03




 統合情報課からの緊急出動要請などが下りてくる気配もなく、午前の勤務は平穏のままに終えることが出来た。

 ふう、と一息吐いた常守は、解体の済んだダンボール箱をまとめて近くの壁に立てかける。アラートが鳴り響く事もなかった為、延ばし延ばしにしてしまっていたデスク周りの整頓にようやく手を出すことが出来たのだ。

 重なっていたダンボール箱が無くなっただけだというのに、常守のデスクは見違える程にすっきりしたように思えた。そもそも常守は私室にもあまり物を置いていない人間なので、自然と職場のデスクも小ざっぱりとした風景になる。

 今一度デスクから距離を取って、自席の様相を確認し終えた常守は、「よし」と満足気に頷いた。任務完了、満足な出来栄えだ。

 それから転じて執行官席に目を向ける。

「……」

 一係に在籍している執行官は四名。使用されているデスクは四つ。そのどれもがごちゃごちゃごちゃごちゃと、雑多な物で溢れ返っている様はある意味で壮観だ。

 先刻までその内の二つを埋めていた、狡噛と縢の席は今は空だ。デスクの主人たちは昼時になった途端、監視官への断りもなくさっさと席を立って出て行ってしまったのだ。刑事課に配属されてから一月程。こうした執行官たちの勝手な振る舞いには未だに慣れない。

 無論常守は執行官たちの後に続くような愚行は犯さなかった。机周りの整理が途中だったし、何より上司の宜野座が立ち上がる気配を見せなかったからだ。上司を差し置いて昼食に出て行く事の無粋ぐらいは弁えているつもりだ。

 常守はちらりと隣の監視官席の宜野座を見遣る。彼は朝から一休憩入れることもなくパソコンに向かい続けている。八王子ドローン工場での捜査報告書を書いているのだろうか、と常守は推測する。

 金原被疑者への取り調べは未だに続いているという。続いているという、と曖昧な物言いになってしまう理由はと言えば、取り調べに立ち会わせて貰えていないからだ。新人を理由に宜野座から断られてしまった。しかし最終的な捜査報告書は読ませて貰うことになっているので、それを待っているのだが、宜野座からはそれきり何の音沙汰も無い。まだ事件の全容が明るみになっていないのだろう。

 もしくは、先日起こった町田での立てこもり事件の報告書を作成しているのかもしれない。狡噛、宜野座、直理の三名が、郊外の国立病院からの帰路に着いている途中で、急遽要請された二係からの応援に答え、ドミネーターも持たないまま現場を制圧してしまったというその事件に、勿論常守は同行していなかった。というより、事件自体をネットのニュースで知る有様だった。今の詳細な経緯についても、先頃四係の直理と護流から教えて貰ったばかりだ。

 つまり、そのどちらの事件の事にせよ、常守が宜野座を手伝えることはあまり無さそうだというわけだ。

 どうしたものかと思いながら隣席の様子を窺っていると、急に声をかけられた。

「常守」
「あ、はい」

 思わず声が裏返る。赤面した常守は俯いたが、宜野座はモニターから目を離すことなく、またキーを弾く指先を緩めることもなく、淡々と言葉を継いだ。

「先に昼を摂れ」
「え? あ、でも…」

 一応謙虚な態度を示して待ってみたのだが、宜野座からは一向に「俺の事なら構わなくていい」や「気にするな」といった気遣いの言葉は出てこない。

 常守はちょっと唇を尖らせてから席を立った。

「……すみません、それじゃあお先にお昼行ってきます」
「常守」

 オフィスを出かけた所でまた声をかけられた。今度は何だ、という気分で振り返る。

 宜野座は相変わらずモニターから目を逸らさない。

「島津千香。退院したぞ」

 瞬間、言われた意味が分からなかった。へ、と間の抜けた声を出す常守に、宜野座はようやく目を上げる。

「配属初日に、君が狡噛をパラライザーで制圧してまで保護しようとした、潜在犯の女性だ。サイコパスがグリーンゾーンにまで好転したので退院したと、先程連絡があった」

 あ、と常守は呟いた。脳裏で、様々な映像がフラッシュバックのようによみがえる。

 島津千香。

「……退院、したんですか」

 震えそうになる声を抑えながら、常守は再度確認した。

 宜野座は常守の目を真っ直ぐ見返し、首肯する。

「ああ」
「――っ!」

 感情の昂ぶりのままに万歳をしそうになってから、宜野座の前であることに気づいた常守は、緩みかける頬を咄嗟に引き締め頭を下げた。

「ありがとうございますっ!」
「……俺は何もしていない」
「いえ、それはそうなんですけど――いや、そうじゃなくって――」

 常守は顔を上げ、両手で頬を押さえた。唇が綻ぶのを止められない。

「よかったです、本当に。嬉しいです……本当に、わたし……」

 宜野座は束の間常守を見つめ、それからわずかに首を傾けた。

「…そうか」

 あ、と常守は目を瞬かせる。

(宜野座さん、今、微笑った?)

