09:She




 目を開けたら空が見えた。空はいつも通りに霞がかっていたけれど、今はそこに朱色がが滲んでいた。私はぽかんと空を見上げた。この赤は夕方のそれだろうか、もしくは朝のそれだろうか、と思考を巡らせてみるけれど、バカみたいに空転するばかりでちっとも答えは出てきてくれない。

「よう」

 そこに、ぬうっと影が現れた。光を背負っているせいで全部が影になっているけれど、私を見下ろしているのはどうやらザップさんのようだった。

 私はますますぽかんとしてしまう。ザップさんを見るのはすごく久しぶりな気がしたし、声を聞くのなんて一万年ぶりくらいな気がして、心と体が追いつかなかったのだ。

「ここは公園。それはベンチ」

 “ここは”で自分の背後を指差して、“それは”で私の体の下を指差す。

「ホテル連れ込んでもよかったんだけどよ、バレたら旦那たちがうるさそーだかんな。硬いベッドだけど我慢しろよ」

 旦那たち。その言葉に触発されて、思考が急速に覚醒した。隅々にまで光が通る。

 ここは公園。それはベンチ。私はザップさんの手によって、ビルから運び出されたのだ。

 BBは。あの後は。一体どう収束したのか。疑問は次々に湧いてきたけれど、それをまくし立てるほどの体力が今の私には残されていなかった。それで結局、臨終間際の御老体のようなスカスカした声になる。

「……BB…は……?」
「旦那が密封した」

 あっさりと放り出された答え。けれどそれこそが最上の結論で、最高の終息点だった。

 ほっと息を吐く私の腹に、ザップさんは手にしていた何かを置く。

「それと、これな。返しとくぜ」

 安堵した途端に力が抜けて、もう瞬きをするのも億劫なぐらいだった。それでものろのろと視界を動かして、置かれた物を確認する。

 それはひどく見覚えのある、一眼レフタイプのカメラだった。

 ああ、と私は胸の中で絶望の声を上げる。あのカメラ売り場からこんなところまで、とうとう君はついて来てしまったというのか。

 ザップさんが視界の中から消える。どっかりと腰を下ろす音が聞こえてきたので、たぶん私の頭の方にあるベンチにでも落ち着いたのだろう。

 私は油断するとすぐもつれそうになる舌を必死に動かして、訴えた。

「……私の、じゃない……」
「ああ?」
「……私、これ、買ってない……」
「はあ〜? てめーが後生大事に握りしめてたんデスケドー?」
「……直前まで、見てただけで……会計は、してない……から……」
「だったら貰っときゃいいだろ」

 頭の向こうから、呆れたような声が聞こえてくる。

「迷惑料慰謝料お助け料込み込みでもお釣りがくらあ」
「……」

 それでも盗みは盗みだ。盗品だ。事故に託けて盗みを働くばかりでなく、それを正当化しようとするなんて、あなたの中の倫理や道徳は息をしているのか。と声を荒らげたかったけれど、もちろんそんな体力は残されていない。否定するだけで精一杯だ。

「……だめ……です……ちゃんと、お金は……払わないと……」
「ハッ、メンドクセー女」

 鼻で笑われた。笑いやがった。

 こんな男に介抱されていたのか(ベンチの上で放置されていただけだが)と思うと、ムカムカと憤りが湧き起こってくる。ザップさんはクズだと、それこそ「ザップ」という言葉に「クズ」というルビが振れそうな勢いで各方面から聞かされていたけれど、この時ほどそれを痛感したことはなかった。

 私はベンチに手のひらを突いた。突いた途端に崩れそうになったが、半ば意地になって起き上がる。

「おいバカ、寝てろって」
「……」

 元から返事をする気なんてなかったけれど、そもそもそんな余裕がなかった。

 何度か激しい眩暈に襲われ、その度に倒れ込みそうになりながらも、私はなんとか体を起こすことに成功した。ベンチの背に深く凭れかかり、上がった息を落ち着ける。腹の上のカメラは、とりあえず脇に移し置いた。

 そうしてしばらく大人しくしていると、波打っていた胸が徐々に落ち着いてくる。

 それでも先程と比べると明らかに調子は悪くなっていた。無理矢理体を起こしたせいか、座っている体勢自体が悪いのか。

 たぶん両方だろう、と思いながら、私はポケットの中に手を入れた。吐き気を堪えながら安全ピンを取り出す。ザップさんの興味深そうな視線を感じたけれど、口を開くのも怠かったので、無視を決め込みピンを指に刺した。

 切っ先が皮膚を破り、玉のような血液がぷっくりと顔を出す。その周辺を押してもう少し量を増やした。十分な量を確保してから、私は指先に神経を注ぐ。ビキッという激しい音と共に、あっという間に血液が凝固した。

