02:She




 地下の駐車場でギルベルトさんと別れた私は、ひとりで執務室に向かっていた。

 この建物に入れたということは、セキュリティをパスできたということで、つまりは送迎という名の護衛が不要になるということなのだ。

 信頼と安心のセキュリティ。ここは既に安全地帯だった。突然地面がぱっくり割れて片足が無くなることもないし、薬をキメすぎて前後不覚状態に陥った人類ないし異界人に何の謂われもなく襲われることもないし、技術の目覚ましい発達により昨今ではほとんど透明人間と同義の光学迷彩人間に尾行される心配もない。そういう不穏分子はセキュリティくんが完全にシャットアウトしてくれる。

 こちらが何も言わずとも、判断し分別し弾いてくれる有能なセキュリティくんは、建物全体に張り巡らされていて、だからライブラ本部にはミミズだってオケラだってアメンボだって侵入できないのだ。

 それをわかっているからこそ、ギルベルトさんも地下駐車場で私を降ろした後、安心してお兄様のお迎えに行かれるし、私も大手を振って廊下を歩けるというわけなのだ。

 ちなみにこのセキュリティは私を含めた呪術師や魔術師たちによる共同制作で、お互いの苦手分野をカバーし合いながら練り上げていったものだったりする。そういう意味でも信頼と安心のセキュリティ設計なのだ。

 この街に来たばかりの頃、こなした仕事のひとつだった。いや今も背中にHL若葉マークを背負っているような身分なので、ほんのひと月前とかその辺りの話になるんだけど。

(ひと月かあ)

 その日数に比してやたらに濃密さを感じる理由と言えば、それはこの街の特殊性に他ならないだろう。なにせ来HLして早々に、血界の眷属なんぞと出くわしてしまう街なのだから、ここは。それも家電量販店なんて非常に所帯じみた場所で。……そういえばあのBBはあの場所で何をしていたのだろう。炊飯器でも壊れたんだろうか。

 なんてことをつらつらと考えながら執務室のドアを開けた私は、そこに意外な顔を見つけて驚いてしまった。

「あれ、K・Kさん?」

 驚く私とは対照的に、迎えるK・Kさんの顔に驚きは見られない。けどそんなのは当たり前だ。入室者の氏名を前もってアナウンスするよう、セキュリティを組んだのは私たちなのだから。

 K・Kさんはソファの肘掛部分に軽く腰掛けたまま、ひらひらと手を振ってみせた。

「ライトちゃんお久しぶり〜。今から出勤?」
「そうなんです。K・Kさんは?」
「さっき片付け終わったトコロ」

 そう言ってにっこりと笑うK・Kさんの右目は眼帯で覆われている。黒く大きなアイパッチ。その下に秘されているものを私は知らないけれど、それで右目が覆われていてもK・Kさんの笑顔は屈託なく朗らかだ。二児のお母さんにはとても見えない。けど実際にはガチでママさんのうえ、長男くんはそこそこ大きいというのだから驚いてしまう。

 そんなK・Kさんなので、彼女は仕事が終わると直帰してしまうことが多い。お子さんの送り迎えやご飯の支度に日々追われているからだ。彼女はライブラの名射撃手である前に、家庭を支えるお母さんでもある。

 だからK・Kさんが本部の、しかも執務室で手持無沙汰にしているところなんて、私はHLに来てから初めて目撃した。

「そうだったんですか、お疲れさまです」

 持ち込んだ巾着袋をテーブルの上に置きながら、私は素直に驚きを口にした。

「でも珍しいですね、驚いちゃいました。仕事終わりのK・Kさんがここにいる――」

 なんて。と言い終わる前に私は飛びつかれていた。

「アタシだってアタシだってアタシだってね〜え〜!?!? 好きでここまで押しかけてるわけじゃないのよ―――う!?!?」

 ソファを蹴っ飛ばす勢いでビョーンと飛んできたK・Kさんは、私を羽交い絞めにするとオイオイと泣き出した。

 苦しい。と訴えるに訴えられないまま、私は半分以上潰れた顔で何とか答える。

「あ、ああ…。アレですか、また…スティーブンさんと…何か…」
「ア゙ア゙――――!!!!」

 名前を出した途端にKKさんは吼えた。

「あンの腹黒陰険男――ッ!!!!」

 とても母親らしからぬ、いやその前に女性らしからぬポーズと形相で、炎を撒き散らすK・Kさん。今にもスティーブンさんを取って食いそうな勢いだ。でもそのおかげで私はK・Kさんのハグホールドから脱出することができた。