 ますます躍り上がらんばかりに高まる鼓動を抑えつけて、常守は声を上げた。

「わたし、お昼いただきますね!」

 ああ、と答えた宜野座はもうモニターに目を戻していたが、常守は緩む表情を抑え切れなかった。小さくガッツポーズを決めてから鼻唄交じりに歩き出す。

 自分へのご褒美だ。今日は大好きなカレーうどんにしよう。




 スキップでもしそうな上機嫌っぷりで出て行った常守の背中を、宜野座は半ば呆れて見送った。喜ばれるだろうという予想はあったが、あそこまでストレートに感情表現されるとは思っていなかった。

 ストレスレスが推進されている現代社会では、同時に感情の希薄化が進んでいるという声がある。ストレスにせよ負荷にせよ、一定の刺激がなければヒトの意識はなだらかに均されていくものだ、というのがその主張内容だが、宜野座は生憎とそれを実感した試しはなかった。刺激物で溢れ返っている刑事課内は、往々にして殺伐とした空気に包まれているからだ。感情の希薄化などというそんな平穏な事は、ここにいる限りは一生かかっても実感できないだろう。

 ただし刑事課の刺激物が働きかけるのはマイナス面の感情に対してだ。だから課内は殺伐とした空気に包まれるし、監視官はサイコパス管理を怠れない。逆に言えば、プラス面の感情に対しては希薄化が進んでいるのだろう。だから先程の常守の感情表現には驚いてしまった。ストレートに表わされた喜び。

 呆れるぐらいに素直だと思う。――そう、素直なのだろう、彼女は。だから宜野座が反対しても執行官の肩を持ってしまう。監視官と執行官の間で線を引かずに、むしろ踏み込むような素振りさえ見せる。穿った物の見方をせず、目の前にあるものをありのままに受け容れてしまう――最近の新成人は皆そういった気質なのだろうか。もしくは、あれは常守に特有のものなのだろうか。

 どちらにせよ、気がかりなことに変わりはない。素直であるということは即ち、何物にも染まっていないということであり、それは同時に染められやすい状態にあるという事だ。監視官と執行官の間に線を引かない彼女が、執行官の思考に染まってしまう可能性は万が一にも考えられる。十分に注意しなければならない。

 眼鏡のブリッジを押し上げて眉間を揉み込みながら、手首のデバイスで自身の色相をチェックする。鶴来(ツルギ)に処方して貰った薬が効いているのか、先日よりは澄んだ色をしているが、それでも配属当初と比べれば大分濁ってしまっていた。

 ――三年前から上昇の兆しは見えていたけど…。

 鶴来の声が耳の奥でよみがえる。

 ――顕著な数字となって表れ始めたのは……ここ一年ぐらいだね。上昇の原因に心当たりは?

 ホログラム表示を消して宜野座は嘆息した。原因は恐らく、直理だろう。直理の復帰。それが宜野座の犯罪係数にマイナス面での刺激を与えているのだ。

「……そういえば、直理も昔はあんなふうだったな……」

 よく笑い、よく喋り、好意をストレートに表現していた。眩しいくらいに明るい色相と、公平で素直に人を見る眼差し。

 ギノ。

 振り返って笑うかつての直理。その笑顔には絶対的な信頼が込められていた。しかしそれを裏切ったのは、他ならぬ宜野座自身なのだ。

 胸の奥底から湧き上がってきた悔恨に瞼を閉じていると、誰かがオフィスに入って来る音が聞こえてきた。目を開けると、入り口近くに青柳監視官が佇んでいる。

「青柳さん」

 驚いて声を上げると、青柳は微笑って手を振った。宜野座のデスクにまで近づいて来る。

「今ちょっといい? ――あら、誰もいないのね。みんなお昼?」
「はい」
「ならちょうどよかった。狡噛くん辺りがいたら、俺にも見せろって割り込まれるんじゃないかって面倒だったのよね――はい、これ」

 渡された書類は二部あった。目を通す前に青柳が説明する。

「この前宜野座くんに初動で動いてもらった、町田の立てこもりの捜査報告書と供述調書。上に上げる前に、一応宜野座くんにも目を通しておいてもらおうと思って」

 合点のいった宜野座は頷いた。二係からの緊急要請に応えて動いた、町田の立てこもり事件。初動は宜野座が担った為、その部分の捜査状況は宜野座が記述し、後の結果報告や仕上げは青柳に引き継いだのだ。その報告書が完成したので、共報告者である宜野座に確認を取りに来たのだろう。

