10:She




 それから。

 結局私は病院に連行されてしまった。平気だの大丈夫だのといった抵抗はするだけ無駄で、ザップさんは聞く耳なんてもってくれなかった。

 ザップさんの手によって病院に放り込まれた私は、検査だの診察だのといったフルコースメニューで迎えられた。なのに結局何の問題もなくて「ほらね」と子供みたいに拗ねたくなった。だから大丈夫って言ったでしょう。

 私の病名なんて強いて挙げるとするならば「疲労」だ。それも血晶石治癒術のおかげで、ジリジリといった低スピードながらも回復している真っ最中なのだ。

 それよりもレオくんの方が重傷だった。頭に隕石ならぬ瓦礫の破片を浴びたレオくんは、結局頭の一部を剃って何針か縫う羽目になったのだ。本人は「この歳で早くもハゲの一歩を踏み出してしまった」とか何とか言ってケラケラ笑っていたが、HLに来てから縫合手術を受けるのはこれでもう数度目だとも言うので、余計なことかもしれないけれど心配になる。

 心配と言えば、私の方もみんなに心配をかけていたようだ。クラウスお兄様からは熱烈な抱擁を受けたし、スティーブンさんには頭を撫でられた。ギルベルトさんは身の周りの世話を細々(こまごま)とこなしてくれたし、チェインさんたちは検査入院で暇している私のお見舞いに来てくれた。

 ザップにお礼を言うように、という言葉は、その時お兄様からもらったものだ。それは命令でもなく指示でもない。ただの一般常識に照らし合わせたアドバイスで、強制力なんてまるきりないのに、私にとっては何よりも雄弁な拘束になった。

 だから私は言ったのだ。御馳走させてくださいと。お礼の言葉ならもう、あの日公園で済ませてある。改めて呼び止めてまで、また頭だけを下げるのは気が引けたので、色々考えた末にご飯を奢らせてもらおうと決めたのだ。

 退院してから数日後、私はザップさんを呼び止めて言った。この前のお礼にご飯奢らせてくださいと。

 ザップさんと顔を合わせるのは久しぶりだった。あれから面倒な仕事を押しつけられたとか何とかで、ここ数日、執務室に顔を出す暇もなかったようなのだ。だからザップさんとはあの日、紫色の噴水公園で話をした日以来になる。

 あの日のことで何か言われるだろうか、からかわれるだろうか、おちょくられるだろうかと不安でいっぱいだった私は、かなり気を張っていたと思う。何が飛んできても驚かないぞと、戦闘態勢にも似た気持ちで構えていたので、だから「ケンダッジー」という簡潔明瞭な返答には肩透かしを食らったのだった。

 ……正直に言って。綺麗なお姉さんが綺麗なドレスで座ってるお店とか、綺麗なお姉さんが際どい服で座っているお店とか、もしくは綺麗なお姉さんが全裸でいるお店とか、そんなところに連行される悪夢を思い描いていただけに、有名なファストフード店の名前が出てきた時は自分の耳を疑った。

 でもザップさんはマジだったみたいだ。しかも今日の昼飯分で良いというので、私は早速近場の「ケンダッジー」に連れて行かれた。

 ビヨンドとヒューマーが列をなして並ぶ店内で、私は「メニューの端から端まで」とかいう無茶な注文を振られたらどうしようと心配していた。ザップさんならやりかねないと思ったのだ。そして慌てふためく私を見てゲラゲラと笑うに違いない。

 と半ば本気で思っていたのに、結局ザップさんが注文したのは普通のセットメニューだった。メガとか特大とかいう煽りがついていたし、通常のセットメニューよりはちょっと値の張る代物だったけど、それでもそこらのレストランでするランチに比べたら断然安い。

 それよりも、驚いたのはその量だ。ピサの斜塔並に積み上げられた肉とバンズは、見ているだけで胸やけを起こしそうになった。というのにザップさんはそれを旺盛な食欲で消費していく。同じくメガサイズのポテトも飲むように消えていった。むしろ特大サイズに怯んでいたのは私の方で、普通に注文した手元のチキンなんてほぼ手つかず状態だった。何も食べていないはずなのにお腹が膨れてしまっている。