 ふう。とりあえず息を吐いて、執務室の中を見回してみる。当たり前だけどスティーブンさんの姿はない。

「それで、その腹黒さんは今どこに?」
「緊急の電話が入ったとか何とかで、隣の部屋に逃げてったわよ! どーーせ嘘八百でしょうけどネッ!」

 隣室に続くドアを睨みながら「ケッ」と下唇を突き出してみせるK・Kさんの顔には、さっきの朗らかさは欠片も見当たらない。

 そうなのだ、何故かK・Kさんはスティーブンさんのことになると、鬼のようになってしまうのだ。阿修羅化するのはスティーブンさんに対してのみなので、たぶん過去に何かがあったのだろうけど、誰に対しても気さくで優しいK・Kさんがここまで眦を吊り上げるのだから、余程のことがあったに違いない。と予測している。勝手に。本人には怖くて訊けないので。

 私も一緒になって隣に続くドアを見た。

「私、呼んできましょうか?」
「いいわよ、もう。アタシもそろそろ子供のお迎えに出なきゃならない時間だし」

 そう言って疲れたように険しい表情を解いてから、それでもK・Kさんは不穏気に肩を揺らして笑った。

「まぁ隣の部屋の腹黒がこれを見越して逃げたんだと思うと、腸煮えくり返るけどねウッフッフッフッフッフッフ」

 どの返事がベストかわからず、私はとりあえず曖昧に笑っておいた。

「伝えておきますよ。K・Kさんが怒ってたって」
「ブッ殺すも加えておいて」
「りょうかいでーす」

 剣呑だなあ、と思いながらも笑って頷く。

 すると不意に、K・Kさんが顔を上げて私を見てきた。眉間の皺を揉むのを止めて、じっと探るように私を見てくる。

「元気?」

 唐突な質問に私は首を傾げた。傾げながらも頷いておく。元気か元気じゃないかと訊かれたら、心身ともに健康なのだから元気ということになるだろう。

「はい、元気です」

 そっか、と言ってK・Kさんは優しく笑った。手を伸ばして、私の頭を軽く撫でてくる。

「何か困ったことがあったら遠慮なく頼んなさいね。ここに出入りしてるのってヤローばっかだからさ、言い出し辛いこともあるじゃない? そういう時はアタシか、アタシに言いにくいときはチェインもいるし」

 突然のことにびっくりしてしまった私は、「はい」と頷くだけで精一杯だった。K・Kさんは「よしよし」と笑って、私の頭をぐりぐりと撫でる。

 撫でられるがまま右に左に揺れながら、私はすごく戸惑っていた。K・Kさんがまるでお母さんみたいに思えてしまったからだ。いやK・Kさんは二児の母親なんだけども、私のお母さんではない。というのに、私は一瞬、自分がK・Kさんの子供になったような、妙な気分に襲われてしまったのだ。

 それは、私がそういったものと縁遠い生活を送ってきたせいかもしれない。K・Kさんに撫でられて乱れた髪先を、手櫛で整えながら、私は自分の勘違いを恥ずかしく思った。K・Kさんは同性として、そして職場の先輩として、私を気遣ってくれているだけだというのに。何を甘えているのだろう、私は。

 軽く息を吸って自分自身を取り戻す。

「そうですよね、ここ、男の人ばかりですもんね」
「でしょお? しかもライトちゃんぐらいの年の女の子なんて数えるほどしかいないじゃない? アタシなんだか心配で」

 思い返してみると、HLに来てから引き合わされたライブラの構成員の中に、女性はあまりいなかった気がする。同性且つ歳の近いチェインさんは、正確に言えば人狼局の所属なので、ライブラ人員にカウントできないだろうし。

 ……言われてみると確かに、女性のメンバーは少ない。でもライブラの大元であり、私がつい先頃まで所属していた牙狩りもそんなものだったから、今まであまり気にしたことはなかった。

