雫の感覚


彼女と姉様の噂は瞬く間に学園じゅうに広がった。朝、二人は一緒に登校しているのは誰が見ても明らかなことであり、そこから派生した噂は、やれなまえが姉様に惚れただとか、二人がお付き合いを始めただとか、根も葉もない噂ばかりだった。しかしまぁ、清々しい程に、姉様がなまえにぞっこんだ、なんていう逆の噂は聞かないので、その噂が姉様やなまえから裏付けを受けたものではないと僕は知っていて安心していたのだが。なまえは相変わらず僕の愛撫で夜な夜な啼いた。そして翌朝には何もなかったように姉様と登校した。それでいいのだ。僕となまえの時間を、姉様なんかに変えさせない。
放課後の屋上は、人気が無くて好きだ。ベンチに座っていても眼下には部活動に励む生徒の姿が見える。ここにいると、神様になった気がするのだ。僕は神様。生きることから切り離された世界で、怠惰を貪って地上を見下している。寝たい時に眠り、食べたい時に食し、睦み合いたい時に寝たい相手とセックスをする。そうして僕は偉い、だからせこせこと生きる人間を見下してしまえるのだ。ああ、本当にそうだったら、なんて愉快なんだろう。いや本当にそうなのかもしれないな、ここに来た時は僕は神様になるのだ。ああ、愉快だな。思わず大声を出して笑いそうになった僕を、屋上の入り口の錆びかかった扉が開く音が止めた。

「あ、宗三ちゃん」

振り返るとなまえがいた。彼女は僕と同じように帰り仕度を済ませたまま、そのまま屋上に来たようだった。入り口でぼんやりと僕を窺っているので、僕は隣を勧める。彼女はぱたぱたと駆けてくると、僕の座っていたベンチの端に、僕と距離をとって座った。暫く無言のまま二人で、校庭の生徒たちを眺めていた。ソフトボール部の下級生である鯰尾が、見事なストレートをバッテリーの骨喰のミットに叩き込む。三振バッターアウトで、攻守が交代する。

「宗三ちゃん」

「……はい」

沈黙を破ったのは彼女だった。彼女は僕を呼ぶと、僕の顔をじ、と見つめた。僕が見つめ返すと、彼女は少し口籠り、少し真剣な顔持ちになった。二人の間を爽やかな風がサーッと吹き抜ける。

「……」

「……姉様の取り巻きに、なにかされたりとかしました?」

「え?」

彼女は僕の呟きに一瞬驚くと、両手をぶんぶんと前で振って見せた。僕はバレないように安堵の息を吐く。彼女は本当に無邪気に、へらりと笑った。

「いや、全然、ね、江雪さんはすごい、良くしてくれるの」

「よく、ですか?」

「ほら、私なんか頭も良くないし、最初の頃はね、思ってたよ。ほら、話のレベルが違うんじゃないかって」

でも全然そんなことないんだよ。江雪さんはね、私のレベルに合わせて話してくれるし、それが疲れたりとか、気を遣ったりとかしないの。ーーそんな彼女の言葉に、僕は少しだけショックを受けていた。姉様と彼女が一緒にいることに、どこか無理があって欲しいと僕は知らぬ間に願っていたのだ。だから、その言葉の後で彼女が真顔に戻って、少し俯いたのを見逃さなかった。

「……本当に、江雪さんは、優しいの……」

「……だから、ですか?」

「え……?」

「どうして、そんな顔するんです?」

その質問をしたその時には、もう彼女は微塵も笑っていなかった。僕の顔を見て、口をもぐもぐさせて、何かを言い淀んでいるようだ。どこかで誰かの甲高い応援の声が聞こえた。その声に後押しされるように、彼女は呟く。

「……私さ、よく、いるじゃない。清光ちゃんと、安定ちゃんと」

「ええ、そうですね」

「……まぁ、聞かれたんだよね。毎朝、江雪さんと学校、行ってるから。当たり前だけどさ、江雪さんと何かあったの、て」

「……ええ、」

彼女はその後でやっぱり俯いて、やっぱり何か言いづらそうにしていた。僕がお尻をずらして一歩、彼女に近づくと、彼女もずいと僕に近づいた。そして、僕の顔をぼんやりと眺め、ぽつり、呟いた。

「ひとを好きになるって、どういうことだろう」

「…………え、」

「……私、誰かを好きになろうとなんて、したことないんだなって。だから、わからないんだよね、好きって、どういうことか」

「……それは」

僕はこの時、何て言おうとしたんだろうか。それは、の後、僕として貴女にどう説明したんだろうか。好きになる、どういう言葉で説明するんだろうか、どうやって。しかし彼女は、僕の言葉を遮った。

