05




 山中はなだらかで見通しも良く、林立するヒノキも蔓延る下生えも、指定の位置で大人しく佇んでいる風情だったが、それは明らかに人為的な労力によるものだった。

 その労力が、山小屋を境にしてふっつりと途切れている。小屋の脇から更に奥へと、山林を分け入った狡噛はまずそんな印象を覚えた。単に手が足らなかっただけなのかもしれない、単に後回しにされていただけなのかもしれない。しかし小屋から離れれば離れる程――山林の奥へ奥へと進む程、樹形は乱立し下生えは勢いを増し、山は鬱蒼と生い茂って上空から狡噛たちに覆いかぶさる。

 直理は最早藪に近い低木の群集に分け入っていた。声をかけながらその背中に続く狡噛だったが、焦燥には駆られていない。

 遠くに見える彼女の背中を追いかける――それはまるで時折見る夢の再現のように思われたが、直理の背中は夢のように遠くはないし、周囲も生気のない白ではなく、むしろ雄々しい緑に息がつかえるぐらいだ。

 第一、狡噛が少し本気を出せば、直理を捕えてしまうことは優に可能だった。しかしそれをせず見逃しているのは、彼女が体調不良を訴えていたからだ。

 あの場には新人監視官の常守が居た。その常守を不安にさせるような言動は、直理の性格上避けるはずだった。特に現場を見て気分を害した姿は、直理個人としても見られたくない類のものであろう。だから彼女は山中に分け入っているのだ。人目のつかない所にまで分け入り、そこでようやく膝を折るつもりなのだろう。――そう考えていたからこそ、狡噛は敢えて直理を阻まなかったのだ。

 そうしている内にも、草の群れから抜け出た直理が、その場で膝を突く姿が見て取れた。力任せに低木を踏み折りながら、狡噛もようやく藪から抜け出る。直理の傍らに駆け寄った。

 乾いた土に両手と両膝を突いた直理は、強く両目を閉じている。眉間に刻まれた深い皺が、彼女の忍耐を物語っていた。

「苦しいなら、吐いちまえ」

 直理の衣服に付着した草の切れ端を、丹念に払い落としてやりながら狡噛は囁く。

「出しちまった方が楽になる」
「……」

 直理は俯いたまま首を左右に振った。強情な、と狡噛は思ったが、悪い気分ではない。むしろ気分はすこぶる良かった。

 片手を地面に置き、もう片方の手で彼女の背中をさすってやりながら、狡噛は吐息だけで静かに微笑った。常守と征陸を遠ざけた直理が、自分のことは遠ざけないことが嬉しかった。傍に居ることを良しとしてくれている、弱った所を見せてくれている――そのことが、ぞくぞくする程に嬉しかった。

(可哀想に)

 吐き気を堪えている細い体が、手のひらの下で震えている華奢な背中が、憐れで可哀想でひどく愛おしかった。サディスティックな欲望がむらむらと湧き上がってくる。それは黒い獣にも似ていた。深淵を這い上がってきた黒い獣は、舌なめずりしながら直理を凝視している。

 不意に、狡噛は手を握られた。地面に突いていた方の手に、直理が手を重ねている。

「……ひどい……」

 食い縛った歯の隙間から、呻くようにして直理は呟く。乾いた土に、ぱたぱたと水滴が落ちた。

「……あんなの、ひどい……あんなの……」

 堰を切ったように嗚咽し始める、直理の手を取り助け起こしてやる。彼女は抵抗することもなく、されるがまま顔を上げた。透明な雫が、後から後から頬を伝い落ちていっている。

 土の付いた手で拭おうとするものだから、それを押し留めて、狡噛はコートの袖で直理の顔を拭ってやった。くぐもった声を上げた直理は、赤く充血した目で狡噛を見る。その目元からまたひとつ、涙が零れていった。

(可哀想に)

 凶悪な獣が牙を剥いて哄笑している。

 頭をもたげ始めた劣情に身を任せたくなったが、すすり泣く直理を前にすると忍びない。だから宥めるような口づけで、自身と彼女を慰めた。

 瞼、頬、唇――顔のあちらこちらにキスを受けている間も、直理の嗚咽は止まらなかった。小さくしゃくり上げながら、彼女は「ひどい」と繰り返す。

「……あんなの、知らない……ひどい、私……」

 あの陰惨な現場に、余程衝撃を受けたのだろうか。直理にしては珍しく取り乱している。

 狡噛はそっとその体を抱き込んだ。すると直理も子供のように狡噛にしがみついてくる。狡噛の首に腕を回し、声を押し殺しながらも泣き続ける。

「……あんなの、私じゃない……知らない、ひどい……浅緋なんて――知らない――」

 言葉を縺れさせながら、もどかしいように何かを言い募る直理が愛おしかった。あやすようにゆっくり、その頭を慰撫すると、彼女はますます咽び泣いてしまう。

 狡噛は唇だけで静かに微笑った。そうだ、こうしていれば直理には気づかれない。直理の体躯を抱き込みながら、狡噛は静かに微笑い続ける。

 直理が自身の腕の中にいることが嬉しかった。その身を委ねて泣いてくれていることが嬉しかった。何故ならこうしていれば彼女はどこにも行けないし、行かれないからだ。直理は狡噛の制御下にあった。やろうと思えば、狡噛の思うままにすることも出来る。

 体の中心を突き抜けていく喜びに、眩暈を覚えた。

 ――私を、閉じ込めてよ、慎也。

 緑の森を透かして、暗い小屋の惨状が見えた。点在する黒い影。女の躯。息が詰まる程の腐臭。

 狡噛は冷静だった。自分自身でも驚く程に、あの惨状を見ても心が動かされることはなかった。それはたぶん、幾度か夢想したことがあったからだろう。

 ――牢の中に放り込んでも、今度はきっと、鍵のことが心配になるよ。足枷や手錠を付けても、どうにかして逃げられるんじゃないかって、きっと安心はできないよ。

 あの惨状はきっと、何かの物語の結末だったのだと思う。丁度、狡噛と直理のような――。

(やっぱり、閉じ込めるのはなしだな)

 縋りついてくる両腕。慎也、と呼んで泣く声。――こうされる方が、余程イイ。密室に閉じ込めるよりも、手枷や足枷を嵌めるよりも、自分無しではいられないぐらいに強く強く狡噛を刻み込む方が――。

(喉が渇いたな)

 唐突に、狡噛はそう思った。ぼんやりと、腕の中の直理を見る。ひくりと震える直理の体は、ひどく美味しそうだった。


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