 ええと、この執務室によく出入りしているメンバーで考えてみても――クラウスお兄様に、スティーブンさんに、ギルベルトさんに、レオナルドくんに、ザップさんに――。

 その途端に頭の中でよみがえった絵は、連続撮影されたもののように、コマ送りで私の中を流れていった。一枚、一枚、一枚。連れの女性をエスコートする、好青年めいた笑顔で笑う、恭しく車のドアを開ける。

 一枚、一枚、一枚。

 褐色の肌に銀の髪。私の知らない顔で笑う、

「……ザップさん」
「え?」
「あ」

 口がすべった、と気づいた時には遅かった。突然出てきた人名に、当たり前だけれどK・Kさんは不思議そうな顔をしている。

 私は曖昧に微笑って誤魔化した。

「あ、いやぁ、そういえばさっき、見かけたなぁってことを思い出して」
「へええ。ここで?」
「あ、いや、外です。車の中から見かけただけなんで、どこで見たのかまでは覚えてないんですけど」
「ふうん。ザップっちって今何の仕事中だったっけ」
「たぶん非番なんじゃないですか。綺麗な女の人と一緒だったんで」
「あァら、マ」

 K・Kさんは大袈裟に眼を丸くしてみせる。そのおどけた仕草が可笑しくて、私はちょっと笑ってしまった。

 笑ってしまったら気が抜けた。頭に浮かんだ連写絵も、さっきみたいに妙な迫力を伴わない。私は余裕を持って思い出してみる。――そうだ、綺麗な人だった。

「やっぱりモテるんですね、ザップさんって。正直ちょっと疑ってたんですけど」
「疑ってたの?」
「だっていつもがいつもじゃないですか」

 レオナルドくんには陰毛陰毛って妙な絡み方ばかりしてるし、チェインさんと口喧嘩する時には犯すぞって最低な脅し方してるし、私にはウンコの写メを見せようとしてくるし。……ちょっと思い出しただけでもこのザマだ。

 こんな悪行を日々目の当たりにしておきながら、「ザップさんってモテそうよね」なんてお花畑な思考には到底辿り着かないし、辿り着けない。外見だけを抜き取って考えれば、大きく頷いて握手まで交わせるけど、人は外面だけでできているわけではない。口を開けば肛門期真っ盛りみたいな男の人なんて、どんなにイケメンでも世の女性たちは揃って首を振るだろう。

 それなのに。

「まぁねえ」

 K・Kさんは片頬に手を当てて大きな息を吐いた。

「でも黙ってれば男前だしねえ、ザップっちも。いつも違う女の子連れてるみたいで、そこは少し心配しちゃうけど」
「……」

 いつも、違う、女の子を。

 手癖が悪いんだ。そう言っていたのは、確かスティーブンさんだったと思う。見境なく手を出そうとするから、君も気をつけておきなさい。

 ブロンドの髪を豊かに揺らして、笑っていた女の子。

「それって、深窓の御令嬢みたいな、可愛い感じの女の子でした?」
「え。ううん、そういうタイプの子と歩いてるところは見たことないわねぇ。どっちかっていうと、女の子の方も遊び慣れてる感じの……」

 ブロンドの女性に向かい爽やかに笑う横顔。

 ああそうか。私はようやく、自分の考えの落ち度に気づいて瞬いた。粗野でがさつで下品な人が、「それなのに」モテているわけじゃないんだ。そんなところを見せた場合の一般的な反応なんて、チェインさんや私から学ばずとも、とっくの昔にわかっているだろう。ザップさんはクズだけど、バカではない。だから好きな女性の前では、そういうところを隠すのだ。

 隠して接する。スマートに、紳士的に。誰からも好かれるような、素敵な笑顔で。

 目の前を覆っていた霧が、晴れていくような気持ちだった。

 私はスティーブンさんに言わなければいけない。気をつける必要なんてありませんでしたよって。何故なら向こうは私のことを、「見境なく手を出す」領域に、そもそもカウントしていなかったのだから。

 私はザップさんの眼中になかった。それなのに手を出される心配をするなんて、思い上がりも甚だしい。まるでバカみたいな勘違い女だ。

 もちろんスティーブンさんからの忠告を本気で捉えていたわけじゃない。あの人は一事が万事、大袈裟すぎるところがある。だから本気で心配していたわけでも、警戒していたわけでもない。

 けど。

(だけど)

 だけど、――何だろう?

