03:She
後ろ手でドアを閉める。ばたん。肩越しに閉じたドアを確かめてみる。ぺたぺた。見ても触れても眺めてみても、それはただの壁にしか思えなかった。
袋小路の先の突き当たりの壁。でも「とあるコツ」を知っている者たちは、ここからライブラ本部に出入りできるのだ。こういう隠し扉めいた出入り口を本部は数ヶ所管理している。中には空間歪曲術式と組み合わせたワープ的な扉もあるらしいけど、それはあくまでも噂だ。実際、セキュリティ設計のために内部を歩き回った時には、そんなもの見つからなかったし。
壁を触るのをやめて振り返る。
そういえばいつだったかここで、レオくんと顔を合わせたことがあった。昼食を買いに行くため外に出てきたレオくんと、出勤するため本部にやって来た私と。あの時は車の中からレオくんを見かけて(そして何故か立ち往生しているらしき彼を不思議に思って)、ギルベルトさんに無理を言って降ろしてもらったのだ。地下駐車場はここから更にぐるりと回り込んだ先にあるので、運転中のギルベルトさんは私をひとり降ろすことに懸念していたみたいだけど、出入り口がすぐ近くだったこともあって、結局お許しをもらえたのだ。
「よし」
ぐっと握り拳をつくって道の先の大通りを見据える。「神々の義眼」を保有している以外は一般人であるレオくんだって、毎日をHLで過ごしているんだし、それにアルバイトだってしているのだ。後方支援主体の流派と言えど、レオくんよりは防御面でも攻撃面でも選択肢の多い私が、やってやれないことはないはずだ。
「よし」
もう一度気合いを入れてからベルトポーチに手を入れる。片手の塞がるバッグよりは、両手の空くこっちの方がいいだろうと思って、執務室にあったものを拝借してきたのだ。
スティーブンさんから渡された紙地図を取り出して広げる。ここはまだ袋小路の突き当たりで、そしてこの袋小路自体にも術をかけているため、一般人が誤って迷い込んでくることもない。つまり機密情報が記された紙地図を遠慮なく広げても問題はないということだ。
「えーと」
ガサガサと地図を広げる。HLの細かなマップ。表だけではなく裏通りまで網羅されている緻密さだけれど、崩落と再構成の恐れがあるため、この細かさを鵜呑みにはできない。でも大体の目安にはなるはずだ。
「…えーと」
地図に向かって目を凝らす。ここが公園で、ここが地下鉄の駅で、ここが美術館だから……。鼻に皺を寄せて目を凝らす。スティーブンさんが付けた印の場所は大体わかる。なにせ赤い丸印で囲われているのだから。近くの観光地や高層ビルと引き合わせれば、印の場所にはおおよその見当がつく。
――しかし。
「……え〜〜〜〜っと……」
眉間にまで皺を刻んで唸り声を上げる。
私は、今、どこにいるんだろう。
地図を上下逆にしてみる。――わからない。首を傾げて角度を変えてみる。――わからない。裏から透かしてみる。――わかるはずもない。
「あああああ!!!!」
捻じ込んでおいたスマートフォンをサッと取り出した。出てこい! 地図アプリ! 君に決めた! と思いながらアイコンを押してGPSを起動させる。LOADING。待つこと数秒。起ち上がった画面には紙地図とほとんど同じマップが表示されていたけれど、決定的に違うところが一点あった。
「ここか!」
紙地図と電子地図を見比べて当たりを付ける。画面上の電子地図にポツリと灯った赤いアイコン。ユーザーの現在地を示すそれは、衛星を使って測定されたものだ。霧に包まれたHLは物理的な接触には強情だけれど、電波には案外寛容なのだ。
(スティーブンさんも参照する分には、ネットマップ使っても構わないって言ってくれてたし)
それに現在地さえわかれば後はこちらのものだ。ここから一番近い丸印を確認する。ついでにその近くで目印になりそうな建物と、その方角も頭に入れておく。
「うん、完璧」
