09:Chain




 何をしているのだろう、この人たちは。

 私は途方に暮れてしまう。

 遊歩道を挟んで真正面に設置されているベンチの前では、先刻からヒューマーの男女が喧々諤々と言い争いを繰り広げている。否、正確に評するならばこれは諍いではない。所謂「痴話喧嘩」という部類に値するものだ。言い争っている本人たちの意図と本音がどうであれ、第三者である私からみて、それはもう犬も食わないような仲良し喧嘩だった。

 私は引き寄せていた膝を離し、ベンチの上で立ち上がった。座るところを足場にするなんて行儀が悪いこと甚だしいけれど、咎める人がいないのだから構わないことにしておく。

 そもそも咎める咎めない以前に、今の私を「視認」できる人などいない。

 弾みをつけて跳躍し、近くの街灯の上に飛び移った。先刻のベンチから然程離れていないので、真正面のベンチも勿論視野の中にある。

 そのベンチの前ではまだ、男女二人が騒々しくやり合っていた。落としてしまったアイスを掃除しようとする女と、手近の犬(によく似た異界生物)を引っ張ってきてそいつに舐めさせようとする男と。男の思惑に気づいた女が、「その子がお腹壊したらどうするんですか、ていうかどこから誘拐してきたんですか、返してきてください」と言って怒っている。それに対して男は胸を張って大丈夫だと請け負い(けれど何の根拠もない)、しかし男の背後からは突然飼い犬(…犬?)を拉致された飼い主が、真っ赤な顔で近づいてきていた。

 一体今日だけで何度目になるのか。再びトラブルの予感を覚えて、思わずため息が洩れてしまう。

(何してるんだか)

 何度目かのぼやきを心の中で零しながら、ベンチの前の二人を見る。二人はどちらとも仕事上の同僚というか、知り合いだった。しかも女の方とは業務関係なく親しくさせてもらっている。だから出来れば、こんなふうにため息なんて吐きたくはないのだけれど、それでもやはり零れるものは零れてしまう。

 自身の存在を「希釈」させたまま、街頭の上でしゃがみ込む。

 飼い主に向かって平謝りしている女性の名前は、ライト。その隣で我関せずといった調子で鼻をほじっていたために、ライトからのどつきを食らったうえ、無理矢理頭を下げさせられている男が、ザップ。

 成り行き上仕方ないとはいえ、私はこの二人の動向を半日以上追い回していた。

 事の発端は、スティーブン・A・スターフェイズ氏からの電話にまで遡る。

 そもそも私は今日、ライトとの「仕事」を依頼されていたのだ。彼女に同行しHLの各所を巡るという、「観光」なのか「仕事」なのかよくわからない内容だったけれど、私は二つ返事で了承した。前述した通り、私はライトと親しくしていた。プライベートでの外出こそなかったものの、顔を合わせれば立ち話をし、時間が合えば昼食や夕食に出かけていた。だから彼女と二人きりで行う仕事を、断る理由なんてどこにもなかったのだ。

 ただ私はその仕事の前に、別件で人狼局に立ち寄らなければならなかった。私は頻繁にライブラに顔を出しているので、私自身もたまに忘れそうになるのだけれど、所属上は人狼局の人間なのだ。だから人狼局とライブラの案件が重なった時は前者を優先することが多いし、今日のことだって事前に断りは入れてあった。人狼局に寄ってから向かいますと。

 その連絡を入れた時、ライブラの副官である彼は特に何のコメントもなく、ただ快く了承してくれた。だから私は必要以上に焦ることなく、しかしなるべく急いで用事を済ませ、ライブラ本部に向かっていた。