「……宗三ちゃんに聞くのも、おかしいのかもしれないね」

「……」

「ああ、神様がいたら、教えてくれるかな」

彼女はさっきまでの雰囲気が嘘だったみたいに、へらへらと笑った。真面目な話をしてしまったことが気恥ずかしいみたいなその微笑みに、僕の胸の奥がチクリと痛む。ほら、さっき言った。僕はここに来た時は神様になるのだ。だから、神様としてなまえに教えてあげなくちゃ、好きとは何か、を。

「本当ごめんね!忘れて、こんな……」

「……僕はね、ありますよ。ひとを好きになったこと」

「……そう、なの?」

僕は空を眺めながら、今まで好きになったひとを思い浮かべた。空は本当に青々としていて、雲はぽっかりと白く浮かんでいた。掴めそうなほど白い雲、風で消えてしまいそうなほど薄い雲。全て同じく空に浮かんでいる。

「ひとを好きになることは、やろうとしてするものではないんだと、僕は思ってます」

「……うん、」

「でも、きっと、世の中には、好きになろうとして好きになる人もいます。僕は、まだそれができないけど」

「……うん」

「なまえだって、自然に誰かが嫌いになったり、するでしょう?」

「……ああ、それはある、かな」

「それの逆なんですよ」

彼女を窺うと、彼女は真剣な眼差しで僕を眺めていた。僕が今まで好きになったひとを思い浮かべるのと同じように、彼女は今まで嫌いになったひとを思い浮かべたのかな。僕はまた彼女との距離を狭める。ベンチの真ん中に僕らは隣同士で腰掛けた。

「僕はね、貴女のこと、好きです」

「……」

「……貴女が僕のこと好きなのと同じくらい、好きですよ」

「それ、は……」

生まれて初めてするみたいな優しい、触れるだけのキスが、彼女の言葉の続きも、二人の時間も、全てを止めてしまった。見つめ合う目線で、彼女は確かに僕に何かを言ったのだ。僕らは、そうして、ほんの短いーー永遠に思う程長い時間見つめ合って、心の奥を見つめ合って、はた、と気がついたその時は、なんだか気恥ずかしくて二人で顔を逸らしてしまった。それが意味もわからず可笑しくて、二人で大笑いをした。まるでぎこちない初恋みたいに甘酸っぱかった。

「ねぇ、なまえ」

「なぁに、宗三ちゃん」

「一緒に帰りませんか?」

「……うん、」

鞄を持った僕らは、屋上を後にした。校門を出た辺りで僕が彼女の手を取ると、彼女は戸惑いながらも握り返してくれる。恋人同士のように絡んだ手と手が心地よく、僕はその感覚を忘れることはないだろうと思った。寮までそうして、手を繋いで歩いた。

***

寮の部屋についた後も、僕はなんだかふわふわしていた。熱い口付けならいつでもしてるのに、あんなに初心な口付けの方が頭に残るなんて不思議だ。目を閉じて僕を受け入れるなまえ、うすく目を開けて、何かを僕に訴えるなまえ。そのどれもが美しくて、僕の頭の中にこびりつく。あんなキスが出来たら、僕らは無敵なのに。なまえは僕のことが好きだろうか。僕だって自信があって、あんな事を言ったんじゃないのだ。ただ、そう、直感的に、あの時思ったのだ。僕が彼女をどれだけ好きかなんて、僕にもわからないけど、僕が彼女を好きなのと同じくらい、彼女が僕のことが好きならいいな、と。そう考えると、可笑しいくらい僕は臆病だ。この間は狡猾で残酷でいい、なんて思っていたのに、今は貴女に好かれたくて夢を見てる。柔らかくて甘い、あまりに都合の良すぎる夢を。こんなふうに貴女が欲しくなったのは初めてだった。いつも貴女は手を伸ばせばそこにいて、触れると淫らに乱れて僕を満たした。ああ、でも今だけは淫らになんか触れたくない。優しく抱き寄せて、囁きたい。

「ああ、僕は……」

まだ部活の時間も終わっていない寮の部屋は閑散としていて、僕の声は沈黙に吸い込まれて行った。僕は口から出た言葉を再度取り込むようにして、うっとりと息を吸った。言葉にすると、それは途端に本当のことになってしまうことを僕は知っていた。けれど、それでも、誰に言う訳でなく、僕は呟かずにはいられなかった。

「なまえが、好きです……」

泣きたいほど、好きだった。溢れてしまった想いが、苦しい胸の内が、全ての矛盾が、スーッと一本の糸になるように解けてゆく。記憶の中でなまえの全てが、キラキラ輝いていた。








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