惑いの蝶


今日は金曜日。そして明日は土曜日。こんなに待ち遠しい土曜日があっただろうか。少しでも魅力的に見える服をクローゼットから引っ張り出して、あれでもない、これでもないと鏡の前に立つ。らしくない、なんて言われてしまえばそれまでだが、それくらい私は明日が楽しみで仕方がないのだ。

「え?遊園地、ですか?」

「そうです、今週末、土曜日に」

「ええと……予定はないです」

「では、一緒に」

そんな風にしてなまえを誘ったのは3日前のこと。彼女は恥ずかしそうに頷くものだから少し意地悪が言いたくなって、耳許まで屈んで、デートです、なんて呟いてみせる。その時の彼女の、可愛らしさったら。思い出しても頬が緩む。

「これと、これ……」

大花柄の水色のワンピースに、繊細な白のボレロを選んで合わせてみる。これならば清楚で、彼女の隣を歩くのに相応しい。やっと服を決めた私は、散らばった服を片付ける。頭の中は明日のことでいっぱいで、部屋の入り口に立つ人影には気がつかなかった。

「随分楽しそうですね」

「……宗三」

見るとニヤついた宗三が散らばった服を避けて近づいてきて、そのままベットに腰掛けた。私は気にせず服をしまう。

「どうしたんです?姉様らしくないですよ」

「別にいいでしょう」

「そんなに張り切って、もしかしてなまえとお出かけですか?」

「……」

「図星ですね」

相変わらず嬉しそうににたにた笑う宗三を一睨みして、手元の服をたたみ直す。そのまま目線を逸らしたまま、彼女に話しかけた。

「なにしに来たんですか」

「姉の部屋に来るのに理由が必要ですか?」

「いつ私達がそこまで親密になりましたか?」

「それもそうですねぇ」

たたみ終わった服を重ねて引き出しの中へしまい、ジャケット類を拾い集める。宗三は動き回る私に向かって話しながら、脚を組み替えた。

「理由が必要なら作りましょうか。姉様、久しぶりにセックスしません?」

「…………」

ジャケットを拾い集め終わった所で宗三を睨む。此の期に及んでそんな事を言い出すなんて呆れて声も出ない。前は求められて応じたこともあったが、今はそういう時ではないし、そもそも想い人がいる状態で肌を合わせられるような人間だと思われているのかと思うとさらに呆れた。

「ぷっ、あははっ!冗談ですよ。姉様をそんな無神経な人だと思ってません」

「…………はぁ」

ジャケットをハンガーにかけて、部屋がさっぱり綺麗になる。椅子にかけて溜息をついた私を宗三は笑いながら見上げた。私も彼女をちらりと見下す。

「……姉様にいいこと、教えてあげます」

「…………なんですか」

また下らないことを言ったら追い出してしまおう。今は楽しみな気分に浸りたい。こんな下らない妹の冗談に付き合ってる暇など無いのだ。半ばげんなりしながら言葉の続きを聞く私を、宗三の言葉が引っ叩いた。

「なまえってね、クリトリスを触ってあげるとすっごく気持ち良さそうに啼くんです」

何も言えなかった。頭を鈍器で殴られたような衝撃が去ると、ふつふつと疑問と怒りが湧いてくる。その言葉が何を意味しているのか、興奮した頭ではわからなかった。唯一分かる、確信にも似た疑問を目の前の妹にぶつける。

「寝た、のですか、なまえと……」

「……」

「宗三!」

「姉様だって居たでしょう、三人で寝たあの時のことですよ。いやだなぁ」

「……っ」

「じゃ、僕はこれで。楽しんできてくださいね」

一瞬の、意味有り気な笑みは何を示すのか。私が激昂する前に、宗三は言い訳をした。へらりと笑ったその顔の真意は汲み取れない。言いようのない怒りと疑心は、宗三が去ったあとも私を苛み、その夜は眠れなかった。

***

「江雪さん、寝不足ですか?」

「いえ……少しだけ」

欠伸をした私を、なまえは気遣う。めかしこんで来たであろう上品で可愛らしい上着と、カットソーとスカートと、そしてそれに不釣り合いな程可愛らしい紫色のネコ耳は、このテーマパークのイメージキャラクターを模したものだ。恥ずかしがるなまえを説き伏せて、私が彼女にプレゼントしたネコ耳。思った通り可愛くて、ニヤける顔を咳払いでごまかした。

「じゃあ、ジェットコースターはやめましょうか」

「乗りたいなら、乗っても」

「だって、さっきコーヒーカップ付き合ってもらいましたし」

「では、メリーゴーランドに行きましょう」

「え?意外にメルヘンですね」

「木馬に跨る貴女が見たいです」

しかし、楽しい筈の遊園地に、昨日の宗三の顔がチラチラ浮かぶ。彼女のはにかむ顔を見ても、心から可愛らしいと思えない。一晩考えたが、やはり宗三と彼女は夜を共にしていると思う。別に彼女を信じていない訳ではないが、そうでなければ宗三があんな事を私に言うはずがない。あれは、言わば牽制なのだ。宗三は昔から自分が欲しいものは、例え誰かのものでも手を替え品を替え手に入れる癖があった。それは物でも人でも例外ではなく、唯一手を出さなかったのは小夜のおやつくらいだ。