 口周りにソースが付くのも構わずに食い散らかすザップさんは、食い散らかしながらも口を動かすのをやめなかった。今まで押しつけられていた面倒な仕事について捲し立てている。私が「はあ」とか「それはそれは」なんて生返事しか返していないのに、気がついているのかいないのか。一方的な愚痴を零しながら、ザップさんはチキンバスケットを追加注文した。

 この人、本当にモテるんだろうか。チキンの油でテカテカしているザップさんの口周りを眺めながら考える。顔は良い。顔面偏差値は高い。背格好も悪くない。連れて歩けば注目を集めるだろう。だけどそれだけのカードで女の人をとっかえひっかえして遊べるのだろうか。

 手癖が悪いんだ、と言っていたのはスティーブンさんだ。見境なく手を出そうとする。だから君も気をつけるんだよ。

 住所不特定なのよ、と言っていたのはチェインさんだ。女の家を渡り歩いて、お小遣いもらったりご飯もらったりしてるの。ヒモ? 違うわよあれはただのホームレス。乞食よ乞食。

 少なくとも女性とのランチにファストフード店を指名して、メガセットを遠慮なくドカ食いするような男性なんて私はごめんだ。溶けた氷で薄くなったドリンクを啜り考える。それとも相手が私だから、だろうか。それならまだ納得できる。舐められているのかと思うと閉口したくなるが、こんな雰囲気で女の人を手籠めにできるとは思えない。普段のザップさんはたぶんもっと格好つけているんだろう。

 ファインダーを覗き込む。

 未だになれない重さと手触りのそれは、あの時の一眼レフカメラだ。

 私は退院したその足ですぐ、店舗を経営していた会社に赴き事情を話してお金を支払った。責任者を名乗るビヨンドの男性は、御代は結構ですと恐縮していたのだが、そういうわけにもいかないのでと強引にお金を握らせた。私も半ば意地になっていたのは、クラウスお兄様なら絶対にこうすると思ったからだ。

 かくして一眼レフカメラは正式に私の物となった。コンパクトカメラが壊れた時には想像もしていなかった結末だ。本意ではないけれど、なるようになってしまった結末がこれなのだから仕方がない。

 ファインダーにはHLの往来が映っていた。種々様々な住民が闊歩する街ヘルサレムズ・ロット。先の騒動で大通りの一角が焼け野原になったばかりの街とは、とても思えない平常さだ。

 そうこうしているうちに、今度は車とバイクのドライバーが互いの運転マナーについて言い合いを始めた。周囲を巻き込んだ小競り合いになるのも時間の問題だろうな、と思いながら、早くも野次馬の輪ができ始めた渦中をファインダー越しに眺める。

「あぁ〜出た出た〜」

 おっさんくさい声を出しながらザップさんが戻ってくる。膨らんだお腹を撫でさするザップさんは、「トイレ」と言ってお店の奥に消えたのだ。とりあえずランチを終えた私たちは、お店から出ようと席を立ったところだった。

 他の人の邪魔にならないよう、お店の前で待っていた私の隣に、ザップさんが並ぶ。

「聞いてくれよ、アナコンダみたいなウンコが出てよ、思わず写メ撮っちまった。見る?」

 見ねえよ。携帯の画面を傾けられたが、私は頑なにファインダーを覗き続けた。

 カメラの先を追ったザップさんが、楽しそうな声を上げる。

「なんだあ? おいおい、ケンカかあ?」
「みたいですね」
「見学してこうぜ」
「おひとりでどうぞ」

 一眼を上空に向ける。「つまんねえの」と子供みたいに呟くザップさんの声が聞こえた。

 ファインダーには霧烟る空。ぼんやりと霞む景色。これは霧によって霞んでいる。粉塵によって霞んでいるのではない。というのに、私の眼は不透明な霧の向こうに瓦礫を見ていた。