 何なのだろう、この気持ちは。

 どうして私は――心臓を掴まれたような、そんな気持ちになっているのだろう。

「ライトちゃん?」

 唐突に顔を覗き込まれて驚いた。私は慌てて両手を振る。

「えっ、あ! すみません、何かぼうっとしちゃって。いや、ほんと、綺麗な人だったなあと思ってたら、なんか、その」
「……」

 しどろもどろで言い訳する私を、K・Kさんは黙って見つめた。その探るような眼差しに私はドキドキしてしまう。さりげなく目を逸らしながら曖昧に笑っていると、不意に鋭い音が耳をついた。

「あ!」

 K・Kさんがわたわたとスマホを取り出している。鳴り響いていた音を止めて、画面を見て、それから私に向かい拝むような仕草をしてみせた。

「ゴメン! そろそろ子供のお迎え行かなくちゃ」
「あ、いえ」

 私は慌てて首を振った。そういえばさっき、そんなことを言っていた。それなのに話し込んでしまって、こちらこそ悪いことをした。

「すみません、お迎えあるのに、引き留めてしまって」

 扉に向かうK・Kさんの後をついて行く。K・Kさんは笑って、私の頭をぐりぐりと撫でた。

「ライトちゃんが謝ることじゃないでしょ〜アタシが話したかったんだから。さっきも言ったけど、遠慮しない遠慮しない。――話の続きはまた近いうちにでもしましょ。今度はランチでも食べながら。ね?」
「は、はい」

 右に左に揺らされながらもかろうじて頷くと、K・Kさんは「よしよし」と太陽みたいに笑ってドアを開けた。ひらひらと手を振る。

「それじゃあね〜! 腹黒にはよろしく言っておいて〜!」

 大きな音と共に扉が閉まると、途端に室内は静かになった。シーリングファンが回る音だけが密やかに聞こえてくる。

 その静寂を破ったのは、ガチャリ、とドアノブを捻る音だった。

 私は体を反転させる。視線の先には今見ていたのと同じ両開きの扉。でもこちらの扉は廊下に――外に出るためのものではない。隣室に続く扉だった。

 その扉が細く開いている。そこから半分だけ顔を覗かせてこちらを見ているのは、スティーブンさんだった。

「……行った?」

 内緒話のボリュームで尋ねてくる。何でそんなに小声なんだろう?

 不思議に思いながらも、私はスティーブンさんに近づいた。頼まれていることがあるからだ。

「あの、スティーブンさん。私K・Kさんから伝言を預かってて…」

 うん、うん、と何に対してか頷きながら、スティーブンさんは私越しに注意深く執務室内を見渡している。まるでデスクの陰やテーブルの下から、誰かが飛び出してくるのを警戒しているような表情だ。

 一通り確認すると気が済んだのか、スティーブンさんは重いため息混じりに、ようやくドアの隙間から「よっこらせ」と出てきてくれた。

 その挙動不審さに、私は思わず疑ってしまう。

「あの…」
「あぁ、大丈夫大丈夫。伝言だろ? K・Kが息巻いてた声はちゃんと聞こえてたから」
「いや、それもあるんですけど……スティーブンさん、本当に逃げてたんですか?」

 自分のデスクに戻りかけていたスティーブンさんの背中が、ギシリと固まる。数秒の沈黙の後、スティーブンさんは嫌に真剣な顔で私に向き直った。

「聞いてくれライト。あれは不可抗力というもので、僕も僕なりに手を尽くしたつもりだったんだ」
「……えーと。それ、私じゃなくて、K・Kさんに言った方がいいと思いますよ」
「聞く耳を持ってくれないんだ」
「あぁ……」
「……」
「…………あの、スティーブンさんは、K・Kさんに一体何を」
「よぉ―――し! やめだやめ―――!! この話はぁ!! やめ――――!!」