 電話が鳴ったのはその道中だった。

 発信者はライブラ副官である、彼。スティーブン・A・スターフェイズだ。

 彼は和やかな口調でこう切り出した。

「やあ、チェイン。今どこにいる?」
「そちらに向かっている途中です」
「そうか。それじゃあまだ、こちらには着いていないんだね」
「もうまもなく到着しますが…」

 その時の私は、私の現在位置を念押しで確認するような彼の口調に、微かな不安感を覚えていた。

「何かあったんですか?」

 そうして彼は、相手のこういった機微を読み取ることに、恐ろしい程に長けている。

「いや、なに。無駄足を踏ませてしまうんじゃないかと思ってね。到着前に連絡がついて良かったよ」

 その柔らかく朗らかな声音は、たぶんに私の不安感を見抜いての配慮だったのだと思う。そして私は単純にも、その声音に安心を覚えてしまうのだ。

「ライトとの仕事の件ですか? もしかして、中止か延期にでもなったんでしょうか?」

 無駄足、という言葉から連想して尋ねる私に、電話口の向こうで彼が微笑う。

「いいや。中止でもなければ延期でもないよ。ただチェインには、当初お願いしていたこととは別のことを頼みたくてね」
「…別のこと」
「ライトを見張って欲しいんだ」

 見張る。諜報活動を主な仕事とする私に、それは聞き慣れた単語だった。けれどそれが、仲間内に向けられることは殆どない。

「ああ、チェイン、誤解しないで欲しいんだけど、見張ると言っても悪い意味で、じゃないぞ」

 思わず黙り込んでしまった私に対して、彼は焦ったように補足した。

「チェインには事後承諾になってしまって悪いんだが、今回の仕事は、ライト1人に任せてみることにしたんだ。仕事の内容は、彼女の作った血晶石を街の各所に置いて回ること。君からすればとても簡単な、朝飯前の内容かもしれないんだが…」

 そこでひとつ息を落とす。

「なにせあの子はまだHLに来たばかりだ。土地勘がない。加えて育った環境が環境だから、1人で街中をうろつくことにもあまり慣れていないんだ。攻撃性に秀でた流派というわけでもないし、君のように希釈をして逃げ切る手段も持っていない」

 そこまで聞いて、言わんとしていることを何となく察することができた。心配性のお父さんと話をしているようで、思わずちょっと微笑ってしまう。

「けど1人でできると言うもんだから、任せてはみたんだけどね、どうも心配で。何かあったらまぁたクラウスの胃に穴が開いてしまいそうだし。だからお目付け役というか、護衛というか、見張っておいて欲しいんだ。何もなければそれで良し。ただ何か、トラブルに巻き込まれそうになった時は――君の判断で動いてもらって構わない、手助けしてやってくれないか」

 どうかな、とお伺いを立てるように下手に出られてしまっては、とてもではないが断れないし、そもそも断る気などなかった。

 だから私は承諾した。そうしてライブラ本部の建物から出てきた彼女を、存在を希釈させながら追いかけたのだ。

 始めのうちは変更された内容の通りだった。崩落と再構成が繰り返されるHLは、そこらの都会よりも大分入り組んだ構図をしている。そのうえ平和という概念がブレてしまいそうな程に、毎日が不穏なお祭りで賑わっている。交通規制に引っ掛かって、突如降ってきた大型異界人から逃げ延びて、迂回して迂回して迂回して、行っては戻りを繰り返して、ぐるぐるぐるぐると、遠回りを余儀なくされながら、それでもライトは確実に、目的の場所にまで近づいて来ていた。

 しかしその地道な努力にも、不穏が兆し始めた。二人組の男が、ライトに声をかけたのだ。

 会話の内容まで聞き取ることはできなかったけれど、彼らの身振り手振りから、道を教えているらしいことは読み取れた。親切心からか、下心からか。警戒心を強めながら動向を探っていた私は、その後の展開に思わず仰天してしまう。何とライトはその二人組の後について行ってしまったのだ。しかもその表情から察するに、彼女は彼らを親切な二人組だと頭から信じているようだった。

 私は自身の存在を「希釈」させつつ、慌てて屋根から飛び降りた。

 そうして私の「見守り」は「尾行劇」に様変わりしてしまったのだけれど、ここから更に様相は一変する。下心を丸出しにした野郎共によって、路地裏に連れ込まれそうになったライトを助けに現れたのが、何と何とのあのシルバーシットだったのである。あんた一体どっから湧いてきたのよ! と叫びたくなった私の心情も慮って欲しい。何故ならあの場に颯爽と現れていたのは私だったはずなのだから。あの銀猿がもう数十秒遅ければ!