「ふふ、メリーゴーランドって、意外に楽しいものですね。江雪さん、満足しました?」

「ええ、まぁ……あ、あそこで何かやってますよ」

「あ、本当だ。きぐるみ大道芸ですかね、見に行きましょう!」

いや、そんな事を考えるのはよして。今はこの楽しい時間を目一杯楽しまなくては。世界で一人きりのなまえを、独り占めできる特別な時間なのだから。あわよくば、距離を……なんて考えが頭をよぎるが、それは今日の清楚な大花柄のワンピースに似合わないので頭の端から追いやった。

***

「あ、きれーい。まだ低いのに、学校見えますよ」

夕暮れの観覧車の中で、彼女の嬉しそうな声が響いた。私は普段使わない所の気を使ったのか、それとも寝ていないからなのか、少しだけ疲れが出てきているようだ。外を眺める彼女を眺めて、静かにその声を聞いていた。

「今日は、その、楽しかったです」

「私も楽しかったです、なまえ」

そこで会話は途切れてしまう。夕暮れが彼女の頬を照らしている。何か、余計な事を考えそうで。何か、話していたくて。私の口が、勝手に言葉を漏らしてしまう。それは一番触れてはいけないものだった。

「宗三、とは、どういう関係なんですか」

「…………え?」

「あ、いえ、その、忘れてください」

また、沈黙が流れる。今度の沈黙は先程とは打って変わって、重苦しいものだった。それは一体、どういう表情なのか。彼女は唖然とした顔で目線を彷徨わせた。そして俯き気味に、向かい合ってゴンドラの椅子に座る。

「…………わ、私は……宗三ちゃんは、お、お友達だと思ってます」

「私は、というのは」

「う、まく、説明出来ないですけど。宗三ちゃんは違うかも、というか、私も、違うんですけど」

「…………」

「あ、その、深い意味はないです!ただその、清光ちゃんとか安定ちゃんとかみたいな仲良しじゃないんですけど……」

でも、仲良しなのかなぁ。彼女のその言葉は、私に確信を与えるには十分すぎた。彼女は言葉を知らないから、一所懸命私が傷つかない言葉を選んで説明をする。しかし嘘はつけない。そういう所が私が彼女を好きな所であり、また今現在私を傷付ける所でもあった。つまり、それは、そういうことなのだ。

「あ、いや、その!江雪さん、そろそろてっぺんで……んっ」

彼女の言葉を止めるように、私はその唇を奪った。逃げられないように頭を押さえつけて、舌を差し込んで、思いきり官能的に。狭いゴンドラの中に、唾液が絡まる音がこだまする。べろべろと口腔を撫でて、彼女を食べ散らかすみたいに貪ると、彼女は我慢出来ないと言うように切なげな甘い声を漏らしだした。息を吸うタイミングで目を開くと、その顔は虚ろでいやらしくて。その顔は宗三が仕込んだものなのかだとか、その顔を宗三にも見せてるのだろうかと思うと、私の中で対抗心のようなものが燃え上がった。

「こ、せつ、さ……んんっ、だめ……っ」

「集中して、ん……ください」

口付けだけでとろとろになった表情は、あの夜を彷彿とさせる。ゴンドラがてっぺんから降りる間、ねっとりとただただ口付けを続けた。もうゴンドラが随分下の方へ下がる頃には、彼女はびくりびくりと身体を震わせて、何か別の事を期待しているようにも見える。降りる時に係員に怪しまれないかというほど、彼女の顔は蕩けていた。ふらふらとゴンドラの椅子から立ち上がる彼女の手を引いて支えてやる。覚束ない足元で、なんとか観覧車から降りた。そのまま手を繋いで近くのベンチを見つけて座らせた。

「な、んで、キス……」

「……何故でしょうか」

繋いだままの手が、ぎゅっと握られる。こんな形で手を握るんじゃなかった。口付けも、するんじゃなかった。ただ頭に血が上って目の前の彼女に我慢ができなくなって。ただ、きっと宗三に無理矢理に抱かれている彼女が、私の事を拒める筈がないと思ったのだ。

「私は貴女と恋人同士になりたいのです」

「はい……」

「恋人同士ですから、お友達より仲良しになるべきです」

「……それは、」

「宗三より仲良しに、私と貴女はなるべきです」

「……っ、江雪さん……だめ、です……」

彼女のとろんとした顔は、だめという言葉の意味も消してしまう。愛しい人が欲しがっているなら、甘美な密事をあげたくなる。いくら口で否定しても彼女は素直で、清純故に淫靡な欲望を隠せない。このまま、ここで、暴き散らしてやりたい。

「……行きますよ」

「江雪さん!だめです、わ、私、帰ります!」

「帰るって、寮にでしょう」

「そ、ですけど、」

「では、貴女の部屋でいいです」

「全然、よ、くないです……っ」

ぐいと手を引っ張って、遊園地の出口へ向かう。生憎帰る場所である寮は建物こそ違うが同じ敷地内なので、私たちの方向は一緒だった。手を繋いだまま、電車に乗って、帰路につく。途中何度か彼女が私の名前を呼んだが、もう心は決めているのだと分からせるように私は知らんぷりをした。そうして、たまに思い出したように否定の言葉を吐く彼女を引きずるようにして、寮の彼女の部屋に向かう。一つ予想外だったのは、扉の前に誰かが座り込んでいたこと。

「おや、随分早かったですね」

「宗三……」

にやりと笑った宗三の、挑発的な瞳に映る空の色には、夜の帳がもう近くまで下りてきていた。







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