01:She




「あっ」

 思わず声が洩れていた。あっ、やばい。私は尻をツルッと滑らせて革の座席に深く沈み込むことにした。咄嗟の判断だったけど、なかなか良い隠れ方をしたと思う。

 ほっと胸を撫で下ろしていると、運転席のギルベルトさんと目が合った。無言の問いを向けられたので、とりあえず、曖昧な笑顔を返しておく。思った通り、ギルベルトさんはそれ以上追及の手を伸ばしてはこなかった。執事という役職からか、ギルベルトさんは無闇な詮索なんてしない人なのだ。それでいてこちらが一を言う前に十を知っていたりする人なので、専属執事ってのは恐ろしい。

 だから私が後部座席でずり落ちかけている原因なんて、とっくに見抜かれているのかもしれない。それでもギルベルトさんは穏やかに瞬いた後、目線をフロントガラスに戻してくれた。

 信号はまだ赤を灯したままで、周囲の車も同じように車体を震わせたまま停止している。

 座席からずり落ちかけたまま、私はどうしようか少し迷った。このままやり過ごしてしまおうか。でもやり過ごす理由がわからない。そう、理由がわからないのだ。隠れた原因は明白だけれど、隠れるという手段を選んだ、その思考回路がわからない。

 どうして私は隠れてしまったのだろう。自分自身の反応を思い返す。さっきの咄嗟の反応。「あっ」はわかる。驚いたのだ。それはわかるけど、「やばい」って何だ。何がやばいんだ。ざわざわと揺れ動く人波の中から、知人の顔を見つけただけだっていうのに。

(……)

 無理な姿勢を続けていたせいか、いい加減腰が痛くなってきた。私はアームレストに腕を置き、そこを軸にしてちょっと体を持ち上げてみることにした。全体重のかけられた腕がぷるぷると震える。ぷるぷると震えながら私は体を持ち上げ、ぷるぷると震えながらドアガラス越しに外を見た。ちらりと。

 一番端の車線で信号待ちをしているクラシックカーからは、歩道の様子がよく見て取れた。行き交う人類と異界人の波。

 その中にはまだ、その人の姿があった。ザップ・レンフロ。

 銀色の髪と褐色の肌。珍しくスマートな笑顔を貼り付けている彼は、路上駐車している車のドアを開けてあげていた。連れの女性のために。紳士めいた仕草で。

(…………)

 ちょっと確認するだけのつもりが、いつの間にかガン見してしまっていたらしい。「青に変わりました」というギルベルトさんの、予告にも独り言にも取れる言葉を聞いてから、ようやく我に返ったので。

 私は座席に座り直した。

 車はぐんぐんと進んで行く。交差点を通り過ぎ、右に曲がって左に曲がる。目指すはスティーブンさんの待つライブラ本部だ。言われた通りにこしらえた血晶石は巾着袋の中で眠っている。思っていたより時間がかかってしまったので、本部に顔を出すのは久しぶりだった。ギルベルトさんに迎えに来てもらって、久しぶりの本部に休み明けの子供みたいなドキドキと緊張を味わって、レオくんやチェインさんに会えるだろうかとワクワクして、そうして何気なくガラス越しに外を見て――。

(…………)

 綺麗な人だったな、と思う。ブロンドの豊かな髪を巻き巻きしていた女の人は、清楚で愛らしいワンピースを着ていた。たぶんあの人は大口を開けて笑うことなんて一生ないんだろう。くしゃみだってきっと、小鳥が鳴くみたいな可愛いものに違いない。

 そんな女の人の肩を抱いて、びっくりするぐらいに爽やかな笑顔で、紳士的なエスコートをしていた男の人は、確かに私の知人というか仕事仲間の顔だったけれど、まるで全然別人みたいだった。同じ顔をした別人みたいだった。

(やっぱりモテるんだ)

 現場を見たことがなかった私は正直に言って半信半疑だったのだ。スティーブンさんやチェインさんからは散々言い含められていたのに、どこかで話半分に捉えていたのかもしれない。だって私の知るザップさんは、粗野でがさつで下品な猿なのだ。もちろん助けてもらったことは覚えている。根っからのクズでもないと思う。良いところだってあるんだと思う。それでも私の知るザップさんは、粗野でがさつで下品で、自分のウンコの写メをひとに見せようとしてくるような度し難いバカで――。

(びっくりした)

 だからびっくりしてしまったのだ。不意打ちを食らって驚いた。だって知らなかったのだ。他の女の人の前では、ああいうふうに笑うだなんて。全然、そんなの、知らなかったから。





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