01 【She】
これはどういうことだろう。船から降り立ったアネモーラは、困惑しながら辺りを見回す。小さな港は閑散期のように静まり返っていた。出港や帰港のために立ち働く人々も、渡り船を待つ利用客の姿も見えない。それどころか、ガーディナ渡船場には船の姿がなかった。……正確には一艇だけ停まっている。つい先ほどまでアネモーラが乗船していた高速艇だ。どちらかといえば控え目なフォルムの高速艇は、海を越えてきた疲れを癒すように、今は黙って波に揺られている。でも、それきりだ。背後の高速艇から目を移し、アネモーラは小さな港全体を見渡す。一艇きり。そんなことってあるのだろうか。停泊中の船のない渡船場なんて、開店しているのに商品が陳列されていないショップのようなものではないか。
アネモーラの後から降りてきた乗船客たちも、港の様子には驚いているようだった。不可思議そうに辺りを窺いながらも、まぁ、とりあえずは目的地に着いたのだから、と、桟橋を渡って行く。桟橋の先にはレストランとホテルの併設された水上施設がある。アネモーラも一旦はそこに落ち着くつもりだったのだが……。
思案に暮れながらも天候を確認する。――雲ひとつない快晴だ。波も穏やか。素人判断ではあるけれど、絶好の船旅日和だと思う。でも、港に船はない。――だとすると――アネモーラは眉間に皺を寄せる――他に考えられることは――。念頭に浮かぶ可能性もあったが、それが正解である場合は、ちょっとまずいことになる。対策を考えなければいけない。
大きな旅行鞄を改めて持ち直して――その拍子によろめいた足を何とか堪えて――アネモーラはとにかく、誰かに話を訊いてみることにした。近くにはちょうど、高速艇と桟橋をタラップで繋ぎ、下船する乗客を手助けしていた乗組員がいる。
「あの、すみません。ちょっとお尋ねしたいのですが」
年配の乗客を送り終えた乗組員が、はいはい、何でしょう、とこちらを振り返ってくる。
アネモーラは言葉を継ごうとしてから、土壇場でそれを呑み込んだ。おおい、と呼ばわる声を耳にしたからだ。その老爺は桟橋の向こうから矍鑠(かくしゃく)とした足取りでやって来て、出し抜けにアネモーラを指差した。
「あんた」
「は、はい」
「あんた、今この船で来た人だね。どこから来たんだい」
老爺の勢いに目をぱちくりとさせながらも、アネモーラは律儀に答えた。
「アコルド――オルティシエからきました」
「ほらな!」
そら、見たことか、と言わんばかりの、まるで鬼の首を取ったような得意顔で、老爺は次に乗組員を指差した。
「やっぱりあるんじゃないか! 出てるじゃないか! 兄ちゃん、隠そうとしたって無駄だよ」
「お、お客様」
「このお嬢ちゃんはオルティシエから来たって言ってるんだ。ルシスに来られるなら、オルティシエにも行けるだろう? なあ?」
「ですが、お客様」
「こっちだって困るんだよ! 急にそんなこと言われても! ルナフレーナ様を一目見たくて、わざわざレスタルムから出てきたってのに!」
興奮しきりの老爺は、禿げ上がった額までも赤く染めて、乗組員に食ってかかっている。その異様な空気を察したのか、高速艇の上で航行の後始末をつけていた乗組員たちも何名か、慌ててタラップを降りてきた。弱った調子で、お客様、と老爺を囲んで宥めにかかる。それでも老爺は鎮まらない。興奮に染まる顔はますます赤くなっていく。そのうち、乗組員のひとりが輪を離れて、桟橋を小走りで駆けて行った。水上施設の方へ向かっている。上席に助けを求めに行ったのだろう。
ところで、当のアネモーラは、すっかり騒動から置いてけぼりを食らってしまっていた。立ち位置も、そうと意識したわけではないけれど、輪から外れたところで何となくおさまってしまう。そもそも老爺の矛先は、ガーディナ渡船場の、船を動かす職員に向けられているので、いち利用者であるアネモーラはお呼びではないのだ。アコルド――オルティシエからやって来た乗客なのか否か。それさえ確認できればもう用はないのだろう。
でも――アネモーラは少し気分を害する――私が先に乗組員を捕まえていたのに。けれど、ここでそれを声高に訴えたところで、老爺の対応に大わらわしている乗組員たちを、ますます困らせてしまうことだけは明白だったので、アネモーラは大人しく引き下がることにした。輪から離れ、桟橋をちょっと行きかけたところで振り返る。咎める者は誰もいない。それどころか、アネモーラが離れようとしていることに、誰も気づいていない様子だった。
