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 入局して一月もすれば、お気に入りの場所や自分なりの定位置が、何となく出来上がってくるものだ。それはラウンジで一服する際に座るベンチの位置だったり、食後の歯磨きで使う水道の箇所だったり――もしくは食堂における場所取りで生かされる事となる。

 その点において、本日の常守の成果は良好だった。狙い通り、四人用のテーブル席を確保できたからだ。それも明るい陽射しがたっぷりと降り注ぐ、窓際に近い方のテーブル席だ。

 縢などは「眩しすぎる」だの「灼かれて溶ける」だの不健康な文句ばかりを並べ立てていて、腹に据えかねる事甚だしかったが、その縢も今は席にいない。ゲームのアップデート日がどうの、と言いながら、飲み込むような早さで昼食を平らげ、さっさと席を立ってしまったのだ。一度宿舎に戻る事は明白だったので、ミーティングの時間までには戻って来るように、と一応釘は刺しておいたのだが、効果の程は不明である。

 もうひとりの同席者である征陸も、つい先程、煙草を吸うためにテラスへ出て行ってしまった。無論テラスにも席は用意されているが、十二月の風を受けながら昼食にはありつけない。

 それで常守は四人用のテーブル席に、ひとり残される事となったのだ。これを贅沢と見るべきか孤独と見るべきか、といった事をつらつらと考えながら、常守は温かい蕎麦を啜る。

 昼時、とはいっても終わりに近い刻限なので、食堂内はそこまで賑わっていない。ひとりで食事を摂っている課員の姿も多い。従って常守が四人用の席を占有していても悪目立ちする事はないのだが、三人分の空席を前にしながら摂る食事は、少し味気ない。

 それにしても男性陣の食事スピードには驚かされてしまった。縢は始めからあの調子だったので分からなくもないが、征陸などは常守の倍の早さで定食を空にしていた。常守はまだ半分程残っている手元の蕎麦を見下ろす。征陸は特に急いでいるふうもなく平然と箸を進めていた。それであれなのだから驚いてしまう。

(まさかこれも執行官特有の…!?)

 なんてね、と常守は自分の考えに自分で苦笑した。これで六合塚の食事スピードが速ければ一考していただろうが、生憎と六合塚は先約があると言ってどこかへ消えてしまっていた。

 それで常守は成り行きで、縢と征陸と食事を共にする事になったのだった。今までにあまりない組み合わせだったので、どうだろうか、と少し不安な面もあったのだが、不自然な沈黙や齟齬もなく、円滑なコミュニケーションを取れたと思う。ちなみに宜野座と狡噛は、こちらが声をかけるよりも早く姿を消していたので、行き先は不明だ。

(狡噛さんは佐久耶さんのところかな)

 ちゅるりと蕎麦を啜りながら考える。ああでも、四係には四係のシフトがあるのだろう。一緒に昼食を摂ろうと思って摂れるものではないのかも。

(今度訊いてみないと)

 直理にではなく、狡噛に尋ねてみても良いかもしれない。なにせ直理を気遣って欲しいと、常守に頼んできたのは狡噛なのだ。

(狡噛さんと3人での食事でもいいけど…)

 同性として、と狡噛は注釈していた。男の狡噛からでは至らない面もあるだろうから、その点は同性の常守にカバーして欲しい。狡噛はそう言っていたのだから、やはり常守と直理の二人きりの状況がいいだろう。個人的にもその方が有り難い。それは狡噛を疎んじての事ではなく、同性で年上の直理に、常守としても色々と相談したい事があるからだ。

(前みたいに、お昼を一緒にしてもいいと思うけど…)

 蕎麦に付いてきたかき揚げを齧りながら、常守は考える。

(ううん、お昼に限定しなくてもいいよね。仕事終わりに……お茶……夕飯……でも執行官は食堂以外でご飯摂れないから……)
「朱ちゃん」
(夕飯食べるなら外の方がいいんだけどなぁ。うーん……執行官を私用で外出させるのって、そんなに大変なことなのかな……)
「朱ちゃん?」
(1度訊いてみようかな……宜野座さん……怒られそう……ここはやっぱり四係の……)
「朱ちゃん!」
「わっ」

 間近からかけられた声に、常守は仰天して目を見張った。苦笑したふうの直理が、常守の向かいの椅子を引く。

「もう、何度声かけても気づいてくれないんだから」
「え、あ、佐久耶さん?」

 突然の展開に常守は暫し呆然としてしまうが、直理は先刻から何度か声をかけてくれていたらしい。きっと深く考え込みすぎるあまりに、周りが見えなくなっていたのだろう。

 恥じ入りながらも常守は口を開く。

「佐久耶さん、もう平気なんですか」
「うん、大丈夫大丈夫。その節はご迷惑おかけしました」

 笑う直理の顔は華やかで明るい。言葉通り、本当にもう大丈夫なのだろうと、常守はほっと胸を撫で下ろした。

 宣言通り狡噛は、常守の見舞いの翌日から職場に戻って来ていた。従って直理の回復も明らかだったのだが、当人の顔を見に行こうにも仕事に追われていて侭ならなかったのだ。

 だから直理とは、あの山小屋での一件以来になる。

 ――お願いだから、あの家には近づかないで。

 そう言ってきた直理の顔は幽鬼じみて青白く、その迫力と意味不明な言葉の羅列に常守は思わず震え上がってしまったのだが――ともかくも、今の直理は、常守のよく知る直理だった。

