02 【She】




 明けて翌朝、今日の天気も快晴だった。海の青はますます神秘さを湛え、その青を明るく薄めたような空は、雲ひとつなく晴れ渡っている。

 起床してまずカーテンをめくり、外の様子を確認したアネモーラは、昨日から引き続いての晴天に眉を顰めた。こんなに天気が良いのに――やはり今日も、船は出ないのだろうか――。とりあえず、港に確認しに行かなければならない。朝食はその後で摂ろう。

 頭の中でスケジュールを組み立てながら身だしなみを整えていたアネモーラは、制服に手を伸ばしたところで、ふと思い留まった。

 ――覚えておいた方がいいと思うよ。

 名前も知らない、男の顔が目に浮かぶ。

 ――君の着ている洋服が、君の身の上を雄弁に語り明かしてしまう、その危険性。

「……」

 あの男に従うようで癪だけれど――男を拒絶するあまり、感情的に全てを否定したくなる気持ちを抑えながら――アネモーラは客観的に答えを出す。あの男の言うことは正しい。属する組織を主張するユニフォームには、長所も短所もある。使いどころを見極めていかなければならない。逡巡の末、アネモーラは旅行鞄の中から、カジュアルな私服を選ぶことにした。あの男に従うようで癪だけれど、ともう一度心の中で不満を呟いてから、支度を終えたアネモーラは部屋を出た。




 港に行くため、アネモーラはロビーにまで降りたのだが、そこでもう、大体の見当はついてしまっていた。あちらこちらで顔を寄せ合って話している人々、ホテル側が用意している新聞や端末をチェックしている人々――その顔色はどれも浮かない。ロビー全体が失望に重く沈んでいるようだった。今日も、船は出ないのだろう。

 きっと結果は変わらないだろうけれど、自分の目でも確かめておかなければならない。ロビーを出たアネモーラは、その前にもう一度、と思ってスマートフォンをチェックしてみた。朝、身支度を整えながらも一度確認しているのだが、やはり、ノクティスからの返信や着信はなかった。

 まったくもう、とため息を零しながら港に向かう。港へは、レストラン・コーラルワールを通り抜ける必要がある。朝食の時間帯のため、レストランは盛況だ。浮かない顔をしている人も多いけれど、ロビーよりはまだ、こちらの方が活気に満ちている。美味しい食事を摂っているうちに、きっと元気が出てくるのだろう。

 レストランの通路を少し行きかけて、あれ、とアネモーラは足を止めた。なんだか様子が違う。逆方向に来てしまったらしい。こちらは渡船場の出入り口だ。失態に頬を赤らめながらアネモーラは踵を返しかけ、ふと、後ろ髪引かれるものを感じて目を凝らした。

 開放的な造りの出入り口からは、ふんだんに朝の光が射し込んでいる。それを背にしてこちらに向かってくるのは――死神の裳裾のように長い外套と、暑苦しく巻かれたストール――あっ、とアネモーラは思わず声を上げてしまっていた。アネモーラに気づいた男は、首をわずかに傾けて微笑う。

「や、どうも。昨日ぶり」
「……どうして……」

 信じられない。こんなことってあるのだろうか。もちろん――もちろん、あるのだろうけれど……。別の宿泊施設を使ったとか、野営したとか、たまたま顔を合せなかっただけで、同じホテルには泊まっていたとか……。アネモーラの頭は瞬時に色んな可能性を弾き出したけれど、肝心の今については白紙のままだった。対処法が浮かばない。逃げる――いや、人としてあまりに非常識だろうか――誰かに助けを――何かされたわけでもないのに?――このまま適当に会話を――いや、それは――。

 ぐるぐると逡巡するアネモーラの前で、男は堪えかねたように笑いだした。

「そんな絶望的な顔しないでよ」

 喉の奥で笑いを噛み砕こうとしながら、それでも時折吹き出しつつ、男はひらひらと手を振った。

「今日は意地悪しにきたわけじゃないよ。ちょっと他に、用事があってね」

 明るく片目をつむられる。その芝居がかった仕草に対する反発心から、ようやく気力がよみがえってきた。そうだ、呆けている場合ではない。男から一歩距離を取り、アネモーラは身を硬くする。意地悪をしにきたわけではないと言うけれど、その言葉自体が信用ならないし、そもそもやはり、昨日アネモーラを不快にさせた発言の数々は、悪意によるものだったのだ。それがわかった今、この男に付き合う義理はない。