 礼を述べながら早速書類に目を通す。宜野座たち一係が担当したのは被疑者の捕縛までだったが、青柳から手渡された報告書にはその後の経過が細かく記されていた。――曰く、ドミネーターによるサイマティックスキャンの結果、捕縛した男性女性共に潜在犯の計測結果が出た為、そこで改めて逮捕。病院での軽傷の処置の後、公安局内で勾留。事件の全貌を掴む為、取り調べを開始するも――。

「女性は釈放?」

 宜野座の声に青柳は頷く。

「そうなのよ。突然サイコパスも犯罪係数も好転しちゃって」
「あるんですか、そんなこと」
「珍しいことは珍しいけど、ないわけじゃないって。けどメディックも首を捻ってたわ。ただでさえストレスのかかる留置所での勾留中に、サイコパスが好転するなんて…」

 宜野座は書類の続きに目を通す。

「……男性の方は更生施設へ移送されるんですね」
「女性とは違って、好転反応も見られなかったしね。それに取り調べしても要領を得ない受け答えが多くって。結局のところ、興奮して立てこもりして御用になったって話だから、これ以上の勾留は無意味だろうって――上が」

 如何にも苦々しい言い方に、宜野座は思わず苦笑を洩らした。青柳は昔からこうなのだ。公安局の上層部に対して反発心を抱いている。気持ちは分からなくもなかったが、青柳はそれを隠そうともしない。彼女が中々昇進できない理由は明らかだった。

 青柳は舌打ちして髪を掻き上げる。

「どれだけ供述取っても報告書書いても、結局のところは犯罪係数の数値がモノを言うんだから……嫌になっちゃうわ、全く」
「禾生局長の前では言わない方がいいですよ、それ」
「まさか。そんな恐れ多いこと」

 おどけたように目を丸くしてみせる青柳に、宜野座は苦笑して書類の束を示す。

「その割には皮肉の効いた報告書に仕上がってますが」
「それはわざとよ、もちろん」
「査定に響きますよ」
「別にいいわよ、今さらそんなもの」

 ツンと顎を上げてみせる青柳の度量に、今度こそ苦笑の吐息を洩らしながら、宜野座は再び文面を目で追いかける。

 その目が、ある一点でふと止まった。

「……通報を入れたのは女性なんですね」

 道の真ん中でカップルが口論していてうるさいし邪魔――そんな匿名の通報が、自治体のセンターに入ったのが事の発端だった。自治体から地区の治安維持を委託されているウォッチャーたちは、通報内容に従って現場に向かい、そこで二名の潜在犯を発見した。その為刑事課にお鉢が回ってきたのだが、肝心の現場は寂れた旧歓楽街だったのだ。まともな人間ならばまず寄りつかないような地域で、騒音についての苦情が通行人から入ってくるものなのかどうか。それは宜野座も現場で抱いた疑問のひとつだった。

 しかしそれが当の女性本人からだとすれば、まだ納得がいく。

 青柳も「そうなの」と頷いた。

「でもね、DVを受けていた痕跡はなかったし、なにより女性自身が、男性からの暴行や暴言については否定してるのよね」

 男性からの圧力に耐えかね、助けを求める意味で匿名の通報を入れてきたわけではないようだ。

「では、何故通報を?」
「黙秘。追及しようとしたところでタイミング良くサイコパスが治っちゃって、釈放」

 青柳は悔しそうに首を振った。

「さっきも言ったと思うけど、男の方は何言ってるかよくわからないし……なんだか消化不良で嫌になるんだけど、これ以上はこっちも調べようがないのよね」

 宜野座はもうひとつの供述調書の方に目を落とした。

 真意の判然としない通報理由。一時的に気持ちが昂ぶっただけなのだろうか。しかし女性自らが通報を入れた以上、どんなに小さくとも、そこには「見つけて欲しい」「来て欲しい」といった気持ちが込められていたに違いない。

 供述調書は丁寧に取られていた。分厚い束をぱらぱらと捲ると、ある言葉が目に飛び込んで来た。余程興奮して捲し立てたのだろう、所々に、不明瞭で聞き取れず、といった注釈が入った文面には、男の言葉がそのままに並べられていた。

 曰く、

「あいつのせいだあいつのせいだあの女のせいだおれのせいじゃない」

「あの女がいるとおかしくなる。あの女がいるからおかしくなるんだ」

「あの女は化け物だ。人間じゃない」

「悪魔だ、鬼だ」


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