暖かな水



ゆらゆらと、瞼の外から光が溢れてくる。何かにつられるように、それまでの倦怠感にも似た何かから瞳が解放される。目を開くと、次いで鼻先が解放される。緩んだ口許に力が戻る。ふと雨の音がすることに気づく。雲の向こうから注ぐ爽やかな光を感じる。そうして、やっと目覚めを自覚する。顔が目覚めると、身体の末端が目覚め、頭もだんだんはっきりしてくる。今日は目覚めいい方の日だと思ったところで、目の前に眠る影に気がついた。

「……?」

隣で眠る彼女の肩は素肌のままで、穏やかな顔つきは緩みきっている。外から聞こえる雨の音に混じる、安らかな寝息。可愛らしい寝顔を見ると、昨夜の記憶が戻ってくる。昨日はあのまま、彼女の部屋で飽くまで彼女を啼かせて啼かせて、そのまま眠ってしまったのだった。情事の激しさを物語るように、彼女は一切服を纏っていない。そして僕は乱れることなく服を着ている。なんだかんだ、こうして一緒に朝を迎えることは初めてだった。いつもは彼女が気を失った後、後片付けをして僕は部屋に戻っていたから。だから、こうして明るい所で熟睡した寝顔を見るのも初めて。瞼を縁取る睫毛、円らな頬、可愛らしい鼻、ぷっくりとした唇。教室で見る寝顔とは違う、あどけない安心しきった顔。

「……、」

世界で一番無防備な顔。なんとなく、いかがわしい欲が登ってきて自嘲した。これでは姉様に色狂いと言われても仕方がないのかもしれない。昨夜の彼女の顔が頭の中にチラついて、ぞわ、ぞわと清純な心が乱されていく。その時だった。

「……ん……」

ぷつり、と蕾が花開くように、その瞼が開かれる。瞳はまだ眠りの淵を彷徨っているようで、ぼんやりしながら、くりりくりりと動き、だんだん力が入っていくのがわかる。ある時やっと、それは僕を見た。

「そ……」

「なまえ」

「そうざちゃん、だ……?」

「おはようございます」

僕の名前を呟いた唇はもじもじと蠢いて、彼女は一度瞬きをする。そして今度は疑問を宿した瞳が僕を捉えた。そして唇は小さく息を吸って、僕の言葉に応える。

「おは、よ、」

囁くみたいな、とろけきった声だった。堪らなくなった僕は彼女の肩口に頬を寄せる。すーっと息を吸い込むと、彼女の体液の匂いがする。凄く、濃い、彼女の匂い。僕を病みつきにする、熱く濃厚な、けれど落ち着く匂い。

「……私、あのまま寝、」

「ええ……僕も寝てしまったようです」

彼女の手が恐々、僕の後頭部を撫でたので、僕は少しどきりとした。触れ合う場所全部が幸福感で満たされていく。影を潜めていた眠りの淵が、またゆらゆらと迫ってくる。このまま二度寝したい。雨音が眠気を誘い、僕は瞼の力を抜く。耳許で彼女の声がした。

「シャワー、浴びたいなぁ」

そう呟いた割に、彼女は微睡むように目を瞑った。僕の頭を優しく摩りながら、まるで子供を寝かしつけるように、つられて眠気に襲われる母のように、穏やかな顔をする。そして深い息に混じる、細やかな声。

「雨、降ってるね……」

雨音のざわめきが遠くで聞こえる。ふと顔を上げると、僕を見つめる彼女と目が合った。なんとなく、手持ち無沙汰になった僕は彼女の頬にぺたりと触れる。するとまるで、何か期待したように彼女が目を閉じるのと、僕が声を発したのはほぼ同時だった。

「シャワー、浴びに行きます?」

「……うん」

ねぇ、僕の見間違いでないなら、貴女は今僕からのキス、待ってましたよね。そんなことを聞く暇もなく、彼女はむくりと起き上がって伸びをした。散らばった服をかき集めて、せめても部屋から出られる格好をする。僕もベットからもぞもぞと這い出る。時計を盗み見ると時間は6時。少し早い、日曜の朝。シャワー室はもう空いているはずだ。

「じゃあ、いこうか、」

「ええ」

***

一度僕の部屋に寄ってから、二人とも着替えを持ってシャワー室に向かった。脱衣所に荷物を置いて、簡単なパーテーションとカーテンで区切られたシャワー室に入る。流石日曜の早朝と言った感じで、誰一人使ってる人はいない。彼女が入ってカーテンを閉める前に、僕はその個室に潜り込んだ。

「ん?宗三ちゃん?ほかのとこ空いてるよ」

「なまえ、僕が洗ってあげます」

「え、いや、いい……つめたっ」

コックを捻ると、冷たい水が少し彼女にかかり、次いで生暖かいお湯が降り注ぐ。お湯は二人を濡らして、心地よく肌を叩いた。程よく身体が暖まったところでコックを閉める。備え付けのボディーソープを手にとって、彼女の肩に塗りつけた。