首を竦めてから旅行鞄を持ち直し、アネモーラは桟橋を渡って行く。船着き場で訊けないのならば、水上施設で誰かを捕まえるしかない。そう思って桟橋の先を見たアネモーラは、遠巻きに老爺の騒動を眺めている、男性の姿を認めた。少し風変わりな恰好が目を引く。けれどそれは、明るい陽射しと青い海のガーディナでだからこそ、浮いて見えるだけなのだろう。死神の裳裾のように長い外套と、暑苦しく巻かれたストール、それに黒い中折れ帽――ルシスの系統を汲んではいない気がする。もしかすると、他国から来た旅行者なのかもしれない。
そう思いながら見つめていると、目が合った。
「あの」
思わず、アネモーラは声をかけていた。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいのですけど」
突然声をかけてきたアネモーラに、男は驚いているようだった。
アネモーラは急いで男性との距離を縮めようとする。大きく分厚いトランクケースが手元で嵩張って、膝に何度かぶつかったけれど、気にせず一気に持ち運ぶ。
「あの」
男性の目の前まで旅行鞄を運び終えたアネモーラは、それを足元に置いてから、一呼吸入れた。
男性は面白そうにアネモーラを見ている。
アネモーラは背後の港を示すように、片腕を広げてみせた。
「これは、どういうことなのでしょう? こんなに船の数が少なくて……わたし、驚いてしまって……何かご存知ですか?」
「出てないらしいよ」
「え?」
ふ、ね、と。一音一音を区切るように返してから、男はにっこりと笑ってアネモーラを見た。
「オレもよくは知らないんだけどさ、聞いたところによると、オルティシエで全部止められてるんだって。――でも君、オルティシエから来たんだっけ?」
先ほどの会話を聞いていたのだろう。アネモーラは頷いた。
男は演技がかった身振りで指を鳴らす。
「それじゃあ、それが最後の便だったってわけだ。今はもう出ることも入ることもできないってさ。滑り込みセーフ。運が良かったね」
そう言ってにこにこと笑う男の顔は、親しみやすく、気さくなものだったけれど、アネモーラは何となく、その笑顔を好かないと思った。理由はわからない。恐らく感覚的な問題だろう。だからそんな身勝手な好悪は心の底に封じてしまう。
それよりも、オルティシエだ。アネモーラは視線を落として思案する。アネモーラが向こうの港を立つ際に、そういった出港や帰港を制限するような動きは見られなかった。オルティシエの港は通常通りに回っていたと思う。けれど今は出入りが禁じられている。そのせいで行く船も帰る船もないガーディナは、閑散としている……。
制限の理由は何だろう。出港も帰港も禁じるというのだから、それ相応のリスクが考えられるということだろう。何か、乗客の生命に関わるぐらいに、重いリスクが――けれど、天候は上々だった。悪くなる兆しは見られない。ならば別方面からのアプローチなのかもしれない。アネモーラは眉を顰める。たとえば、そう――。
「停戦の影響かなぁ」
独り言めいた呟きに、驚いて顔を上げる。男はアネモーラの視線を掬い取るようにしてから、小さく微笑った。
「これって停戦の影響かなぁ。ねぇ、君はどう思う?」
「さあ、どうでしょう」
苦笑して言葉を濁すが、男は元より、こちらの返答など望んではいないようだった。弱り切った声音で、天に向かって訴える。
「参ったなぁ。オレ、調印式がどんな感じか見てみたくて、遥々ルシスまでやって来たんだよ。それなのに、まさか船が動かなくなっちゃうなんて。どうしようかなあ、どうやって帰ればいいのかなあ、困ったなあ」
極め付けに大きなため息を落としてみせる。どうしてだろう。そういった事情だけを忖度すれば、男の身の上には同情の余地があるだろうに、アネモーラは何故だか、そんな気分にはなれなかった。男の境遇や気持ちに、寄り添いたくないと思った。たぶん、先ほどの笑顔の印象のせいでもあるのだろうけれど……それよりも、何よりも、口先では自身の不幸を嘆きながらも、その実はあまり、困っているふうに見えない、というところが、大きいのかもしれない。
まるで舞台の上の役者みたいだ。今度はその場をうろうろと歩き回り始めた男の、いちいちが芝居がかった様子を眺めながら、それでもアネモーラは最低限の社交辞令として、また港の現状について教えてもらった義理を返すため、同情の色を込めて頷いた。
