魅惑の香り


朝、下駄箱にその手紙が入っていたのは、最初は何かの間違いだと思った。校内外から人気のある蜂須賀ちゃんの下駄箱は私の隣だったからだ。けれど薄水色の封筒の裏にはきれいな字で私の名前が書いてあって、私は不思議に思って封筒の封を切った。そこにはまたきれいな字で放課後体育館裏に来るようにと、そして江雪左文字と少し癖のある字で署名がしてあった。江雪さんとは、あの一件以来会っていない。私は嫌な予感を消すように、手紙を鞄の中に差し込んだ。

***

「よく、来てくれましたね」

放課後、体育館裏に行くと、粗末なベンチにハンカチを敷いて江雪さんが座っていた。私を見つけると腰を上げて、ハンカチをさっと取る。私だったら、土を払ってそのまま座ってしまうだろう。その優雅さに、ちょっとびっくりしながら私は立ち上がった江雪さんに向き直る。

「どうしたんですか、手紙で……」

「貴女に話があります」

なんだろう、話って。思い当たることは沢山ありすぎて、正直嫌な予感しかしない。ふと頭に浮かんだのは、宗三ちゃんとの関係について咎められるのではないかということだった。私の妹に変な遊びを教えないでください、なんて言われたら反論の余地もない。いつも部屋に来るのは宗三ちゃんだけど、私に非がない訳ではない訳で。江雪さんが、ゆっくりと口を開く。

「貴女のことが、ずっと気になってたんです。ずっと、です」

「はい?」

「ですから、その、お付き合いがしたいと思いまして」

……お付き合い?てっきり怒られると思った私は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして江雪さんを眺めた。江雪さんはすこし居心地悪そうに、ちらと私を窺い、しかし私の顔をしっかりと見ると、一歩私に近づく。

「お付き合いをしましょう」

「……お付き合い、というのは」

「恋人同士になりましょう、ということです」

そんな、恋人同士なんて。江雪さんといえば、成績優秀眉目秀麗才色兼備の聡明なお方で。そんなおいそれと私などが恋人になんかなっていい訳がなくて。場違いというか、身分違いというか、とにかくお断りする理由しかない。

「……お、お気持ちは、その……」

「はい」

「う、嬉しい……ですけど……」

「では、決まりですね」

「へ?」

江雪さんは私の手を取ると、両手でぎゅっと握った。そして私の目を見て、自信を込めて控えめに微笑む。

「メールアドレスを交換しましょう」

「や、その、恋人っていうのは……」

「恋人なら、メールアドレスくらい知っていて当然です」

「そうじゃなくて、その」

有無を言わせぬ顔。私は江雪さんの携帯を受け取ると、メールアドレスを打ち込むことになった。恋人とか恋人じゃないとか抜きにしても、メールアドレスくらい教えても良い訳だし。あとでちゃんとメールでお断りしても良い訳だしね。私が打ち込み終わると、江雪さんは本当に満足げな顔で、ではまたメールで、なんて言って去っていった。私はしばらく、ただ呆然とその場に立ち尽くした。

***

その日の夜、お風呂を終えて寝間着のままノートをまとめ直していたら、メールが届いた。件名が『江雪です』だったので、江雪さんが早速メールを送ってくれたんだと思って開いた。

『早速小夜に貴女のことを紹介しました』

文末にピースの絵文字がついたメールに思わず笑ってしまう。江雪さん、絵文字なんか使うんだな。けれど、小夜ちゃんに話してしまうなんて些か気が早すぎないか。そこまで考えて、宗三ちゃんのことが思い当たる。宗三ちゃん、仮とはいえ私と江雪さんが恋人になったと知ったらどう思うだろうか。宗三ちゃんと私の関係はなんなのだろうかと考え込んだ。ーー恋人なら、メールアドレスくらい知っていて当然です。江雪さんの言葉が頭をよぎる。私は宗三ちゃんのメールアドレスすら知らないんだ。私達はなんなのだろうか。身体を合わせるだけの仲、なのだろうか。そうだとして、宗三ちゃんは私が江雪さんであっても無くても、誰かとお付き合いしたらどう思うだろうか。もし宗三ちゃんが誰かとお付き合いしていたら、私はどう思うべきなのだろうか。想像してみても何も分からないのに、ちくり、と胸の奥が痛くなる。江雪さんは、宗三ちゃんは、私は。江雪さんに返事を打たなくてはいけないのに、何を打ったらいいのか全く分からなかった。私は携帯に向かって、ウンウン唸る。何分経ったのか、やっと打ち込んだ言葉は『ごめんなさい』の、一言だった。何に対してのごめんなさいなのだろうか。本当にごめんなさいを言うべきなのは江雪さんなのだろうか。何もかもが分からなかった。考えて、考えて、何を考えたら良いのかも分からなくて、私はなんだか眠くなってしまう。瞼が下がってくる。駄目だ、眠い、眠いよ。少しだけ寝ようと思ってベットに横になる。ああ、少しだけ、少しだけ。起きたらきっと頭がすっきりしてるから、そうしたら返事を打とう。
ーーその夜は宗三ちゃんは来なかった。目覚めると朝で、遅刻ぎりぎりの時間。私はバタバタと学校に向かった。メールの返事のことは、もうすっかり忘れていた。
その日は英語の単語テストがあって、昼ご飯はいつも通り清光ちゃんと安定ちゃんととった。清光ちゃんがネイルを新しくしたことを自慢していたので、私もやってみようかな、と漏らしたら今度やってあげる!なんて言われて何色がいいか、とかそういう話をした。昼を終えて教室の自分の席に戻ると、隣の宗三ちゃんが私のことをじっと見つめていた。いつもは授業中だってちらりとしか私を窺わないのに、なんだか不思議な感じ。私も宗三ちゃんの目を見つめなおして、でも二人とも何も言わなかった。休み時間終了のチャイムが鳴って、私は席に座って前を向いた。
学校が終わって寮へ帰ってから、やっと私はメールのことを思い出して、けれどここまで遅くなってしまっているので、せめて今日中に、と思ってメールを打ちだした。もやもやした気持ちはまだ残るけれど、やっぱりこんな気持ちのまま江雪さんとお付き合いする訳にはいかないし、ちゃんとお断りしよう。途中でご飯やお風呂をはさみながら、私はやっとの思いでメールを書き上げた。不安はあったけれど、これが多分私が書ける精一杯なのだと自分に言い聞かせる。願うような気持ちで、送信ボタンを押す。頭を使って知恵熱が出そうだな、なんて思って携帯を持ったままベットに寝転がったところで、静かにドアノブを捻る音がした。







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