07:She




 反転する天地、落下、耳を聾する轟音。

 何が起きたのかわからなかった。気がついた時にはもう、私を覆っていた「防殻」の膜が、はらりはらりと剥がれ落ちていくところだった。

 視界が霞んでいる。いや、私の眼や脳にダメージがあったわけではない。「防殻」がそんなヘマをするはずがない。ならば霞の原因は外界にあるのだ。

 半身を起こす。うつ伏せたまま上体を上げた。その拍子に何かを吸い込んでしまったようで、呼吸器官が派手に乱れた。激しく咳き込みながら気がつく。視界の不透明さは粉塵によるものだと。

 周囲は瓦礫の山だった。粗暴な子供が、手当たり次第に物を落として回ったかのように、無秩序な瓦礫が崩れて固まり、周囲に山と谷をつくっていた。山と谷からは、枝のようなものが生えていた。まるで何かの芸術のように、誰かが意図して差し込んだかのように。枝のような腕や脚、あるいは体の一部分が、力なく、くたりと。

(……)

 体を支えていた腕が震え出してきてしまい、私は再び冷たい床に頬をつけた。

 「防殻」のおかげか、私の周囲はクリーンだったが、山と谷には川が必要だろうと言わんばかりに、周辺には色取り取りの華が散っていた。やや粘着質のある華たちが、山に広がり、谷に流れ、辺りをまだらに染め上げている。粉塵が晴れてきたせいもあるのだろう、妙な臭いが鼻をついてきた。きっと、山や谷に圧迫されて潰れた肉の臭いも関係しているのだと思う。様々な種族から溢れる「血」の臭いに、私は吐き気すら覚えていた。

 上体を起こした時に確認した数字が頭を過っていく。煙の向こうに見えた「1」という数字。壁面に大きく描かれたあれは、たぶん階数を示すものだろう。ということは、少なくとも私は、十三階のカメラ売り場から一階のグランドフロアまで叩き落されたということになる。

 生存者は、いるのだろうか。十三階から一階までの落下。普通の人間ならばそんな衝撃には耐えられない。しかし私のような防衛能力を持つ人間、あるいは特異な体質を持つ異界人ならば…。

 低層階にいた客ならばどうだろう。いや彼らは落下の高さこそ少ないが、そのぶん上から落ちてきた瓦礫を直接に浴びた可能性がある。ギガ伯爵の移動中にも似たような事故が起きていたけれど、あれは逃げ場のある広い空間でのことだ。ビル内というエリアが限定されている状況下で、どれだけの客が瞬時に対処できるのか。

 そもそも私が目を覚ましてから今まで、呻き声のひとつすら聞こえてこないのだ。

 聞き取れなかっただけであって欲しい、と私は願った。

 願った先で何かが手に触れる。視線を移すと、それはカメラだった。一眼レフタイプのカメラ。それは私が崩落の直前まで手に取っていたものだ。そのせいで「防殻」の内側に紛れ込んでしまったのだろう、傷ひとつない状態でカメラはレンズを輝かせている。

 それを見て、私はようやく、一番始めに思い出さなければならないことを思い出していた。

 ファインダー越し。目の合った女性。

 顔を上げる。上空にはもちろん天井がなかった。始めから吹き抜けで設計された建物のように、円い虚空がどこまでも伸びている。

 虚空の先は見えない。少なくとも十三階までは続いているのだろう。しかしその代わりとでもいうように、虚空からゆっくりと下降してくる人影を見ることはできた。

(ブラッドブリード…!)

 まだあまりにも遠すぎて、目鼻立ちはおろか、姿形すら判然としない。しかし影に吸い寄せられるようにして消えていく、細い線を確認することはできた。それは各フロアの端でかろうじて落下を留めた、瓦礫たちから立ち昇っている。

(“吸血”)

 食い止めなければ。ブラッドブリードに吸血された者は転化し「グール」に堕ちる。HLの街中でグールを大量に生み出すわけにはいかなかった。

 周囲に素早く目を通し、手近なガラス片を手に取る。恐らく“彼女”はまだ、私がここで倒れていることに気がついていない。これだけの数の瓦礫と、粉塵と、死体だ。不用意に動きさえしなければ、“彼女”の目をくらますことは可能だろう。

 正面から挑んでもまず勝ち目はない。私のカードは「防殻」がひとつきりだった。いやたとえカードが十分に揃っていても、私に勝ち目はなかっただろう。「牙狩り」も、私にそんな戦法は望んでこなかった。私の役割は後方支援。仲間の援護だ。

 つまり今の私にできることは、クラウスお兄様たちの到着を待つこと、それまで“彼女”をこのビル内に留めておくこと、そして“彼女”の吸血を妨害しグール化の被害を食い止めることだ。

 少なくとも、一番最後の仕事については自信がある。手持ちのカードは「防殻」ひとつきりだが、切り札はまだ別に残されていた。

 私の特性、血晶術。

 これは指定した範囲内の血液を結晶化することのできる能力だった。

(早く)

 彼女がこのグランドフロアに降り立つ前に、人々の結晶化を終えなければ。さすがのBBも、結晶化してしまった血液を吸血することはできない。

 手の中のガラス片を握り締め、自身の血液で陣を描こうとした時だった。

(それでいいの?)

 ゆっくりと、疑念が頭をもたげてくる。

(本当に、それでいいの?)

 私は目の前の惨状を見つめた。崩れた瓦礫。投げ出された手足。

 体内で循環している血液を石のように固める。結晶化させる。それが私にできることだった。そしてそれは、血液を凝らせるということは、相手の死を意味するのだ。

(生存者は)

 いるのだろうか。わからない。未だに助けを求める声は聞こえない。けれど声を上げられないだけだとしたら。意識を失っているだけだとしたら。

(でも、グールになるよりは)

 いいのだろうか。マシなのだろうか。そんなもの人それぞれだろう。たとえ理性を失い、自身を失い、「屍喰い」に成り果てたとしても、それでも生き永らえたいという人だっているのではないだろうか。

 上空の影は徐々に輪郭を濃くしてくる。近づいてくる。

 私は奥歯を噛み締めた。正しい選択肢などきっとない。

 今私にできることは、奪うか、奪わないか、その二択だけだった。





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