 向かい側の席に腰を下ろした直理は、常守に向かって今はひとりかと尋ねてきた。それで常守は簡単に、先刻までは縢と征陸がいた事を説明した。

「そっか、行き違いか。惜しかったなぁ」

 言って直理は、膝の上の紙袋に手を入れる。

 とりあえず残りの蕎麦を片付けにかかりつつ、常守は直理を見守った。

「はい、これ。朱ちゃんに」

 やがて取り出された小さな包みに、常守は目を丸くする。綺麗に包装されている所から察するに、それは常守宛のプレゼントだった。

「え? でも…」
「この前貰ったお見舞いのお礼です。――お花、ありがとうね。ちゃんと飾ってるよ」
「いえ、そんな…」

 恐縮しながらも、常守の心は弾んでしまう。それでは、気に入って貰えたのだ。お見舞いに花、というのは凡庸すぎるかと悩んだのだが、その笑顔を見ていると報われた心地になる。悩んだ甲斐があったというものだ。

 常守は蕎麦の載っているトレイを脇に退けてから、おそるおそる、両手で包みを受け取った。――軽い。ちょっと拍子抜けする程の軽さだ。

 開けてみても構わないだろうか、と目で問うと、頷きを返されたので、常守はその綺麗な包装を惜しみながらも、ラッピングに手をかける事にした。

「わあ…!」

 鮮やかな包装紙の中から現れたのは、更に色鮮やかな花だった。透明なガラスボトルの中で、幾つもの大輪が見事に咲き誇っている。ピンクを基調にしたその花々は、今朝摘まれたばかりのように瑞々しく美しい。

「これ…」
「朱ちゃんからは生花をもらったので、私からのお返しはプリザーブドフラワーにしてみました」
「……プリ?」

 何だろう、今物凄く聞き慣れない単語を耳にした気がする。まさか排斥単語だろうか。

「あの……ドライフラワーとは別物なんですよね?」
「あはは、似て非なるってところかなぁ。――ドライフラワーは花を乾燥させたもの、プリザーブドフラワーは特殊な薬剤に浸して作るもの。だからほら、乾燥させて作るドライフラワーより、花が生き生きしてるでしょう?」
「……そう、ですね」

 頷きながらも常守は、思わずドキリとしてしまう。

 特殊な、薬剤。

 ――あんなの、ただのバラバラ殺人事件よ。

 六合塚の声が脳裏でよみがえる。

 ――遺体を特殊な薬剤で加工して、アート気取って街中に展示したのは特殊だったけど。

 特殊な、薬剤。――標本事件。

 ただの偶然だ、と常守は思う。悪い偶然が合致してしまっただけで、そこには何の他意もないと。しかし嫌な音で鳴る心臓が、常守の理性を追い込んでいく。

「えーとね、紫外線だけは避けた方がいいみたい」

 自身で発した言葉の意味に、やはり直理本人は気づいていない様子だった。ボトルと共に現れた小さな取扱説明書を、声に出して読み上げている。

「そうすれば長い間お楽しみいただけますって」

 常守はぎくしゃくと頷いた。引き寄せたボトルを手の平で包み込む。紫外線を避けるべきなら、このテーブル席では具合が悪い。窓に近い四人席には、今も冬の陽射しが当たっている。

 陽射しから守るようにして花を隠しながらも、常守は手の中のものにわずかな悪寒を覚えていた。摘み立ての生花のように瑞々しい花。薬剤に浸され加工された物だとはとても思えない。――ならばきっと、標本事件の被害者たちも。

 この比較は失礼に当たる、どちらに対しても。それを承知していながら尚、常守の思考は止まってくれない。一度走り出してしまったそれは、どこまでも一直線に駆け抜けて行ってしまう。

 そう、あの日もこんなふうだった。狡噛をパラライザーで制圧したあの日。常守の頭はめまぐるしい速度で働き、わずか数秒の躊躇の間に絶対的な答えを弾き出したのだ。

「ありがとうございます。大切にします」

 礼を述べてから常守は顔を上げた。これもきっと失礼に当たるのだろう。理性はそう警告を発していたが、常守の働き続ける心はそれを易々と飛び越えてしまう。内発的な発意を翻す必要はない。直理もいつだったか、そう言ってくれた。そのいつかの言葉に後押しされる気持ちで、常守は口を開いていた。