「お前さあ」

 ザップさんが気の抜けきった声で尋ねてくる。

「風景は撮んねーの?」
「撮りませんね」
「何で」
「ヒトがキライだからです」

 ザップさんはゆっくりとした動きで葉巻を取り出した。口に咥えて、火を点ける。そうして煙をひとつ吐き出してから、ようやく「あれ?」と声を上げた。

「なあなあ、それってムジュンしてね?」
「ちょっと気がつくの遅すぎません?」
「うるせえよコノヤロウ」

 それがいまいち覇気に欠けたのは、たぶん図星だったからだろう。その証拠にザップさんは、不貞腐れたように何やらブツクサと呟いている。

 私はファインダーから目を離した。

 このカメラを触るたび、ファインダーを覗き込むたび、私はあの瓦礫の惨状と、私の取った選択について胸を痛めるだろうと思った。けれど、そう思う一方で、私は静かな確信と共に、この痛みが風化し摩耗していくであろうことも感じていた。一年後二年後三年後。きっと私の胸は今日のようには痛まなくなる。少しのひりつきと共に、懐かしさすら覚えるかもしれない。

 過去を昨日のことのように思い出せるのは、その人の気持ちがそこから動いていないからだ。そこから動いていないし、まだ動ける状態ではないから、痛みも記憶も昨日のことのように生々しい。けれど私の心は、もうあの瓦礫の惨状から一歩分離れてしまった。そうなってしまったのは、たぶんあの日、紫色の噴水が前衛的なあの公園で、涙を流してしまったからだと思う。あそこで涙を堪えていられれば、私はまだあの惨状にいた。あそこで涙を流してしまったから、私は惨状にいられなくなった。

「子供の頃の話ですよ」

 カメラを提げながら私は答える。

「子供の頃は、ヒトがキライだから、ヒトを撮ってたんです」

 自分から訊いてきたくせに、「ふうん」とザップさんはつまらなさそうに呟いた。

「可愛くねえガキだったんだな」
「ありがとうございます」
「いや褒めてねえよ」

 ザップさんはそこでひとつ煙を吐き出した。吐き出してから「あれ?」と声を上げる。

「それって今も風景を撮らねー理由にはならなくねえ?」
「それじゃあ逆に訊きますけど、空にイケメンはいるんですか? 山にイケメンはいるんですか?」
「ソウネ」

 ソウダッタワネ、と急に投げ遣りな一本調子で相槌を打つ。

「アンタはそういうやつダッタワネ」
「ありがとうございます」
「だから褒めてねえって」

 ザップさんは吸い終わった葉巻を足元に捨てた。注意しようかどうしようか、火の消えた葉巻を見つめながら考えた私は、結局見て見ぬフリをすることに決めた。

「じゃあさ」

 足元の葉巻を靴先で突きながら、ザップさんは呟く。

「何で今日は誰のことも撮らねえの」

 ある程度予想していた問いだったので、驚くことはなかった。

 私はカメラを握り締めた。レンズをザップさんの方に向け、ファインダーを覗き込む。

 それはねザップさん。私は胸の中で答えた。このカメラではまだ誰のことも、撮ってないからだよ。

 ファインダーにはザップさんの横顔。少し俯きがちな。

 バシャ、と大きな音が鳴った。それは思っていたよりも大きな音で、私もザップさんも驚いてしまう。

「あ、お前」

 撮られたことに気づいたザップさんが、「こんにゃろ」と手を伸ばしてきた。せっかくのカメラを取り上げられないよう、体を捻じって手から逃れる。その勢いのまま数歩分走って、ザップさんから距離を取った。

「どこ行くんだよバカ!」

 まだお店の前にいるザップさんが声を張り上げた。

「ギルベルトさん迎えに来んだろ!?」

 私も負けじと大声を上げる。

「歩いて帰ります!」
「お前なあ!」
「歩いて帰れます! お迎えなんかなくったって!」

 私とザップさんの間を、住民たちが通り過ぎて行った。中途半端なところで立ち止まった私という障害物を、みんな器用に避けていく。それでもあからさまに迷惑そうだ。

「あ〜あ」

 不意に、ザップさんが大きな声を上げた。不自然なほどに大袈裟なため息を吐いてから、首を鳴らして、ポケットに手を突っ込む。そうしてから私の方に近づいてきた。

 身構えている私の目の前に立ったザップさんは、気の抜けきった声で顎をしゃくった。

「ほら、歩けよ。帰るんだろ」

 私は大きく深く頷いた。そうして真面目くさった顔のまま踵を返そうとしたんだけど、だめだった。

「ザップさんザップさん」

 後ろ向きのまま歩き出す。ザップさんは面倒そうに片目を細めた。

「何だよ」
「写真撮ってもいいですか?」

 黙って中指を立てるザップさんに向かって、私は笑いながらカメラを構えた。





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