自画自賛して紙地図を畳む。情報の書き込まれているこれは、あまり人前で広げない方がいいだろう。代わりにスマホを手に取った。丸印の位置は書き込めないけれど、頭の中には入っている。道に迷いそうになったら、現在地のアイコンと頭の中の地図を比べてみればいい。
「よーし」
何度目かの気合いと共に、私は意気揚々と大通りへ足を踏み出した。
そして程なくして道に迷った。
「何でだ!!」
スマホを握り締めて私は叫んだ。頼みの綱であり私の杖でもある現代科学の結晶は、今や無用の長物と化していた。こんなのただの板切れと一緒だ。
「何で裏通り指してるの!? 私いま表通りにいるんだよ!? 裏通りになんて一度も入ってないのに何でそこから出てこないの!?」
ただの板切れを叱り飛ばしながら現在地を再読み込みする。――変わらない。アプリを再起動させてみる。――変わらない。自棄になってスマホをシャカシャカ振ってみる。――変わるわけがない。
「もお〜〜〜〜!! この!! この!! このおバカ携帯め!!」
毒づいてみても変わらない。私はシャッターの下りている店の軒先で項垂れた。
確かにGPSが混乱するような挙動を取ったかもしれない。でも私だって好きで不審者めいた動きをしていたわけではないのだ。通り抜けようと思っていたアベニューがHLPDによって封鎖されていたり、使おうと思っていたアベニューが流れ弾と刃物の飛び交う戦場と化していたり、ならばと選んだアベニューでは空から降ってきた大型異界人が通り全体を踏み潰してしまい――あっちにこっちに進路を変えて、迂回をさせられ、そうしてやっとの思いで最初の丸印付近に近づいたかと思いきや、今度はGPSがアホになった。
「……私が何したっていうのよ……」
何もしていない。いやできてすらいない。
裏通りが危険なことは百も承知だったから、遠回りになったとしても大通りを選んだ。その大通りを歩いている最中だって周囲に気を配っていた。だからここまで絡まれることもなく無事に歩いてこれたのだ。
でもそれだけだ。スティーブンさんに言われたことは何ひとつできていないどころか、印の場所にすら辿り着けていない。
私は唇を噛んで俯いた。
「…………」
「しゃーべんばーれるぶっべ!!!! ぶっべ!!!! ぶっべぼば!!!!」
「ぱ――――ッ!!!!」
「ぴゃ――――ッ!!!!」
「ポウッ!!」
「「「「ポッポッポッポッポッポッ!!!!!!」」」」
「…………」
シリアスに浸りたいところだったのだが、この通りではさっきから薬か何かをキメキメしている住民たちが車道に歩道に繰り出して辺り一帯をダンスホールと宴会場に染め上げている。だから私がお店の軒先で、ちょっと奇声を上げて地団駄を踏んでいたくらいではみんな見向きもしない。それよりキメキメ住民たちの金切り声と、まともな住民たちの怒鳴り声と、通るに通れない車たちのクラクションで、てんやわんやなのだ。たぶん私の声を拾った人すらいないんじゃないかと思う。
とうとう服まで脱ぎ始めた薬中たちのドンチャン騒ぎを、物悲しい気持ちで観賞しながら考える。スティーブンさんに電話をしようか。道に迷ってしまいました。そう泣きつこうか。たぶんスティーブンさんは笑わない。真剣な声で、すぐに対応してくれるだろう。
(でも呆れられるだろうな)
言われた場所を言われた通りに回ることすらできないんだって思われるんだろうな。
(そしてもう二度と、ひとりでは任せてもらえないんだろうな)
私は黙ってスマホの画面を見つめた。表示されている地図を見つめた。
――そうなるのは、すごく、いやだ。
「よし」
小さく頷いて通りに向き直る。表示されている地図と、周囲を見比べる。真正面に銀行があって、少し先にファストフードのお店があって、反対側にはレストランがあって……。
(だから、たぶん、ここは…………あれ、もしかして全然違う場所見てる?)