「そうですよね、困りますよね」
「そうなんだよ。本当に困るんだよ」
男は大げさなくらいに顔をしかめてみせる。
「オレはこれからどうしたらいいかなあ?」
「そうですねえ」
アネモーラは当たり障りなく答える。
「調印式を目当てに来られたのでしたら、とりあえず、王都に向かわれてみてはいかがですか? 帰りの手段についてはご心配でしょうが、ここで悶々と悩まれていても事態は変わらないでしょうし。調印式が済めば、情勢も安定して、港の制限も解かれるのでは?」
「そうかなあ」
不意に声のトーンが変わった。
「――ねえ、本当にそう思う?」
歩き回ることを止めた男は、うっすらとした笑みを浮かべて、こちらを見ていた。それに含まれたものの意図は定かではない。
アネモーラは眉を顰めた。
「……どういう意味でしょうか?」
「調印式が終われば、情勢は安定するって、きみ、本気で思ってるの?」
その言葉に揶揄の匂いを感じ取ったアネモーラは、わずかに不快を滲ませた。
「……ええ、そう思ってますけど。ルシスの民も、ニフルハイムの民も、他の国の人々も、みな、それを願っています。そのための停戦協定であり、そのための調印式ではないのですか?」
「普通はね」
片頬を歪めて男は微笑った。蛇のような笑みだった。
「まあ、フツーは、無事に済んで、平和になるけどねえ」
「……先ほどから貴方は何を仰りたいのですか?」
敵意を込めて言葉を撥ねつけると、男はおどけたように両眼を丸くしてから笑った。
「いえ? 別に? ただの感想ですよ。いち個人の感想」
「……」
気分を害したアネモーラは、礼もそこそこに、足元の旅行鞄を持ち上げた。尋ねる相手を間違えた。自分の見る目のなさにも腹を立てながら、その場を立ち去ろうとしたアネモーラの背中に、なおも声がかけられる。
「ねえ、君さぁ、もしかして、オルティシエの学生さん?」
「……」
振り返るか、それともこのまま立ち去ってしまうか――自身の中で束の間葛藤をしたのち、アネモーラは嫌々ながらも、肩越しに男の方を見た。声をかけられておきながら敢えて無視をするという非情を、どうしても選びきれなかったのだ。
アネモーラと眼を合わせた男は、そうした一切の逡巡を見透かしたように笑った。
「フフ……それさぁ、ファブラノヴァ女学院の制服だよね?」
「……」
「やっぱり!」
嬉々として指を鳴らす。もちろん、アネモーラは口を開いていない。ただ黙って険を濃くしただけだ。だというのに男はひとりで合点がいったように振る舞っているので、やはり彼はこちらの回答など求めてはいないのだろう。おそらく男の中にはもう答えがある。あとはただ、その答えを放って、こちらの反応を面白がりたいだけなのかもしれない。
気味が悪いのは――アネモーラは警戒心を強める――男の指摘する通り、これがファブラノヴァ女学院の制服であることだ。アコルドでは由緒ある学び舎のひとつに数えられているので、ルシスでもある程度その名は通っている。けれど、制服の様子までは知れ渡っていないはずだ。空の色を溶かし込んだような、薄く青く、シンプルなデザインのワンピースは、女学院の創立当初から変わっていないので、無論わかる人にはわかるのだろうけれど……それで安心できるほど、アネモーラも呑気ではない。
「ファブラノヴァに通ってるってことは、君、良いところのお嬢さまなんだねぇ」
驚いたように両手を広げてみせてから、まぁ、そんな感じはしてたけど、と付け足して、男が一歩を踏み出してきた。距離を詰めようとする気配を察して、アネモーラは思わず背後を見た。桟橋の先は階段。荷物を抱えたまま一気に駆け上がれるとは思えない。
「それじゃあさ」
逡巡しているうちに、気配は間近にまで迫ってきていた。
「オレが、今ここで、君を攫ってしまったとしたら」
振り返ったアネモーラの眼前には、男の指先があった。冷たそうなそれは一本一本、誘惑めいて閉じられる。
「君を人質にして、お金持ちのお父さんを、脅迫できちゃうのかな」
「……」
「なんてね」
黙って息を呑むアネモーラに対し、男は吐息だけで微かに笑う。
「冗談だよ、冗談」
「……」
「たださ、ユニフォームっていうのにはそういう力があるってことを、覚えておいた方がいいと思うよ。君に喧伝する気がなくても、君の着ている洋服が、君の身の上を雄弁に語り明かしてしまう、その危険性。強みにも弱みにもなるその無言の主張を、上手く利用しないと……オレみたいな男に付け込まれちゃうよ?」
