03 【Ignis】
たっぷりベリーのフレンチトースト。
アネモーラが朝食用にと選んだそれは、食事を目的としているのか、もしくはデザートを目的としているのか、非常に議論の余地のある注文内容だとイグニスは思ったのだが、メニューを開いたアネモーラの目の輝きと、「美味しそう」という呟きを耳にしてしまっては、待ったを掛けることなど出来る筈が無かった。
斯くしてオーダーは伝えられた。イグニスはホットコーヒーを注文する。
「見てイグニス、足元が透けてるよ」
注文を受けたウェイターが立ち去るのを待ってから、アネモーラが床を指差した。つられてイグニスも目を落とす。一部分だけガラス張りになっている床の向こうは、成程、青い海だった。フロアだけでなくテーブルまでガラスで張られているので、食事を摂りながらでも青い海を堪能出来るという事なのだろう。リゾート地ならではの計らいだ。
「綺麗だね」
微笑みながらアネモーラは、ガラス越しの海を見つめている。海面からの照り返しは、ガラス越しであっても受けるようだ。波に砕かれた朝の光がプリズムめいて乱反射し、アネモーラの微笑を眩しく彩っている。まるで聖画に描かれた女神のような光景に、イグニスは感嘆の息を落とした。
「……綺麗になったな」
ぽつりと呟くと、その文脈の奇妙さに気付いたらしいアネモーラが目を上げた。不可思議そうにこちらを見てから、思い至ったように顔をしかめる。
「……またそういう恥ずかしいことを……」
「本当のことだ。久しぶりに会って、そう思った」
「……最後に会ってから二ヶ月も経ってないのに……」
「十分久しぶりだろう」
「……」
唸ったまま突っ伏してしまう。恥ずかしがっているのだ。昔はこう褒めると飛び上がる程に喜んでくれていたので、イグニスもつい癖のように言ってしまうのだが、いつからか――オルティシエの高校に進学した後から、だろうか。つまりはイグニスの手元を離れるようになってから、このような反応が増えるようになった。兄のような父のような気持ちで接してきたイグニスからすれば、寂しい事この上ない。イグニスにとって、アネモーラはいつまでも小さなお姫様なのだ。
そしてその姫君は、見る度に美しく成長していく。兄のようなイグニスがそう感嘆するのだから、世の男性たちが彼女を放っておく筈など無かった。
先の一件を思い出し、イグニスは眉間に皺を刻む。彼女が注目を集めると分かってはいても、不快感が募る。守れなかった口惜しさに苛立つ。
やはりアネモーラを“外”に出すべきではなかったのではないか――オルティシエへの留学をアネモーラが決意してから、幾度も幾度も自問した問いが再度現れてくる。アネモーラは心配する必要は無いと言い切るが、通っている学校は女学校であっても、その女学校を内包するオルティシエという街には有象無象の人間がいるのだ。それを思うと不安でならない。イグニスはノクティスの側付きであるので、無論不可能な事だとは承知しているが、許されるのならば常にアネモーラの身辺に控え、彼女の周囲に目を光らせておきたい程だった。
そうしていれば、先のような一件も未然に防げただろうに――。正体不明の男の姿を思い出したイグニスは、湧き上がる苛立ちを抑えるために手指を組んだ。改めて背筋を伸ばす。
「アネモーラ」
イグニスの声のトーンに気付いたのか、アネモーラは渋る様子もなく素直に顔を上げた。
「訊いてもいいだろうか」
伏せていた半身までも起こしたアネモーラは、少し黙ってから首を傾げた。
「…さっきの人のこと?」
「そうだ」
頷いてからイグニスは付け加える。
「もしも話し辛いようなら――」
「ううん、大丈夫」
遮るように答えるアネモーラの表情を、イグニスはつぶさに観察する。無理をしている様子はないか、感情を押し殺そうとしていないか――わずかでもそういった兆候が見られた場合は、話を切り上げるつもりだった。今後の対策と防犯のため、そして彼女の身に起こった事を把握するためにも、いつかは聞き出さなければならない事だが、今でなくとも構わない。現状、アネモーラはイグニスの庇護下にいるのだ。手の届く範囲に彼女が居てくれるのならば、イグニスの緊張はとりあえず緩和される。
「あのひと、昨日から嫌な感じだったんだ」
「昨日?」
そう、とアネモーラは頷いた。
観察の結果、アネモーラの表情や口調に差し当たっての違和感は無かった。強がっている素振りも見られない。平素と変わらぬ調子のアネモーラに、イグニスも話を促していく。
「会ったのは今日で二回目なの。一回目は昨日、ガーディナに到着してからすぐ、港で――」
「話しかけられたのか」
思わず先走って尋ねると、アネモーラは黙り込んだ。目が泳いでいる。まるで悪事を隠そうとする子供の反応だ。
「アネモーラ?」
やや強い語調で促すと、アネモーラは観念したように息を吐いた。
「話しかけたのは、私の方」
「……」
顔を覆って嘆くイグニスに、アネモーラは慌てて言葉を継ぐ。