自分が今いる通りと、拡大表示して見ている通りは、丸きり別物のような気がする。もしかすると少し前から、現在地アイコンはおかしかったのかもしれない。
(ええっと)
地図をスワイプして動かす。嫌な汗がじわじわと浮かんできた。行く場所はわかっているのだ。ちゃんと覚えている。でも自分が今どこにいるのかわからない。わからないから、行き先も方角も見えてこない。
「ここまでは、ちゃんと来れてて……その時にはこの病院が見えてたから……ええと……それで……」
「お困りですか?」
「!!」
びっくりしすぎて、危うくスマホを落としかけた。慌てて胸に抱き込んでから声のした方を見上げると、ヒューマーの男性が二人、にこにこと笑って私を見ていた。
「……え、えっと……」
「もしかして道に迷われてるんじゃないかなって! 思ったんですけど!」
「驚かせちゃってごめんね!」
背後で暴れ回っている薬中たちに負けじと、声を張り上げながら尋ねてくる。
そうか。私は雷に打たれたような気分で思った。道がわからないなら人に訊いてみればいいのだ。何も丸印の場所を直接指名しなくても、印の近くの建造物名を挙げて、そこまでの道のりを教えてもらえばいい。
「あ! あの!」
彼らに倣って叫ぶように声を出す。
「タイムズスクエアまで行きたいんですけど!」
「フェイクの方!? リアルの方!?」
「えっ……」
二つあるのか。そんな話聞いていない。
私の狼狽を読み取ったのだろう、彼らは顔を見合わせてから補足してくれた。
「最近になって、タイムズスクエアにすごくよく似た、フェイクタイムズが出現したんだけど! でもその様子だとそれ知らなかったみたいだから、リアルの方でいいのかな!」
「もしかして観光に来たの!?」
こんな渡航警告が出されている都市に、女性ひとりで観光になんか普通来るものなのだろうか、と思いながらも、他に上手い言い訳も思いつかなかったのでとりあえず頷いておく。
男性たちは再度顔を見合わせた。殊更に笑顔を深めて通りの先を指差す。
「リアル・タイムズスクエアならこの先を2ブロック直進してから信号を右に曲がって」
「いや違う右じゃなくて右斜め前の道に入るんだ」
「そうそう右斜め前の道に入ったら道なりに進んでそうしたら教会が見えてくるから」
「ポッポッポッポッポッポッポッ!!!!」
「だからパン屋は潰れてドーナツ屋になったんだって」
「マジで? それは知らなかった。じゃあそのドーナツ屋の前で道を渡って」
「ポッポッポッポッポッポッポッ!!!!」
「建物の前を左に折れたら1ブロック進んで今度は右に曲がって公園が見えてくるまで」
「ポッポッポッポッポッポッポッ!!!!」
「というわけなんだけど、わかった?」
「…………」
全然全くわからなかった。途中ハト――じゃなくて、薬中が鳴き喚いていて聞き取れなかったし。
眩暈を覚えながらワンモアプリーズしようとしたところで、男性たちの方から慈悲の手が伸ばされた。
「おれたちもその辺りまで行く予定があるから、よければ途中まで案内しましょうか!」
「えっ」
神様!? 神様なのこの人たちは!?
人の好さそうな顔でニコニコと笑う男性たちから、後光が差して見えるのはきっと気のせいじゃない。
「いいんですか!?」
男性たちは顔を見合わせてから、更に笑顔を深くした。
「もちろん! いいですよ!」
「困った時はお互いさまです!」
「ありがとうございます!」
頭を下げてお礼を述べる。一時はどうなることかと思ったけれど、こんな親切な人たちに偶然声をかけてもらえるなんて、今日の私の運勢は上々に違いない。惜しむらくは彼らが私の好みに全く掠りもしないところだけど、これ以上を求めたら罰が当たる。今はこの巡り合わせに感謝しよう。神様ありがとう!
こっちだよ、と先導する彼らの背中について行く。この時の私はホクホク気分の浮かれポンチで、だから全く気づいていなかったのだ。親切そうな仮面の裏で、舌なめずりしている獣の笑みに。