまして?ああ、先に申しておきますが、私は別に貴方が愛人をお持ちになろうが一切を黙認致しますから、どうぞお気になさらくて結構ですよ」
「またずいぶんと大仰なことをおっしゃいますね、残念ながら僕は彼女を愛人にするつもりはありませんよ」
「……ふふ?」

笑みを深める婚約者にため息を吐きたくなるが、なんとか堪える。

「それもそうですわね。何せ我が兄がなまえさんとおそらくご結婚なさいますもの。血縁はなくとも事実上お二人は義姉弟になりますものね。そうはいってもやはり外聞は大切ですからね、貴方がそんな愚を犯すとは、私思っておりませんわ」

結婚、義姉弟。なんだそれは、吐き気がする。数日前、義務的に食事に誘われた日、この女からなまえの縁談を知らされた時の己の無様さを思う。……本当に嫌な女。あの、兄に負けず劣らず嫌な性格だ。この女が一体いつなまえの存在に気付いたのか、そして何故なまえのことを兄に流したのか。この兄妹の考えていることなど、推測するのは容易い。だから、先手を打たねば。

「ええ、勿論。僕はそんなに愚かではありませんよ。失礼、仕事で来ておりますので、また改めて次の機会にでも……じっくりと」

女の返事を聞く前に踵を返す。……僕が心の底から何か望んだのは、きっとあの一度きり。その望みさえも、今は。

「……なんだったかな」

ふと、高校生の頃に一度だけ口にしたセリフが過る。威圧と牽制のためだけに用いた言葉であったけど、それはなお心情としての意味内容は違えているつもりはない。……ああ、そうそう、思い出した。

「……僕に逆らう奴は親でも、」


赤司くんとメイド 6