明るく片目をつむられる。一連の流れを冗談で彩ろうとしているのだろうが、生憎と乗じる気分にはなれなかった。
アネモーラはキッと男を睨んだ。
「ご忠告感謝いたします」
それだけを残して踵を返す。出来うる限りの全速力で――旅行鞄という枷があるため、それほどの速さにはならなかったけれど――残りの桟橋を渡り切る。わずかに息を弾ませながら、アネモーラは階段の手前で少し躊躇した。思っていたよりも長さがある。しかし背後からは男の足音が迫ってきていた。随分とのんびりしたその歩調は、もちろんわざとなのだろうけれど、アネモーラの焦燥を煽るには十分すぎるほどだった。
意を決して段に足をかける。
「手伝おうか?」
笑い混じりのその申し出を、今度は黙殺してしまう。
重い荷物と格闘しながら、なんとか段差を上り切ったアネモーラは、達成感という弛みから、つい背後を振り返ってしまっていた。
どうやら男は階段の下で、アネモーラの苦闘を観賞していたらしい。笑顔で拍手を送られた。
その笑顔をねめつけてから、アネモーラは足早にホテルのフロントに向かう。そこまでついて来られては敵わないと思ったのだが、どうやらそれは杞憂に終わったようだった。チェックインの手続きを済ませて、部屋に通されるまで、男の姿は見かけなかったからだ。
男自体への疑心を深めていたアネモーラは、確認のためホテルのフロント係にも、荷物を部屋まで運び込んでくれたベルボーイにも、船便の欠航について尋ねてみたのだが、返ってきた内容は概ね、男の話していたものと変わりなかった。オルティシエが港を封鎖している、封鎖の理由は安全確認のためと公表されているが、それにはガーディナ側も納得していない……。
どうやら男は、方便を言っていたわけではないようだった。けれどそれで、男への心証が良くなるわけでもない。
夕食時、階下のレストラン、コーラルワールに降りた時は多少緊張したのだが、そこにも男の姿はなかった。オルティシエに行けず、ガーディナで足止めを食っている乗船予定の客は、大半がこのホテルに宿泊しているようだが、もしかするとあの男は諦めて国に帰ったのかもしれない。あるいは、予定通り調印式を見に王都へ向かったのかもしれない。
どちらにせよ、もう神経を尖らせておく必要はないだろうと、夕食を終えてスイートタイプの部屋に戻ったアネモーラは、そこで初めて人心地をついた。
柔らかな寝台に腰掛けながら、スマートフォンを確認する。ノクティスからの返信はない。念のため電話もかけてみるが、やはり、これも繋がらない。電源自体を切っている可能性もあるけれど、おそらくは電波の届かないようなところにいるのだろう。王都の外の電波状態は、常に不安定だ。ガーディナのように、一定数の住人のいるところならば、ある程度保たれてはいるのだけれど……。ため息をこぼして、ノクティスからの最新メッセージをもう一度確認する。
――トラブルがあった。遅れる。今夜ガーディナに着く。
「もう今夜だよ…」
あーあ、と盛大に嘆いて、アネモーラは背中からベッドに倒れた。高い天井が見える。ノクティスからのメッセージを見たのが今日の昼間。学校を早退して荷造りもそこそこに、大慌てで船に飛び乗ったけれど、ノクティスたちは予定通りに到着しないばかりか、オルティシエに帰る手段まで奪われてしまうとは。
「どうするんだろう」
手近のクッションを引き寄せて抱き締める。オルティシエ行きの船便が出ていないことは、ノクティスにメッセージで伝えてある。帰れないアネモーラは困り果てるだけで済むけれど、ノクティスは自身の婚儀のために、オルティシエに向かっているのだ。船が出ていなくて困る、という話では済まされない。なんとか隣国に渡る手段を見つけなければならないのだろうが、島国であるアコルドに上陸するためには、やはり船が不可欠だ。ガーディナが船を出していないのならば――オルティシエが港を封鎖しているのならば――非合法なルートを使ってでも、入国を果たさなければならないけれど……アネモーラはため息をついた。その方法が全く浮かばない。とにかく、ノクティスたちと早急に合流して、今後の方針について話し合わなければならない。思い出したように浮かんでくる不安の種に頭を悩まされながらも、アネモーラはそうして朝を迎えた。