「で、でもね、別に話しかけたくて話しかけたわけじゃなくてね、昨日こっちに着いた時点で港の様子がおかしかったから、どうしたのかなって思って、でも職員の人はみんな忙しそうで、だからその場にいた人に訊いてみただけで」
「だとしても」
幼少期から繰り返してきた言葉を、イグニスは再度、アネモーラに向かって真摯に説いた。
「知らない人と話をするな。話しかけられてもついて行くな。いつも言っているだろう。頼むから、立場を弁えてくれ」
「……だけど〜……」
反論したい事を山程抱えたような顔で、しかし一体どれから手を付ければ良いのか困り果てた様子で、結局アネモーラは閉口する。イグニスとしてもこれに乗じて様々な小言を並べ立ててしまいたかったのだが、それでは話が進まない。
「それで?」
先を促すと、やや不満そうな表情を見せながらも、アネモーラは口を開いた。
「さっきもあの人が言ってたけど、船が出てないのは本当。オルティシエの港で全部止められているみたい。私が乗ってきた船で最後だった――ていうことを、昨日、あの男の人に教えてもらったの」
「……」
男に対する不快さが顔に出てしまったのだろう。それをアネモーラはどう解釈したのか、慌てて言葉を付け足す。
「これは本当だよ。ホテルの人にも確認したから。嘘を言ってるわけじゃないみたい。――でも、その後に」
一旦言葉を切ったアネモーラは、改めてイグニスを注視した。疑問に思ったイグニスが尋ねる前に、アネモーラが嘆息を落とす。
「……イグニスたちはちゃんと警護隊のジャケット脱いでるんだね……」
ちゃんと、という言葉の意味をはかりかねながらも、イグニスは頷いた。
「ああ、王都の外であの恰好は悪目立ちするからな。それに、今日は気温も高い」
示し合わせた訳ではないが、最近ではイグニスのみならず、ノクティスたちもジャケットをオフにして旅をしている。やはり成人男性四人が全身黒ずくめの出で立ちで、加えて黒塗りの高級車を乗り回していると、どうしても人目を引いてしまう。別段隠す謂れも無いのだが、今回の旅程が非公式のものである事を考慮すると、人目は避けておく方が無難だ。
そうだよね、とどことなく沈んだ様子で、アネモーラは目を伏せる。
「わたしはね、昨日学校の制服のままでガーディナにまで来ちゃったの。着替える時間が惜しかったっていう、そんな理由なんだけど……。そうしたらあの男の人に、それファブラノヴァ女学院の制服だよね、きみお嬢様なんだ、きみを誘拐したら身代金たくさん貰えるのかなって……そう、言われて……」
「――」
あまりの言いぐさに、イグニスは絶句する他ない。それが初対面の異性――それも明らかに年下の女性に向かって言う事だろうか。いや年齢や性別は関係無い。脅すような言葉を口にし、相手の不安を煽るなど、そもそも人として許されない行為だ。端的に括る事は視野を狭窄するだろうが――イグニスは眼鏡のブリッジを押し上げる――あの男は頭がおかしい。
しかしそんなまともではない男に、女学院の名前が知られてしまった事はかなりの痛手だ。まさか遥々オルティシエにまで因縁を付けにくるとも思えないが――正気ではない男をこちらの常識で推し量る事は危険だ。何せ正気では無いのだから、次にどんな手を打ってくるか予測できない。今はアネモーラがイグニスの手元に居るから良いが、ノクティスの婚儀が終わるまでには何らかの対策を講じねばならないだろう。
「それに――」
「まだあるのか」
思わず驚くと、アネモーラ自身もうんざりしたような顔で頷いた。
「これはあの人の思想に因るのかもしれないけど――調印式について、不穏なことを口にしていて……」
「不穏なこと?」
「調印式が、無事に済まないんじゃないか、みたいなことを……」
イグニスは嘆息した。
「聞けば聞くほど、嫌な男だな」
「でしょう?」
同意を取れて勢い付いたのか、アネモーラが身を乗り出してくる。
「私も始めは普通の人だと思ってたんだけど、そういう嫌なことたくさん言われて……港のことを教えてもらった義理はあったんだけど、我慢できなくなって逃げちゃったんだ。でも追いかけてくる素振りはなかったし、その後もレストランやホテルの中では見かけなかったから、もうどこかに行っちゃったんだと思ってたら……」
先の一件を思い出したのだろう、アネモーラは急に苦い顔になると、それきり口を噤んでしまった。
「……今朝も、何か言われたのか?」
様子を見ながら促すと、アネモーラは目を逸らしたまま、浅く頷いた。重ねて「何を」と問い掛けようとしたイグニスより先に、明るい女性の声が降ってくる。
「お待たせいたしました。たっぷりベリーのフレンチトーストでございます」
注文していた料理だ。イグニスは一旦口を閉じる事にした。運ばれてきたフレンチトーストとホットコーヒーが、ウェイトレスの女性によって手際良く並べられていく。