「失礼します」

 今度こそ踵を返しかけたアネモーラの手首を、男が捕える。驚いて振り返るアネモーラに、男は目を細め、あくまでもやさしい笑みを浮かべた。

「今日は制服じゃないんだね。オレの忠告、ちゃんと聞いてくれたってことかな?」
「あの」

 振り払おうとするが、びくともしない。

 男はアネモーラの抵抗など意に介した様子もなく、それどころかもう一方の手首すら難なく捕えてみせた。アネモーラは息を呑む。

「昨日はいかにもお嬢さまって感じだったけど、今日はずいぶんカジュアルな服なんだね」
「…あの…」
「でもそういう感じも可愛いね、似合ってるよ」
「あの、離してくださいっ」

 もはや男に対する嫌悪感はどこかに吹き飛んでしまっていた。今アネモーラの心を占めているのは警鐘だ。けたたましい警告音は身の内で大きく鳴り響いている。早く逃げろ、振り払って逃げろ。音はそう告げているけれど、男の手はびくともしない。

 逃げられない。

 怖い。

「アーデン」

 笑みを象った男の唇が、ゆっくりと動く。

「オレの名前。覚えて」

 アネモーラは小さく首を振った。せめてもの思いで男から距離を取ろうとするが、手首を引かれ、逆に引き寄せられてしまう。

「ほら、繰り返してみて」
「……」
「アーデン」

 アネモーラはひたすらに首を振る。

 男はひどく愉しそうだ。

「言えない? まぁいいや。今日のところは赦してあげる」

 さらに引き寄せられかけて、アネモーラは抵抗した。足を突っぱねる。すると男の方から顔を寄せてきた。思わず目を背けると、耳に男の息が当たった。

「でも、忘れないでね。オレの名前はアーデン。――君の伴侶になる男の名前だよ」

 囁かれた最後の言葉に、さすがにアネモーラは声を上げかけたが、

「アネモーラ!!」

 突然、思わぬ方角から聞こえてきた自身の名に、驚いて口を噤む。見ると、渡船場の出入り口から、見慣れた姿が近づいてきていた。アネモーラは思わずその名前を叫ぶ。

「ノクト!」

 安堵やら驚愕やら喜びやら、様々な感情が複雑にもつれるあまり、アネモーラは涙声になってしまう。それをどう解釈したのか、足音荒くずかずかと近寄ってきていたノクティスの険が、明らかに強くなった。今にも噛みつきそうな勢いで吠える。

「おい! あんた!」

 男は争う意思がないことを示すように、アネモーラの手首を解放し、両手を挙げてみせた。突然拘束を解かれたアネモーラは、その前触れのなさに、思わず体のバランスを崩しかける。よろめいたアネモーラを支えたのが、間近にまで来ていたノクティスだった。腕を掴まれ、引き寄せられる。

「あんた、こいつに何の用だよ」

 苛立ちを過分に含んだその声は、敵愾心も露わだというのに、その剣先を向けられている男の顔には、一分の戸惑いも見られなかった。それどころか男は、愉快そうに瞳を輝かせる。

「え? なに? 君、その子の彼氏?」
「関係ねーだろ」
「関係あるよお。だってオレ、その子のことナンパしてたんだもん」

 あからさまな舌打ちを返したノクティスが、急にこちらを振り返ってきた。一瞬驚くけれど、アネモーラに用があってのことではないらしい。

「グラディオ」

 アネモーラの、そのさらに背後を一瞥してから、ノクティスはやや乱暴に、アネモーラを押し出した。これもまた前触れのないことであったので、咄嗟の対応が取れず、アネモーラは押されるがまま、後ろ向きに数歩よろめく。

 その背中が何かに当たった。両肩が掴まれる。

「…グラディオ…」

 押し出されたアネモーラをキャッチしたのは、グラディオラスだった。喉を晒して上向きに、背後の人物を確認したアネモーラだけれど、グラディオラスは油断なく男を注視するばかりで、目が合うことはない。

