02:Zapp
呼ぶなよ呼ぶなよ呼んでくれるな。
と念じながら居眠りのフリを決め込んでいた俺の祈りはあっさりと砕けた。
「ザァーップ」
俺は黙って、顔面にかぶせていた雑誌を剥ぎ取った。引っ繰り返っていたソファから起き上がる。本音としちゃ無視を通したかったが、そんなことすりゃ後で血を見ることになるのはこの俺だ。なんせ相手はウチの副官サマなのだ。絶対零度の笑顔で手招きされて拒否できるヤツがいたとしたら、そりゃ考えナシの大バカだ。
俺は叱られないぐらいのスローペースでのそのそと立ち上がる。
番頭が座るデスクの前には、既にクソ女の姿があった。パシられたレオと入れ違いに入ってきたクソ女は、今日はまっすぐに番頭の方へ向かってくれたので、俺は大いに安心していたのだ。そんで俺は、俺の名前が呼ばれることがないように祈った。そりゃもうセツジツに祈った。知ってるカミサマの名前は全部唱えた。だというのにこのアリサマなのだから、やっぱカミサマなんてクソ食らえだ。
ああイヤだイヤだ。ああイヤだイヤだ。
嫌々オーラを隠さないのはちょっとした反抗心だ。俺がこのクソ女を嫌ってるのは番頭だって知ってるはずだ。知ってて呼び出すんだから番頭も性格が悪い。いや番頭の性格の悪さは今に始まったことじゃねえけど。
クソ女はなァにがそんなに楽しいのか、ニコニコスマイルで俺のことを待っている。手にはもちろんデジタルカメラ。ああこりゃ撮るぞ、さあ撮るぞ。俺は掌の中に忍び込ませておいたジッポをこっそりと握り締めた。つーかコイツ何でこんなピラピラした服着てやがんだ。デートか。デートなのか。色ボケやがったかクソ女め。
(俺の誘いは軽くあしらいやがったくせに)
胸の内側がムカムカしてくる。まるで胃もたれでも起こしたみてえだ。
「ザップさん!」
バシャリとシャッター。ピカリとフラッシュ。
胸のムカつきを振り切るようにして、俺は手の中のジッポをキツク握り締めた。
「だァから」
ジッポからブツリと血を出す。――斗流血法。
「撮んなっつってんだろーが、よ!」
「あ!」
伸ばした血液でクソ女のデジカメを奪い取る。瞬発的な血液の動きにはさすがの女も追いつけなかったようで、読み通り、デジカメはまんまと俺の手だ。
女は声を立てて喚いた。
「あー! ずるい!」
「ずりーのはどっちだ! ヒトのことバシャバシャバシャバシャ」
「だってザップさんカッコイイから!」
「顔な! ガワな! そこだけ褒められたって嬉しか――」
「ザップ」
俺と女とのやり取りに低い声が割って入る。
ぐ。ぐぐぐ。
俺は音がしそうなぎこちなさで番頭の方を見た。
番頭は俺たちの方なんて見ちゃいなかった。書類に目を落としている。けどその声には絶対的な響きがあった。
「返してあげなさい」
「…………」
ぐ。ぐ。ぐーぬーぬー。
今すぐ握り潰してやりたい衝動を堪えながら、俺は手の中のデジカメをクソ女に向けて放り投げた。投げないでよーとか何とか怒られたが、そんなん知らん。もう知らん。
「2人共、頼むから仲良くやってくれ」
ため息混じりに番頭が顔を上げる。いやいやスターフェイズさん、ヒトには相性ってものがあるんです。アンタと姐さんだってその点では俺らとトントンだろ。とは思ったけど口答えになりそうなので言葉にするのはやめておいた。
「いいか2人共、道中や行き先で、余計な仕事を増やさないでくれよ」
「…………」
完全に不貞腐れモードに入ってそっぽを向いていた俺は、そこでちょっと「ん?」と思った。それじゃまるで。その言い方じゃまるで。
「うん、この手紙をだな、“夫人”に届けて欲しいんだ」
俺の「ん?」を察したのか、番頭はデスクの上で両手指を組んで朗らかに笑った。
「もちろん、2人で」
「はあああああ!?」
俺は叫んだ。いや叫ばずにはいられなかった。
「ちょ、スターフェイズさん!!」
「言いたいことはわかる。だが“夫人”はお前をご指名だし、且つ新入りの顔も見たいときてる。お前たちに行ってもらうほかないだろう?」
「け、けどぉ!」
泣き言入りかけた俺を手の平で制して、番頭はガチな顔をする。
「ザップ。“夫人”はライブラにとって大切な、大切な、たいっっっせつなスポンサー様だ」
「…………」
俺は悟った。あ、これもうダメなやつだと。こうなったスターフェイズさんに歯向かえるヤツなんていやしない。いるとしたら旦那くらいだ。
「ザップ。後はわかるな?」
「…………」
「ん?」
「…………ウス」
俺は泣く泣く敗北した。ああなんて今日はツイてない日なんだろう。イヤな女とツーマンセルでお使いなんてゲロが出そうだチクショウ。
「それじゃあ次にライト」
「はい」
俺の時とはあからさまに変えた優しい声色で、番頭はクソ女の方を向く。エコヒイキじゃないっすかね!? それエコヒイキじゃないっすかね――!?
「“夫人”は男好きで有名な方だから、普段は女性の新入りなんて指名されない。だが君がクラウスの分家の子だと知って、今回は興味を持たれたみたいだ。不愉快な思いもするかもしれないが――」
「大丈夫」
遮るようにしてクソ女が笑う。
「そういうの、もう慣れっこだから」
何故だか番頭はそこでちょっと悲しそうな顔をした。何だよ何だよ。傍で見ていた俺は思わず二人を見比べてしまう。
確かに“夫人”の面食いぶりはクソ女のノリが可愛く思えるほどキチ入ってるが、だからってベッドに引きずり込まれるわけでもねえ。そこらのホスト程度にヨイショすれば満足してくれるので、俺からすりゃ楽な案件だった。女に対しても小姑めいた嫉妬心を全開にするだけで、口はヒドイが手は出さないぶんマトモな方だ。
だから番頭がそんな顔をする理由が俺にはさっぱりわからなかった。
何をそんなに。エコヒイキが。面白くねえ俺は小さく舌打ちをする。
その横でクソ女は、番頭から「遅くならないようにな」と親のような忠告を受けて、子供みたいな返事をしてやがった。