 ――かくして。

 希釈からの心臓抜きでもしてやろうかと、片手をワキワキさせながら待っていた私は、肩透かしを食らう羽目になった。しかもそればかりでなく、あの猿は助けたライトに金品を要求するでもなくそのまま放り出すでもなく、彼女の仕事に同行し始めたのだ。不用意に喧嘩の種を撒き散らしていたとはいえ、その裏では彼女に近づこうとしたヤツらを追い払ったりもしていたので、もうあれは完全に同行というか護衛だった。護衛というか見張りだった。――つまりは私の仕事内容と同様の行為だった。

 後ろから蹴りを入れたくなった私の心境を、どうか推し量って欲しい。そしてそれを実行せず、心の内に留めおいた私を称賛して欲しい。

 かくしてかくして。

 私の「見守り」は「尾行劇」と「護衛(未遂)」という変遷を経て、最終的には「デバガメ」という訳のわからない所に落ち着いてしまった。

 何度目かのため息が落ちていく。それでも「彼」に頼まれた以上、しかも「彼」から直接に依頼された以上、仕事は最後まで完遂しなければならない。それが痴話喧嘩を繰り返す男女を覗き見るような行為であったとしても。

(それにしても)

 街灯の天辺から二人を見下ろす。――あの猿の心情がよくわからない。

(クズでクソなエロチンピラのくせに)

 確かに、まぁ、面倒見の良い部分があることは認めよう。何だかんだ、後輩にあたるレオのことは猿なりに気にかけているようである。だから同じく後輩にあたるライトのことを気にかけ、その仕事に同行するのも道理に思えるのだが…。

(本当にそれだけなのかなぁ)

 いや、これが仮にライトでなく私の場合でも、あの猿は何だかんだ手助けをしてくれるだろう。そしてその逆もまた然りだ。あの猿が窮地に陥るなんて想像もできないけれど、そんな状況に出くわしたとしたら、私は死ぬ程文句と罵声を吐きつつも手助けするだろう。手助けしなければならないほど危ない状態、という判断材料がある限り、それが誰であろうとも見捨てることはしない。――はずだ、たぶん、きっと。

(でも)

 ライトの頭にチョップを入れている、バカ猿の笑顔を黙って眺める。ガキみたいにはしゃいだ顔。

 チラリと脳裏に浮かぶのは二人組の男性だ。ライトを路地裏に引きずり込もうとした彼らは、親切心の仮面の裏に本性を隠していた。勿論あの猿にそんな器用な真似ができるとは思えない。エロ心がある場合は、エロを前面に押し出したような顔になるアホなのだ。

(でも)

 後輩だから、新入りだから、危なっかしいから。そんな理由だけで片付けてしまうことにも、抵抗感がある。

「……」

 ようやく公園の出口に向かって歩き出した二人(何かまだ言い合っている)を確認してから、私はため息と共に立ち上がった。スマホを取り出し発信ボタンを押す。報告は全てのポイントを回り終えてからで良いと言われていたのだ。

 きっと数コールも鳴らない内に、この仕事の依頼主である「彼」が電話口に出てくるだろう。そして尋ねてくるはずだ、どうだった、と。私は包み隠さず報告するだろう。単独で完遂したかったであろうライトには申し訳ないけれど、同行者ができてしまった以上、それを伏せておくことはできない。だから私はあのウンコ猿の名前を挙げるだろう。そうすれば恐らく「彼」は尋ねてくる。少なくとも私の見解は求めてくるだろう。

 どうしてザップが?

 コール音が途切れる。電話の繋がった気配。確たる回答を選び損ねたまま、私は躊躇いがちに口を開いた。





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