 指先大の血晶となったそれを、ころりと転がし手の平に乗せる。呪文を口の中で呟きながら、血晶に向かって簡単な陣を描いた。それを幾度か繰り返し重ね掛けを施してから、手の中の粒を口の中に放る。そのまま咀嚼せずごくりと呑み込んだ。

「今のがアレか」

 一連の作業を終えて一息吐いているところに、ザップさんが口を出してきた。

「お前のー……その、リサイクル式なんちゃら」

 私は横を向く。隣のベンチとは少し距離があった。ザップさんは片膝を立てて座っている。行儀の悪い人だ。

「全然違いますけど、もうそれでいいです」
「ああん!?」

 自分で血を出して自分で呑んだのだから、まぁある意味リサイクルだろう。と思って譲歩してあげたのだが、それはザップさんのお気に召さなかったらしい。凄まれてしまった。

 私は小さく息を吐く。呑み込んだ血晶が体内で活動しているのがわかった。体があたたかくなってくる。

「私のは、今みたいに血を固めることができるんです。言い替えれば、それしかできることがありません。血の凝固なんて基礎の基礎なんですけどね。
 だからウチの家系は、代わりに呪術を始めとした魔術系の習得に力を入れたんです。血を固めた血晶に術を吹き込むと、普通に術を起こした時よりも威力が底上げされることがわかってからは、他の流派に遅れを取ることはなくなりました」

 なるべくザップさんの方には顔を向けず、前を見据えたまま私は話した。

 この公園はあの現場からどれだけ離れているのだろう。あの事件の余波なのか、私たち以外の住民の姿は園内に見当たらなかった。時折鳥、もしくは鳥らしき生物が、妙な声を上げながらバッサバッサと羽ばたいていく姿が見えるのみだ。

 園の真ん中には噴水があった。紫色の噴水なんてなかなかに前衛的だ。

「ただその場合の欠点は、弾数が限られてしまうことです。お兄様たちの遣う戦闘術にほぼ制限はありませんが、術を込めた血晶には限りがあります。今日の私の手持ちは、防衛用の血晶が2つきりでした。BBを足止めするためには直に術を遣うしかなくて、だけど血晶というチートアイテムの媒介がない状態では、私たちは普通の術師より劣るんです。そんな状態で足止めを続けたから、無理が祟ってガタがきました。それだけです。
 さっき飲んだのは、治癒用の術を編み込んだ血晶で、エネルギードリンクみたいなものです。外傷は、防衛用の血晶が守ってくれたんで無傷です。このまま大人しくしていれば、そのうち勝手に回復すると思います。病院に行く必要はありません」

 そこでちょっと一呼吸置く。まだまだ万全の状態には程遠いが、喋ることすらままならなかった先程と比べるとずいぶん回復した。呑み込んだ血晶石が体内で働いているのが感じられる。手足の先にまであたたかなエネルギーが沁み渡っている。

 意を決して、私はザップさんに向き直った。顔は見ないまま頭だけ下げる。

「だからもう大丈夫です。面倒かけてすみませんでした」

 待つこと数秒。うんともすんとも反応がない。

「…あの、ザップさん?」

 訝しんで顔を上げると、ザップさんは耳をほじっていた。そしてほじりながらのたまった。

「話が長え」

 ぶっ殺してやろうかと思った。

「うおーすげえ耳クソが取れた。見る?」

 見ねえよ。私は心の中で舌打ちをする。

「……。もう帰ってもらって結構です。お疲れさまでした」

 非常に不本意だが、実際お世話になったことはお世話になったのだ。だからここでキレたらいけない。理性を総員戦闘配置させて私はもう一度頭を下げる。

「じゃあさー、何であん時旦那を拒否ったのー?」

 下げた頭に声が振ってくる。は? と私は顔を上げた。

「俺が旦那呼んだ時、お前やめろって言ったじゃん」
「……」

 朧気に記憶がよみがえってくる。よみがえってきたそれを直視したくなくて、私は目を伏せた。

「言ってません」
「言ってたろ、目が」
「…………」
「首振ったろ、首」

 どうあっても言い逃れは許さない。軽いトーンに反して、そんなプレッシャーが言葉の端々から感じられて、私は唇を噛んだ。

 頭の隅で、チラチラと映像が瞬く。瓦礫の山、瓦礫の山、瓦礫の山。山から見える腕と脚と体。血の臭い。

 奪うか、奪わないか。

「……。グールの数、どうでした。多かったですか」
「いや少なかった。あー、なんか番頭が、それもお前のおかげっつってたな」

 思い出したように言葉を付け足す。私は自分の膝小僧を見つめた。

「リスタルク流血晶術は、自分の血を固めることもできますが、相手の血を固めることもできるんです」
「へえ」
「ただし、相手は任意で選べません。自分を中心に、半径何ヤード以内の血液を結晶化させる。そういう能力です」