 妙な空気を払拭するように、片腕でバタバタと空中を払ってみせるスティーブンさんのためにも、とりあえず今は口を噤むことにする。

 スティーブンさんはやけに大きな声で手を打った。

「別の話をしよう! そうだライト、頼んでいた血晶石はできあがったかい?」
「あ、はい。言われた通りに作って、持ってきました」

 そうだ、それを見せるためにも今日は本部に来たのだった。さすがスティーブンさん、如才ない話題転換だ。……これがどうしてK・Kさんに対してはできないのだろうと、不思議ではあるけれど。

 ローテーブルに置いていた巾着袋を取り上げ、スティーブンさんに手渡す。受け取ったスティーブンさんは早速袋の口を開いて、中の血晶石を検分し始めた。

 お沙汰が出るまで暇になってしまった私は、クラウスお兄様のデスクまでぶらぶらと歩いて行った。キャビネットの前にしゃがみ込む。教えられていた番号にダイヤルを合わせて開錠する。一番下の大きな引き出し。そこにひとつだけ、私物を置かせてもらっているのだ。

「カメラ、変えたんだね」

 立ち上がってすぐかけられた声に、私はびっくりしてしまった。まさかスティーブンさんがこっちを見ているとは思わなかったからだ。現にスティーブンさんはもう、血晶石の検分作業に戻っている。翳したり透かしたり近づけたり。

 侮れないなぁと私はこっそりと舌を巻く。もちろん侮るつもりなんてないんだけど、油断ならないのは確かだ。それはお兄様の紹介で初めて顔を会わせた時から、今の今まで、変わることなく続いている心証でもある。

 だから正直に言ってしまうと、私はスティーブンさんのことがちょっと怖い。未だに。底の見えない部分があるように思えてしまうからだ。K・Kさんならそれを「腹黒」と一括りにまとめ上げて罵倒できるのだろうけど、そこまで向き合える強さが私にはない。だから今でも私は、スティーブンさんにカメラを向けてしまう。

「本格的に始める気になったのかな」
「ないですよ」

 形だけは立派な一眼レフを構えて、ファインダー越しにスティーブンさんを見る。シャッターは切らない。

「ちょっと色々あって、このタイプの物を買うことになっちゃっただけで。用途は変わってないです」
「けど、持ち歩かなくなったろう? ここに置きっぱなしにしているようだし」
「よく見てますね」

 ファインダー越しに、スティーブンさんと目が合った。ドキリとする。けれどスティーブンさんはすぐに視線を戻してくれた。手元に目を落としたまま、おどけたように笑う。

「お嬢様のことなら何でもお見通しですよ」
「あはは、エスメラルダ式って、千里眼も会得できるんですか?」

 たぶんスティーブンさんは、私がスティーブンさんのことを怖がっていることに、気づいているのだと思う。

 ファインダーから目を離して、私はずっしりと重い一眼レフに指をすべらせた。

「持ち歩くには重くて不便だから、置いて帰ってるだけですよ。首から提げとくのも不安なんですよね。剥き出しのままって、何だかすぐに壊れちゃいそうで」

 特にこの街では、いつ何時、どんな天変地異が起こってもおかしくない。その時たまたま持ち歩いていたせいで、この一眼レフまでをおじゃんにはしたくなかった。服なら新しいのを買えばいいし、怪我なら治療すれば治るけど、この一眼レフはひとつしかないからだ。一度壊れてしまったら、同じ物は二度と手に入らない。だからなるべく、この執務室に置いて帰ることにしているのだ。

「大事にしてるんだね」

 スティーブンさんからの素直な感想に、私は何故だか胸を衝かれてしまった。壊れるのが嫌で置いて帰っていると聞いたら、誰だってそう思うだろう。大事にしてるんだね。

(大事です)

 ひょんなことから転がり込んできた子だけど、定価分は支払ったし、それなりの買い物だったし、BBという死線を一緒に潜り抜けたんだし……。

(それに)

 お腹の上に置かれたカメラ。動けないぐらい疲弊しきっていた私だけでなく、あの人は、私が握っていたというカメラまで一緒に回収してくれたのだ。

(だからこれは――)