「イグニス」

 グラディオラスの低い声と共に、今度は真横に押し出される。両肩を掴まれたままだったので、アネモーラは押されるがまま、勢いよく真横によろめくしかない。ぽんぽんぽん、と、まるでボールか何かのように受け渡されていくので、目が回ってしまう。

 そんなアネモーラの肩を、やさしく抱きとめる手があった。それに甘えて一時の眩暈を落ち着けてから、アネモーラは手の主を見上げる。

「…イグニス…」

 眼鏡の奥の瞳が、やわらかく綻び、次いで気遣わしげに細められた。

「平気か? ――何をされた?」
「……」

 何を、と問われると返答に困ってしまう。昨日からの一連の流れを、どうやって一言にまとめるべきだろう。思い浮かんだのは、あの男にも言われた「意地悪」だったけれど、それをそのまま言葉にするのは、子供じみている気がする。

「そんな話よりさぁ、聞いてよ、こっちの方が君たちには重大だから」

 答えあぐねているうちに、芝居じみた男の声が耳について、アネモーラは思わずそちらに目を向けていた。ノクティスからの非難を断ち切るように張り上げられた声は、アネモーラの注意をも引きつけたのだ。

「はぁ?」

 突然何を言い出すんだ、この男は、と言わんばかりのノクティスに、男はしたり顔で両腕を広げてみせる。

「残念なお知らせです」
「だから――」
「船、乗りに来たんでしょ?」

 ずばり言い当てられたノクティスは、言葉に詰まってしまった。その反応を窺ってから、男はほくそ笑む。

「うん。出てないってさ」
「…なんだ? あんた」

 怯んでしまったノクティスの代わりに、グラディオラスが一歩を踏み込んだ。男はその接近を気にした様子もなく、グラディオラスとすれ違うようにして、出入り口へ歩いて行ってしまう。

「オレ、待つのイヤなんだよね。帰ろうかって思って」

 板張りの床を、ゆったりとした歩調で鳴らす。イグニスは黙って、アネモーラを背に隠した。男を警戒してのことだろう。けれどそれは杞憂だったようだ。アネモーラに一瞥をくれることもなく、男はそのまま行き過ぎる。

「これって停戦の影響かなぁ」

 独り言にしては大きすぎるそのセリフを、言い終わらないうちに男は振り返った。それと同時に、指先で何かを弾き飛ばしてくる。まっすぐノクティスに向かっていったそれを、横から伸ばした手で止めたのが、グラディオラスだった。グラディオラスは黙って、キャッチしたそれを確認する。アネモーラも首を伸ばして、それを窺い見た。――コインだ。

「それ、お小遣い」
「はぁ?」

 グラディオラスの手の中を覗いていたノクティスが、素っ頓狂な声と共に顔を上げる。不可解、を絵に描いたような表情だ。

「おい、あんた」

 低くドスを効かせた声で、グラディオラスが男をねめつける。

「さっきから一体何のつもりだ」
「おお、恐い」

 わざとらしく身震いしてみせてから、男はへらへらと笑った。

「力や権力にでも訴えるつもり? やめてよね、オレは見ての通りの一般人なんだからさ」

 ね、と明るく片目をつむってみせてから、男はくるりと踵を返す。それからはもう、こちらのことなどすっかり忘れてしまったかのような振る舞いで、ガーディナと陸地を繋ぐ桟橋を飄々と歩いて行ってしまった。突然話を切り上げられてしまったアネモーラたちは、半ば呆けながらその背中を見送るしかない。いつまでもぐずぐずと残られるよりは、さっさと行ってしまった方が良いのだろうけれど……こちらの気持ちは何ひとつおさまっていないので、なんだか宙ぶらりんで、中途半端だ。

「――お客様」

 成り行きを見守っていたのだろうか、渡船場の制服を着た職員が、気遣わしげな様子で駆け寄ってきた。その声で我に返ったのか、グラディオラスが押し留める。

「ああ、悪い。もう済んだ」
「左様でございますか…」

 不安そうにこちらの顔色を窺いながらも、丁寧な一礼を残して、職員は引き上げていく。そこでアネモーラは初めて気がついたのだけれど、周囲のテーブルからも随分な注目を集めてしまっていた。みな食事の手を止めて、興味深そうにこちらを見ている。