アネモーラの目の前に置かれたプレートには、まさに名前通りの料理が盛り付けられていた。ふわふわに膨らんだフレンチトーストは卵色の小山を描いており、その頂上にはたっぷりのホイップクリームが乗せられている。色鮮やかなベリーたちは山の頂上から裾野へと豊富に散らばり、それを追いかけるように流れているベリーソースの赤も美しい。
後学のために観察していたプロの盛り付けから、ふと、そのプレートを前にしたアネモーラに目を移す。――目が輝いている。イグニスは口許を綻ばせた。苦い顔で黙り込んでしまうよりは、そちらの方がずっと良い。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
一礼したウェイトレスが立ち去るのを待ってから、アネモーラは早速目の前の小山にナイフを入れた。一口程の大きさに切り、それを頬張る。
「美味しい」
「良かったな」
如何にも幸せそうな顔で呟く所が少し可笑しい。唇だけで微笑いながら、イグニスも運ばれてきたコーヒーに口をつけた。
「あのね」
それまで小さな動物のようにせっせとフレンチトーストを口に運んでいたアネモーラが、不意に手を止めた。
「……名前を教えられたの」
瞬くイグニスに、アネモーラは顔を上げる。
「今朝、あの男の人から」
躊躇う素振りを見せながらも、意を決したようにアネモーラは言う。
「アーデン。――君の伴侶になる男の名前だよって」
はんりょ、という言葉を、イグニスは咄嗟に、意味のある文字列に変換する事が出来なかった。遅れてそれが「伴侶」という言葉である事を思い出す。
伴侶。共に連れ立つ者。連れ合い。仲間。
――配偶者。
思わずイグニスはテーブルを叩いて立ち上がっていた。突発的に声を荒げかけ、寸での所で思い留まる。驚愕に目を見開いたアネモーラの顔が視界に入ったのだ。
腹の底から駆け上がってきた熱いものを無理に呑み下して、イグニスは腰を下ろした。
「…すまない」
「ううん」
びっくりしたけど、と付け足してアネモーラは笑った。それから慰めるような調子で話す。
「大丈夫だよ、言われただけで何もされてないし。イグニスたちが来てくれたし。最近は、ああいうふうに声かけるものなのかもしれないし。運命を演出、みたいに」
空々しいくらいに明るく笑うアネモーラに、イグニスは苦しくなる。傷つける事は本意ではないし、無理をさせる事も本意ではない。いくら突然のセリフに驚いたからといって、アネモーラに気を遣わせてどうするというのだ。情けない。
「アネモーラ」
小首を傾げるアネモーラを安心させたい一心で、イグニスは口を開いた。
「あの男の発言を真に受ける必要はない」
わかってるよ、とアネモーラは苦笑するが、イグニスはまだ納得出来ない。更に言葉を重ねる。
「気に病む必要はない。気にする必要もない。全て根拠のない戯言だ」
「うんうん」
「何かあったにしても、オレたちが守る。オレがお前を守る。金輪際、あの男をお前には近づけさせない」
「ありがとう」
苦笑気味に微笑うアネモーラを見ていると、イグニスの心はどうしようもなくひりついてしまう。無理をさせているのではないかと不安になる。慰めて安心を与えたいが、イグニスは言葉に対してあまり器用ではない。的確な表現が思いつかず、いつも歯がゆい思いをしてしまう。それは今もそうだった。考え考え、イグニスは言葉を選ぶ。
「第一、あんな男、お前には似つかわしくない」
「…うん」
やや不審そうな表情を見せながらも、アネモーラは頷いた。
「……まぁ、わたしも、あの人のことは嫌いだけど……」
「だろう? あれはアネモーラの趣味ではないからな」
同意を得られたイグニスは、安堵のあまり饒舌になる。
「安心してくれ、オレはその辺りも考慮に入れて考えている」
「……う、うん?」
「小さな頃から大事に大事に大事にオレが育ててきたんだ。家柄や職業や年収はもちろん、人柄や将来性も重視し、厳選に厳選を重ねて――」
「……ごめん、あの、イグニスはさっきから何の話をしているの?」
イグニスは驚いてアネモーラを見た。伝わっていなかったのだろうか。
「アネモーラの夫はオレが選ぶ、という話をしているつもりだったんだが……」
「え――え!? そうなの!?」
目に見えて慌て始めるアネモーラに、イグニスはショックを受ける。
「……嫌なのか……」
「え!? あの、イグニスが選ぶっていうところが嫌なわけじゃなくて、その、突然言われたから、びっくりしちゃって」
「候補はもう見繕っているが、見るか?」
「えっと……。今はいい」
「そうか」
出しかけたスマートフォンを戻しながら、イグニスは港に目を向けた。騒々しい気配が近づいてくる。船の様子を見に行っていた三人が戻って来たのだろう。
「とにかく、アネモーラ、お前は何も心配しなくていい」
最後にそう言い含めると、アネモーラはどこか釈然としない表情ながらも頷いた。その表情についてイグニスが言及する前に、階段を上がって来た三人がこちらのテーブルに近づいて来る。