 声は次第に震えを帯びてきた。極力抑えようと努めたのだが、そうすると今度は目頭が熱くなってくる。

 このままではザップさんにバレてしまうと思った。それはイヤだった。死んでもイヤだと思うのに、ならどうして私は、ご丁寧に一から説明なんてしてるのだろう。プレッシャーをかけられたといっても、殺されるわけじゃない。多少の押し問答はあったとしても、白を切り通すことはできたはずだ。

「13階にいたはずの私は、気がついたら1階にまで落とされていました。周りにはそうやって落とされた人と、落ちてきた人に潰された人がたくさんいました。瓦礫の山でした。生きてる人はいなかったと思います。でも奇跡的に助かった人もいたかもしれない。いたかもしれないのに、私はそんな人たちも、まとめて、全員、結晶に」

 たぶん、私は話したいのだ。ただ単純に、話してしまいたいだけなのだ。自分の中で抱えあぐねている問題を、言葉にして少しでも押し流してしまいたいだけなのだ。だからきっと、相手は誰でもいい。ザップさんでなくてもいい。それこそ、鳥でもベンチでも噴水でもいいのだ。

「お前さあ」
「わかってます。そんなこと、言い出したらキリがありません。1人1人の安否を確認する余裕なんてなかった。あれは私が選んだことです。後悔なんてしてません。――ただ、その折り合いが、まだ自分の中でつけられてなくて、そんな気持ちでお兄様の前に出たくなかっただけなんです」

 最後の方は口調が荒くなってしまった。それでも私の心は妙な達成感に満たされていた。どうだ、最後まで説明してやったぞ。どうだ、これで満足だろう。と謎の王様が横柄にふんぞり返っている。

 その一方で私は、ザップさんの次の言葉を怯えながら待っていた。どうしてそんな心境になるのかは自分でもわからない。話してしまいたいだけなのに、反応が怖いなんて矛盾している。それでも私の全神経は、ザップさんに注がれていた。体全部が耳になってしまったようだった。

 そうしてザップさんは言ったのだ。ため息混じりに。

「メンドクセー女」

 心臓がぐしゃりと音を立てて潰れた。ような気がした。

 ショックだったのか、納得したのか、泣きたいのか、憤りたいのか、自分でも自分の感情がわからなかった。私は強く膝小僧を見つめた。強く強く見つめた。

「わかってます。だからもう帰ってもらって結構で――」

 どっこいしょ、という声が間近から聞こえて、私は飛び上がった。

 すぐ隣に、ザップさんがいる。移動してきたのだ。

「な、なな、何でこっち来るんですか!」

 脚を組んだザップさんは、気怠そうに私の顔を覗き込んだ。

「泣いてんの?」
「――っ! 泣いてません!」

 我ながらヒステリックな声になってしまったと思う。パニックと自己嫌悪に混乱しながら顔を逸らす。紫色の噴水。

 隣から、ザップさんが距離を詰めてくる。唇を噛んでその分距離を空けると、またその分詰め返された。とうとう端にまで追いやられた私は取り乱して叫んだ。

「何ですか! 何なんですか!」
「いや逃げるからつい」
「何なんですか! 意味がわからないんですけど!」
「泣かねーの?」
「泣きませんってば!」
「泣けば?」

 不意にやさしい声で問われて、不覚にも言葉に詰まった。

 ぐるぐるする。頭の中がぐるぐるする。思考は乱れてまとまってくれない。何が正解なのかわからない。

 瓦礫の山、瓦礫の山、瓦礫の山。腕と脚と体。

 私はザップさんの胸を力いっぱい押し返した。

「絶ッ対! 泣きません!」

 押し返されたザップさんは、予想に反して、されるがままだった。空いた分の距離を詰めようともしない。

「あっそ」

 片頬で微笑って、ベンチの背に肘を引っ掛けた。胸ポケットから葉巻を取り出して口に咥える。

 私は何故だか、無性に敗北したような気分になって、唇を噛み前を向いた。紫色の噴水を睨むけれど、噴水は徐々に歪んできてしまう。

 私は奥歯を噛み締めた。両脚を胸の方に引き寄せて、ベンチに座り込む。両眼は膝小僧に押し当てた。

 泣いてるの? とはもう訊かれなかった。泣いてる時に訊かないなんて、本当にこの人はクズだと思った。





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