 大事にしてるんだね。

 …………そうだ。スティーブンさんに伝えなければいけないことがあったんだ。ザップさんが私に手を出すことはないですよって。いらない心配ですよって。ザップさんは私をそういう対象としては見ていないんですからって。

 伝えなくちゃいけないのに、どうしてだかひどく口が重い。

「それなら、持ち歩き用にもう1つ買ったらどうかな」

 顔を上げると、スティーブンさんがにっこり笑って私を見ていた。

「それぐらいのお金なら僕が出してあげるよ」

 私は思わず苦笑してしまう。初めて会った時から、こんなふうにして、スティーブンさんは親切だった。度が過ぎたように優しくしてくれた。でもそれはたぶん、クラウスお兄様に倣ってるだけなのだと思う。

「スティーブンさん、お兄様と同じこと言ってる」
「ありゃ、先を越されてたか。それでクラウスは?」
「ギルベルトさんに叱られてました」
「ギルベルトさんか。それはちょっと難敵だなぁ」

 私は笑って首を振る。

「私ならこの子で十分です。いざとなったらスマホのカメラ機能だってありますし」

 それより、と言って私は、スティーブンさんの手元に目を遣った。

「どうですか、石の方は」
「ああ、うん、完璧だよ。さすがライトだ」

 最大級の賛辞に対して、私は苦笑することでコメントを避けた。そう言われる気がしていたからだ。スティーブンさんは私のことを褒めてくれる。いつも、いつでも。

「それで、この石をどこかに置いてくるんですよね?」
「うん。この地図の、印の付けてある場所に置いてきて欲しいんだ」

 そう言ってスティーブンさんは自席を離れ、ソファの並ぶローテーブルにマップを広げてみせた。ガサガサと音を立てて広げられた紙地図には、紐育(ニューヨーク)に似ているようで似ていない街の縮図が印刷されている。一夜にして異世界と交わり、崩落し再構成された後遺症だ。全体を見れば紐育に見えなくもないけれど、細部を精査すればとても紐育なんて言えないことがわかってくる。しかもこの街は未だに土地が変容しているというのだから驚きだ。

「向きとか位置とか、細かいことは任せるよ。音と映像が十分に拾えそうならどこでも構わない」
「わかりました」
「それじゃあ――」

 赤い丸印の入った紙地図を小さく折り畳んで、スティーブンさんはそれを私に手渡してくる。

「はい、無くさないようにね。用が済んだら燃やすか、もしくは持って帰って――ん、どうかした?」

 私が妙な顔をしていることに気づいたのだろう、首を傾げるスティーブンさんに、私はちょっと迷ってから口を開いた。

「あ、いえ……ずいぶんアナログなんだなと思って」

 ああ、と言ってスティーブンさんは、納得したように頷いた。

 未だに小規模な崩落と再構成を繰り返しているこの街で、紙地図はあまり有益ではない。測量し作成し印刷に回している段階で、また新たな崩落と再構成が生じてしまうからだ。だからHLの住人は専ら、ネット上の地図を頼りに生活している。これなら崩落と再構成が生じても、修正と更新が容易だからだ。モノによっては住人たちから寄せられたリアルタイム情報を、マッピングしているアプリもあるという。

 そんな風潮の中で、情報精度として後手に回るかもしれない紙地図を、敢えて採用しているスティーブンさんの思惑がよくわからなかったのだ。

「確かにネットマップは利便性が高いし、今回の任務においても、参照するぶんには構わないんだけど」

 言いながらスティーブンさんは、自身のスマートフォンを示してみせた。

「電波から端末に入り込んで、情報をスティールしていく輩もいる世界だからね、ここは。情報戦においてはむしろアナログの方が好まれるんだよ。ネットマップに書き込んだ情報は誰かに覗き見される心配があるけど、紙地図に付けた印なら、現物を奪われない限りは安心だからね。だからウチも、電子戦よりアナログ戦に長けた人狼局と手を組んでいて――」

 そこでスティーブンさんは急に言葉を切って、スマホの画面に目を遣った。

「――と。そうそう、人狼局ついでにチェインなんだけど。前の仕事が押してるみたいでね、悪いけどもうしばらくはここで待機してもらうことになりそうだ」
「それは、構いませんけど…」