「あの」
「うん?」

 直理は不思議な微笑を浮かべて常守を見ている。

「わたし、佐久耶さんに訊きたいことがあるんです」
「うん、いいよ。何でも訊いて」
「……っ」

 心は先へ先へと走り続けていたが、実際に口に出す段になると、どうしても躊躇いが生じてしまう。

 それでも常守はそこを乗り越えた。そうまでして常守を突き動かす衝動は極単純なものだった。――知りたいのだ。

「標本事件のことについてです」
「……」

 予想に反して、直理は微笑を崩さなかった。むしろその双眸には愉しむような色が宿っている。

「今の朱ちゃんは、あれをどこまで知ってるのかな」

 穏やかな声だった。常守は直理の様子を窺いながら、慎重に言葉を紡ぐ。

「…おおよその概要くらいです」
「私と佐々山執行官が攫われた件については?」

 さらりと発された言葉に、常守の方が息を呑んでしまう。

「……聞いてます」
「そう」

 直理は微かに微笑った。

「それだけ知ってるなら十分だと思うけど。朱ちゃんは、他に何が訊きたいのかな」

 その時になって常守は、直理が体調を崩していた事にようやく思い至って狼狽した。そうだ、直理はあの山小屋で、犯罪係数を変動させる程の衝撃を受けたのだ。それが標本事件に類するものなのかは分からない。分からないが、そこからようやく立ち直った人に対して、こんな話を聞かせてしまっても良いものなのだろうか。

 しかし今さら話を打ち切る事もまた、常守にはできなかった。その欲求をひとつの鋳型にまとめるのならば、それには好奇心という名前が付くのだろう。

 常守は知りたかった。訊かずにはいられなかった。

「……佐久耶さんと狡噛さんが、元監視官だったっていう話も、この前、伺って……」

 うん、と言って直理は首を竦める。

「……隠すつもりはなかったんだけどね。結局、黙ってるようなかたちになっちゃった。ごめんね」
「いえ」

 常守は首を振る。責めたいわけではない。

「いいんです、それは、全然……ただ」
「ただ?」
「……わたし……」

 どう言えばいいのだろう、どういった言い回しが適切なのだろう、と常守は束の間思い悩み、結局、ありのままの気持ちを打ち明ける事にした。

「わたし、知りたくて……。その時に、何があったのかを」
「どうして?」
「え?」

 突然の問いに、常守は瞬く。

 向かいの席に座る直理は、微笑を湛えたままだ。

「朱ちゃんは、どうしてそれを知りたいと思うの?」
「わたしは……」

 答えるために常守は自身の内側を見つめ、そしてそこに広がる空洞に気づいて愕然とした。

 どうして。――知りたいからだ。気になるからだ。知りたいと思うから、知りたい。

 では、何故そこまでして、常守は知ることを望むのだろう。直理と狡噛を襲った闇の正体を知りたいと思った。その輪郭を見極めたいと思った。その気持ちに嘘はない。

(それは――なかったことに、してしまいたくなかった、からで)

 隔離して、遠ざけて、見えなくしても、なかったことにはならない。目を閉じ耳を塞ぎ蹲っても、目の前のそれは消えてなくならない。ならば全てをこの目で確かめてみようと思ったのだ。視野に入れ、ひとつ残さず、余すことなく見つめてみようと。

 闇を恐れる気持ちはある。それに自分も捕らわれてしまうのではないかと、危惧する気持ちも確かにある。

(それでも――)

 知りたいと思うのは、何故なのだろう。

「……わかりません」

 膝の上に置いた手を握り締めて、常守は項垂れた。自身の内側の事すら分からないというのに、他人の内情を暴きたいと思うなんて、実に身勝手な振る舞いだ。それでも、走り出した気持ちは止まってくれない。逸る心臓は常守を先へと導こうとする。

 そっか、と直理が頷いた後には沈黙が落ちた。こっそりと様子を窺うと、直理は何かを考え込んでいるようだった。

「……それじゃあ、自分で調べてみたらどうかな」
「え?」
「ほら、私たち一応刑事なわけだし。自分で調べてみたらどうかなって。過去の未解決事件を。そうしたら、朱ちゃんがそこまでして知りたかったわけもわかるかも」

 それから直理は何かに思い当たったように、慌てて両手を振った。

「あ、別に意地悪で言ってるわけじゃないよ。教えたくないわけじゃなくってね……ただ、まぁ、できることなら、口にしたくない話題ではあって」
「すみません」

 頭を下げる常守に、直理は首を振る。

「ううん。いつまでもそんなこと言って甘えていられないしね。でもやっぱり、話し辛いことには変わりないから……けどね、朱ちゃんが調べてきたことについて、ああでもないこうでもないって、口を挟むことならできると思うの」

 だから、と言って直理は身を乗り出すようにする。

「まずは朱ちゃんが自分で調べてみて。それで、それができたら答え合わせをしようよ」
「答え合わせ」

 繰り返す常守に、直理は微笑った。どこか不思議な感じのする微笑だった。

「約束だよ」


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