「あ、つめたいっ」

「最初だけです。そのままじっとしてて」

「い、いいよ、自分でできる……」

「いいんですよ」

ぬるりと手を滑らせて、後ろから彼女を撫で回す。泡立ったボディーソープで、手に調子が出てくる。肩、腕、背中、脇腹を通って、手を前に回す。胸を下から持ち上げるように動かす。

「わ、や、はずかし……」

「いつももっとすごいことしてるのに?」

「そんなこと、言わないで……っ」

恥ずかしそうに顔を手で覆う彼女の耳許に口を寄せて、きっと僕は今意地の悪い顔をしてる。彼女の胸を両手で包んで、揉むように力を抜く。

「ねぇ、さっき僕からのキス、待ってましたよね」

「え、なに」

「キスして欲しかったんですか?」

「……」

無言のまま顔を伏せる彼女の胸からは、はち切れそうなほど大きな音が漏れている。抱き寄せて、掻き抱いてしまいたい。影を潜めていたいかがわしい欲が頭を擡げ、彼女の肩口に唇を寄せた、その時だった。

「……!」

カーテンの外からカラン、と物音がした。すぐに僕は身体を彼女から離して、彼女はカーテンを開ける。カーテンの向こうで、盥を足元に落とした青緑髪の少女がこちらを向いて立っていた。

「……あ、邪魔したかな、ごめんね」

「あ、え、あなたは……?」

「ふふ、でもいいこと聞いちゃったな。君ってあのなまえでしょ?」

「……あえて聞きますけど、どこから聞いていたんですか?にっかり」

にっかり、と呼ばれる彼女は僕らと同じくらいに大人びた外見はしているけれど、一つ下の下級生だ。おかしなあだ名は学校の七不思議と何か関係があるようだが、僕はよく知らない。にっかりは、そのあだ名の通りにっかりと笑って、僕らを眺める。

「いつももっと、すごいことしてるんだね?」

「それは……!」

「キス、待ってたんだね?」

「ち、違う……」

「全部君が否定するんだねぇ。そこの宗三が言ってたことだよ」

僕は黙って、にやにや笑うにっかりを眺めていた。僕とにっかりの目線が錯交する。僕は隣にいる彼女の肩を抱いて、見せつけるように、それはそれはにっかりと笑ってみせた。

「本当ならなんです?言いふらしますか?あなた確か新聞部でしょう?」

「言いふらすって言ったらどうするんだい?」

「別にどうもしません。こんなゴシップじみた話題、誰も興味無いですからね」

「それはどうかなぁ」

彼女が腕の中で身じろぎをする。身体がだんだん冷えてきて、このままでは風邪をひいてしまいそう。僕はわざとらしくため息を吐いて、目線を逸らした。

「あなたにだって、大切な人ができたらわかりますよ、にっかり。」

ああ、本当、いい格好しいな僕は、シャワーを使ってなまえと僕の身体についた泡と汗を流すと、本当に鮮やかに笑ってなまえと一緒にシャワー室を後にした。にっかりはさっきの笑顔はどこへやら、ぽかんとした顔で僕らを見送った。
脱衣所で彼女の身体をタオルで包むと、彼女はやんわりと僕の手を振り払った。少し怒った顔で、かけられたタオルで身体を拭きながら呟く。

「やんなくて、いいから……自分でできるから……」

「僕がやりたいんです」

「だめ、」

「なんでですか?」

「誰か、見てるかもしれないでしょ……」

「なまえは、見られて困るんですか?」

彼女の歪んだ顔が、僕の加虐心を駆り立てた。彼女はムッとした顔で僕を睨むと、素早く身体を拭いた。拭きながら、ぽつりと言葉を漏らす。

「困る。江雪さんにも迷惑かかっちゃう」

「……姉様が関係なかったらいいんですか?」

「……そうじゃなくて……」

手を止めた彼女が、じっと僕の顔を窺う。何か言いたげに口籠ると、ふっと目線を逸らした。俯きながら、しかし確実にその言葉は僕の耳に届く。

「私、すぐ、そういう気持ち、に、なっちゃう、から……」

彼女の顔はみるみる赤くなり、僕は呆然とそれを眺めていた。永遠に感じるほど長い一瞬、何も考えられず、心臓が二拍ときめき、彼女の目線が、ゆっくり僕の目を捉える。

「い、今の、なし!」

泣きそうな顔をした彼女に、僕は感動を覚えた。そんな可愛いことを言われれば、僕がそういう気持ちになってしまうだろうが。怖いほど甘い響きに、何も言えなかった。彼女は恥ずかしそうに後ろを向いて着替え始める。

「宗三ちゃん、風邪ひくよ……」

「ねぇ、部屋に戻ったら」

「だめ、絶対だめ!今日私掃除しなきゃなの」

「……」

「ほら、にっかりちゃん来るよ」

僕もしぶしぶ着替えて、シャワー室の前で僕らは別れた。僕も掃除をしなくてはならないけれど、今日はできないかもしれない。彼女の残り香のついたタオルをこっそり握りしめた。










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