 スティーブンさんの口振りからして、私はチェインさんと街を回ることになりそうだった。それは構わない。チェインさんとは仲良くさせてもらっている。きっとお喋りでもしながら楽しく任務に当たれるだろう。

 ただ――。

「私、1人でも大丈夫ですよ」

 そう言うとスティーブンさんは、弱ったように優しく微笑った。ワガママを言い出した子供をどう宥めようか、言いくるめようか、思案するような柔らかな微笑だ。

 予想通りで見慣れた笑顔に、私は少し落胆する。

「ライト、決して誤解しないで聞いて欲しいんだけど……。君の実力を侮っているわけでも、過小評価しているわけでもないんだ。ただやはり、後方支援を主体としてきた君にとって、この街は少し――」
「この前のBBのことですよね」
「……。心配性なおじさんを安心させるためだと思って、聞き入れてくれたら嬉しいんだけど」

 どうかな、とお伺いを立てるような口調で、スティーブンさんは尋ねてくる。

 私は咄嗟に口を開き――思い余って、唇を噛んだ。

 この街は危険だ。あらゆる場所がレッド・ゾーンだ。ただ道を歩いているだけで死んでしまう可能性だって十分にある。それはわかっている。スティーブンさんを――クラウスお兄様を、ギルベルトさんを――困らせることは本意ではない。彼らは私に意地悪をしているわけではなく、身の安全を案じてくれているだけなのだ。その心遣いを踏みにじるような真似はしたくない。彼らがそうであってくれと望むなら、そうであろうと思っている。

(ただ――)

 ただ、時折、どうしようもなく虚しくなる。ひとりじゃ何もできないバカ女みたいで、自分のことがイヤになる。それだけだ。

 わかりました、と言って私は笑った。

「ワガママ言ってごめんなさい。ここで待ってたらいいんですよね。それじゃあ私その間に――」
「ライト」

 HLの各所で潜伏している構成員たちから、日々上げられてくるレポートには目新しいことばかりが書き連ねてあって、面白いし勉強にもなる。チェインさんが来るまでそれで時間を潰しておこうと思った私だったけど、何故かスティーブンさんに呼び止められてしまった。

 ジェスチャーで、ソファに座るよう促される。

 不思議に思いながらも、大人しく戻って二人用のソファに腰を下ろす。もっとこっち、と言うように手招かれたので、スティーブンさんがしゃがみ込んでいる方へにじり寄った。

 スティーブンさんはにっこり笑って、血晶石の入った巾着袋を私の膝の上に置いた。

「いいよ」
「え?」
「1人で行っておいで」

 突然の言葉に反応ができず、私はまじまじとスティーブンさんを見つめた。

「……いいんですか?」
「防殻用の石は持っているだろう?」

 私は急いで頷いた。それならいつも持ち歩いている。あの家電量販店でBBと出くわしてからは、多めに持ち歩くようにもなった。

「だったら最悪命まで取られることはないだろう。何事も経験だからね。始めてみなくちゃどう転ぶかわからない。それに君は一応、社会勉強も兼ねてこちらに来ているわけだし」

 だから行っておいで、と言ってスティーブンさんは、下から私を覗き込むようにして微笑んだ。

「ただし、少しでも不安や危険を感じたらすぐに知らせること。いいね?」
「…! はい!」

 膝の上の巾着袋を握り締めて、私は何度も頷いた。

 そんな私の反応に微笑ってから、スティーブンさんは膝に手を突いて立ち上がる。軽く伸びをするその背中を、私は黙って見上げた。たぶんスティーブンさんは、私のことをそこまで大事には思っていない。クラウスお兄様がそうしているから、それに倣っているだけなのだ。でもだからこそ、スティーブンさんは私にチャンスをくれた。

「スティーブンさん」

 肩越しに見下ろしてくるその眼に向かって、私はお礼を言う。

「ありがとう」

 頑張らなくちゃ。ひとりでもきちんとできるところを、みんなに見せなくちゃ。

 昂ぶる熱を持て余しながらも、心の中で固く決意する。

 スティーブンさんは困ったように微笑って、そんな私を見下ろしていた。





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