「おい、アネモーラ。お前何でここに――」
「ノクト」

 詰め寄ろうとしたノクティスを、イグニスが遮る。

「とりあえず、場所を移動しよう。――ここでは目立つ」

 促されてようやく、周囲から向けられている好奇に気づいたようだった。頷いてガーディナの奥――港に向かって顎をしゃくる。

「とりあえず、見に行ってみるだろ?」
「ああ、そうだな」

 イグニスの同意を取ったノクティスは、先陣を切って歩き始めた。その後を慌てて追いかけるのは金髪の青年だ。その青年を見て、ああ、この人が噂のプロンプトか、とアネモーラは興味を惹かれながら思った。ノクティスやイグニス、グラディオラスからよく話は聞いていたので、一方的な親近感はあるけれど、こんな間近で本物を見たのは初めてだ。

「けど王子の言う通り」

 隣にやって来たグラディオラスに頭を小突かれる。

「何でオルティシエでオレたちを迎えるはずだったお前が、ガーディナにいるんだ?」
「それは――」

 思わず口ごもる。本来ならば、オルティシエの港で彼らを迎えるはずだったのだ。そうしていれば彼らに面倒をかけることもなかっただろうし、アネモーラ自身も嫌な思いをせずに済んだだろう。自身の子供じみた思いつきを心底から恥じつつ、アネモーラは答える。

「驚かせようと思って……」

 グラディオラスからのあからさまなため息を受けて、ますます肩身が狭くなる。縮こまるアネモーラは、イグニスに促されて歩き始めた。イグニスはいつも通り、紳士的にエスコートをしてくれる。

「アネモーラ、すぐ先に四段ほどの階段がある。足を取られないようにな」
「うん…」
「……」

 グラディオラスからの視線を感じたので見上げると、彼はやはり何か言いたそうに、そしてどことなく呆れた顔をしてこちらを見ていた。言い訳じみているな、と思いつつも、アネモーラは弁解する。

「でも、ノクトには電話入れたよ。メッセージも送ったし」
「いやオレが言いたいのはそれじゃなくて……あ? 何だって?」
「だから、こっち来てすぐ、ノクトにはメッセージ送ったよって。船出てないことも、急いで伝えないといけないと思ったから」

 グラディオラスは片手で顔を覆った。

「あいつたぶんそれ見てねえぞ…」
「やっぱり。でも電波あるところに出たら通知いくよね?」
「その通知自体に気づいてねえんじゃねえか」
「――とにかく」

 二人の会話にイグニスが割り込んだ。

「アネモーラは少し休ませる。悪いがグラディオ、港のことは頼む」
「え?」
「…わかった」

 呑み込めないアネモーラとは対極に、グラディオラスはイグニスの言わんとしていることを察したようだった。アネモーラの頭を軽く叩いてから、港への階段を下りて行く。

「何で? わたし、平気だよ?」
「平気じゃないだろう」

 やわらかく窘められる。

「嫌な思いをしたんだ。そこで何か飲んで、座って休もう」
「……」

 でも、その「嫌な思い」も、巡り巡れば自身の落ち度――みんなを驚かせようと思って、相談もなくガーディナにやって来てしまったこと――に端を発しているのではないか、と先ほどからの自己嫌悪を引きずっているアネモーラは、頭の隅で考えたのだけれど、イグニスはアネモーラを心配してそう提案してくれているのだろう。その心遣いを無下にする気にはなれなかった。それに……。

 ――君の伴侶になる男の名前だよ。

 思い出すだけで、ぞっと肌が粟立つ。やはり気持ちを切り替えるためにも、ここはイグニスに甘えておこう。さらに迷惑をかけるようで、気は引けるけれど……。頷いたアネモーラを見て、イグニスは安堵したように微笑った。空いている席を探し、アネモーラを奥に座らせる。そういえば朝食がまだだった。そのことを伝えると、母のような顔で好きなものを注文しろと言う。アネモーラはメニューを開いた。





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